劇評講座

2013年4月16日

■準入選■【『夜叉ヶ池』(宮城聰演出)】平井清隆さん

■準入選■

平井清隆

 『夜叉ヶ池』は、泉鏡花が大正2(1913)年に発表した戯曲である。今公演に当たり、オープニングクレジットで、あえて時代は「現代」と記されていた。およそ100年も昔に書かれた作品がなぜ「現代」なのか?
 ひとつには、幽玄ともファンタジックとも評される鏡花の作風によるところも大きい。この世とあの世を結ぶ黄昏時のごとき色彩を帯びた独特の世界観は、時間や空間と言う軛から解き放たれている様に思える。また、「紡ぐ」という表現に相応しい鏡花の日本語の美しさも要因であろう。鏡花の織成す言葉は、聞く者、読む者を作品世界へと誘う妖しくも抗う事の出来ない魔力を持っている。だが、無論、それだけではない。
 物語は、ほぼ、晃と百合の住む山里の小さな小屋で進む。晃は、鐘楼守の弥太兵衛の死に目に会った事と、なにより百合の美しさに魅かれ、自らが鐘楼守となった。百合の美しさは、見目だけではない。琴弾谷に流れる清流を思わせる清らかな心根の美しさが、晃をこの地に留め、「物語の人」ならしめたと言える。百合の心は、人が本来備えている、或は、求めている心の美しさなのかもしれない。
 しかし、百合は、必ずしも「人」とは言えない。人と、人ならざる者の間に属する、それこそ黄昏時のような存在である。また、百合の心根を清流にたとえたが、百合の存在そのものが清流であり、自然の代名詞であるとも考えられる。晃と百合の、凛とした透明感のある演技が、それを一層際立たせている。
 人が、人ならざる者の声を聞く術を失って久しい。鐘楼守の後を引き受けることを一笑に付した鹿見村の村人を我々は笑えない。鹿見村の村人は、まだしも、暗闇に怯えることもあったろう。しかし、私たちは、自然に対する「畏れ」すらなくしてしまっている。自然を思うがままに作り替え、天災も人智で防げると思い込んでいる。百合という「いけにえ」で旱魃を逃れようとした村人と、科学・技術という蟷螂の斧を振りかざす私たちとの間に違いはない。村人の姿は、自然を破壊し、自然からしっぺ返しを受ける私たち現代に生きる者の姿そのものではないだろうか。
 だが、村人も真剣ではある。いけにえの儀式に託け、百合を裸に剝こうとする辺りは、下卑た笑い声とともに、人の愚かさ醜くさを端的に表している。しかし、旱魃から逃れ、生き抜こうとする点においては、真剣そのものである。それがたとえ、百合に命の犠牲を強いる身勝手なものであったとしても、破滅に導く引金を自らの手で引く事であったとしても、である。集団心理やエゴによって、いとも容易く狂気に走る様は、効果的に使われた手太鼓の音が鳴るたびに、観る者に恐怖を与える。その恐怖は、私たちの内に潜む醜い面が太鼓の音に共鳴しているのかもしれない。そう思うと、一層、背筋の凍る思いがする。
 一方で、白雪姫とその一党たち、すなわち人ならざる者は、徹頭徹尾、滑稽と言える程ユーモラスに描かれている。晃の百合への想いの真摯さや、村人の狂気とあまりに対照的である。
 白雪姫が鐘の約束を恨めしく思うのも、格別に森羅万象の理に関わるような大仰なものではない。愛しい剣ヶ峰千蛇ヶ池の君の元に行きたいというだけである。その恋とて、ユーモラスな演技と相まって、一世一代の身を焦がす様なものであるとか、魂の片割れを求めるなどと言う様な重厚さは欠片もない。イケメンタレントの「おっかけ」という風情すら漂う。晃と百合の愛の持つ緊張感とは対極にあるように描かれている。白雪姫の出立によって村里が水に飲み込まれる恐ろしい筈のラストシーンですら、コメディでしかない。
 人ならざる者から見れば、人の営み、生死すらも、ちっぽけで、滑稽で、児戯のようなものであるのかもしれない。それは、東日本大震災や九州の長雨などの自然の猛威を目の当たりにした私たちに逆説的に訴えかけてくるように思える。
 舞台の場面ひとつひとつが、現代を生きる私たちに、根源的な課題を問いかけてくる。なるほど、100年も昔のことではなく、現代と言って何の差支えもない。
 全体が、山沢学円という記録者の目を通すことで、客観性・普遍性を持たされていることも見逃せない。唯一、客席から登場し(この登場も秀逸である)、客席へと退場するのも、「物語の人」ではない事を示すものであろう。
 しかし、なにより感じたのは、理屈や解釈ではない。自刃した百合を追い、自ら首元を掻き切り百合と共にある事を選んだ晃。二人の、琴弾谷の清らかな水のごとき愛に殉じた姿を見た者は、その心を動かさずにはいられない。その心の動きこそが、古今を超え、東西を問わず、人が人である証であると言えよう。それこそが、「現代」でも色褪せる事のない、人としての心情なのだと思う。
 晃は言う、「水は美しい」と。至言である。