2013年8月15日

■依頼劇評■【芸術“笑”演劇のゆくえ】奥原佳津夫さん 『脱線! スパニッシュ・フライ』(ベルリン・フォルクスビューネ/ヘルベルト・フリッチュ演出)

■劇評塾卒業生 依頼劇評■

芸術“笑”演劇のゆくえ

奥原佳津夫

 劇場の壁いっぱいまで奥行きを取った深い舞台に、一枚の巨大なペルシャ絨毯が敷かれ、後方で大きく波打っている。その、人が隠れるほどのうねの手前にトランポリンが仕込んであって、これを俳優たちが自在に使いこなすのが、この作品の空間造形の肝。ほかには何もない。
 戯曲の設定は富裕な工場主の邸内のはずだが、裸舞台の、抽象的と云ってよい空間で、ここでどんな演技が繰りひろげられるのかと期待させるが、冒頭、娘が両親には内緒の恋人と電話で話す場面からして、あたかもテレビ電話のように、中空に向かって全身の大きな身振りを伴って語りかける表現に驚かされる。
 登場人物たちは、鬘、衣装、化粧の扮装もデフォルメされて、およそリアリスティックな志向ではないが、演技はそれに輪をかけた騒々しさ。一見、日本の’80年代小劇場(いわゆる“若者演劇”)の、ちょっとしたリアクションにも走り回ってみせる類の、漫画めいた過剰な演技を思わせるが、そこは熟練の俳優たちのこと、舞台が進むにつれて、決して勢いまかせでない計算と距離感が見えてくる。
 上演されているのは“Die Spanische Fliege”、100年前、第一次世界大戦前夜に初演された戯曲らしい。ドイツ本国で、どの程度知られている戯曲なのか知らないが、さほどポピュラーなものとも、重要視されているものとも思えない。
 カラシ工場を経営する主人公(カラシ色のスーツで「辛い!」と叫んで登場)は、「母性保護同盟」会長を務める謹厳な妻には内緒で、かつて“スパニッシュ・フライ”と呼ばれた踊り子に、四半世紀、隠し子の養育費を払い続けている。その秘密を握った、商売上敵方の若手弁護士は、実は娘の恋人で、弱みにつけ込んで結婚を認めさせようと、秘密をチラつかせる。そこから始まる勘違いと取り違えのドタバタ喜劇。
 モリエール式の常套的な笑劇手法を駆使した、“風習喜劇”に連なるウェルメイド・プレイを、具象的な舞台空間や日常的な演技から解き放つことによって、自由なイマジネーションをはばたかせた舞台作品と云える。具象の縛りがなくなった分、劇展開の局面を印象づけるアクションは、時間的にも空間的にも(所作の大きさ、激しさとしても)自在に拡大され、引き延ばされて、個々の瞬間が強調されるとともに、それ自体“見ることの楽しみ”となっている。例えば、秘密のファイルを咄嗟に背後に隠す、おそらく原戯曲のト書きどおりなら一瞬の所作が、ジャグリングめいた一連の演戯に引き延ばされたり、心理的な動揺や感情の起伏を示す数秒が、派手なトランポリン演技に拡大して展開されたり、実に楽しませてくれる。
 とは云え戯曲としては、表面的な社会道徳や世間体に拘泥しすぎる当時の富裕層への諷刺が効いているとはいうものの、それは云わば笑いを生み出すための劇の枠組みにすぎず、問題意識から社会変革へ向かう強固な理念があるとも思えず、結局、古典的な喜劇を手際よく当世風にアレンジした笑演劇(ラハ・テアーター Lachtheater)という評価にとどまる。戯曲の文学性を重んずるドイツの“芸術演劇”の観点からは、決して高く評価される劇ではなさそうだ。

 それ故にこそ、“ベルリン・フォルクスビューネがこの戯曲を上演して大ヒットした”という事実は注目に値する。理屈抜きに楽しめる喜劇だし、演技も視覚的な表現に徹しているから、演劇愛好者のみならず幅広い層に受け入れられやすい、というのはわかる。だがそれが、興行的なヒットというにとどまらず、作品的に演劇界で高く評価されている事態にはいささか驚かされるし、その点については考えてみる価値があるように思う。この舞台成果を生んだ、この劇場とこの戯曲の取り合わせについて。そして、この演出手法・演技形態とこの戯曲の取り合わせについて。

 まず、誤解のないように云えば、ドイツ演劇は喜劇に乏しいわけでも、笑いに縁遠いわけでもない。演劇史的には、中世の謝肉祭劇に遡るまでもなく、18世紀のゴットシェートとノイバー一座の“演劇改革”を思い起こせば足りるだろう。三十年戦争の余波を受け西欧諸国に遅れをとったドイツの演劇は、道化芝居がかった旅回り劇団の興行が主流だった。そこで“改革者”たちは、歴史劇から道化の仕勝手を追放し、フランス古典主義風悲劇を確立しようと努める。ここで一定の成果を収めたことが、ドイツの文学的演劇の出発点になるとはいえ、依然、古典主義悲劇と国事劇(道化芝居入りの歴史劇)を併演しなければ興行が成立しないほど、むしろドイツの道化芝居は根強かったのである。
 その後、反動のように、戯曲の文学性や理念を重んずる文学的演劇(仮に“芸術演劇”と呼ぶ)に水準の高い作家が続いて世界的なドイツ演劇・文学の顔になるのだが、ゲーテの時代になっても、実際の上演の場ではイフラントやコツェヴーの大衆向け通俗喜劇(仮に“娯楽演劇”と呼ぶ)の方が盛んに上演され、人気を博していたことを忘れてはなるまい。つまり、“芸術演劇”と“娯楽演劇”の分離、断絶が顕著なドイツ演劇の、その一方ばかりが世界的に知れ渡っている、ということなのだろう。
 現在に至るまでその系脈は続き、公立劇場(や公費助成の大きい劇場)が尖鋭な“芸術演劇”を追求する一方、私立劇場は採算の取りやすい“娯楽演劇”に傾く傾向があるという、ある種の棲み分けがなされてきたようにも聞く。

 以上の歴史的文脈を踏まえれば、尖鋭な“芸術演劇”で注目されてきたベルリン・フォルクスビューネが、この“娯楽演劇”の忘れられかけた喜劇に取り組んで成果を上げた、取り合わせの妙が理解されるだろう。また、この劇場自体の労働者運動と密接に関わった創立や、東ドイツ時代の活動、統合後も“東”の文化を意識した諸作が話題となった特異な位置などを考え合わせれば、奇異の念さえ抱かざるをえない。
 評者はこの劇場の作品を、先年来日公演のあった『終着駅アメリカ』(フランク・カストルフ演出)しか実見していないが、テネシー・ウィリアムズの原戯曲(『欲望という名の電車』)を解体し別作品に構築された挑発的なあの作品と本作を比べてみても、戯曲を破壊しかねない奔放な舞台造形に通じるものはあるにしても、それは、演出の視点が戯曲の構造を大きく組み替えたり、観客に認識の変換を迫って思索を促したりするものではなく、基本的にわかり易くストーリーに沿った上演で、デフォルメされた突飛な表現・演技もドタバタ喜劇の性質には合っているから、観客はさして抵抗なく受容し、楽しめるだろう。結果的に、作品の全体像としてははるかに微温的なところにとどまっている。
 戯曲テクストと切り結ぶ“芸術演劇”の尖鋭な表現で練磨された舞台技法が、“娯楽演劇”の古びた戯曲のリフレッシュに大いに生かされ上演効果を上げた、とも評せようか。

 もちろん、上演の完成度は高く、一見気軽なドタバタ喜劇にも、ハッとさせられる秀逸な表現は、数々織り込まれている。
 前半、時折台詞にかかるエコーや、不安感を煽るような音響効果は、視界いっぱいの絨毯の圧倒的な大きさと相俟って、それに象徴される市民社会の道徳律や世間体に、人々が圧殺される不条理演劇風ブラック・コメディともなりうる可能性を垣間見せる。
 特徴的なトランポリン演技も、怜悧な若手弁護士を演じる身体能力に優れた俳優が身軽に使いこなすのを、他の登場人物たちが滑稽な体勢で跳ね上がったり、無様に踏み損ねたりするのと比べると、市民社会での世渡りの含意が見えてくる。
 終盤、とても小柄な女優が恐ろしく丈の高い鬘を被って議員夫人役で登場し、彼女が隠し子の母(昔“スパニッシュ・フライ”と呼ばれたダンサー)と誤認される笑劇展開があるのだが、登場人物全員が背後に追い詰められ、その小粒な彼女一人がトランポリンで単調に飛び跳ねつづける光景に、虫の羽音がかぶさるシーンは圧巻。複数の男たちが四半世紀、隠し子の養育費を払い続けながら、いまや全くの別人を誤認するほどに、容姿さえ忘れ去られた“スパニッシュ・フライ”の存在が、具体的な像を結ばぬだけに一層、幽霊のように不気味なものに思えてくるのだ。
 劇中、ついに登場しない“スパニッシュ・フライ”。彼女とその子どもの秘められた存在が脅威となって、この劇の展開を支え、劇中でも私生児の父親探しが町をあげての騒動になってゆくのだが、そもそも彼女自身は一切与り知らぬところで持ち上がっている話なのである。怯えが生んだ虚像がふくれあがってゆく恐怖感の描写として、前述のシーンは秀逸だし、また、その怯えの源が社会道徳や世間体への憚りであることを思うとき、何もない巨大な絨毯の上に立つ人々に、得体の知れぬ不安感をまとわせた前半の演出も頷ける。陽気な喜劇は、自由奔放な表現によって、絨毯の下の暗部を窺わせる。
 戯曲原題“Die Spanische Fliege”は、ハンミョウ科の毒虫であるとともに催淫剤の意、さらに劇中の問題の踊り子の通り名でもある。これを“Die (s)panische Fliege”と“s”をカッコに入れた改題も気が利いている。「パニックに陥った蝿」、“蝿”の呼称は、市民社会の道徳律の圏外に立つ問題の踊り子ではなく、右往左往する富裕層側の人々を指すものに鮮やかに逆転されるのだから。(『脱線!~』の邦題は、苦心の音訳と思われる。)

 かように上演は、尖鋭な表現にも発展させうる切り口を覗かせながら、結局、幕切れではあっけらかんとした笑いに着地する。(隠し子と誤認される議員の息子役の、意外な展開に直面するたびに「え!?」と顔を歪めて驚く演技がラッツィ=ギャグの持ちネタになっていて大いに笑わせる。)巨大な絨毯も特徴的かつ意味深長でありながら、例えばリュビーモフ演出『ハムレット』の、登場人物を墓穴に追いやる巨大なカーテンのような、刺激的な“悪意”は託されていない。評者個人は、そこに若干の歯がゆさ、物足りなさを感じぬでもないのだが。
 演出者(ヘルベルト・フリッチュ)の意図どおり、口当りのいい理屈ぬきのドタバタ喜劇に仕上がったこの舞台、高評価は演劇空間の独創性や手法の練達に対する審美的評価だけによるのだろうか?もはや、“芸術演劇”“娯楽演劇”の境界も、舞台手法の違い程度のものになったのか?もちろん、“ポストドラマ”の概念が広まってからは尚のこと、戯曲テクストの文学性とは切り離して上演作品の成果が評価される動向にあることは考慮されねばなるまい。だが逆に、芸術性豊かな上演が通俗喜劇の戯曲に寄り添ってなされ、抽象度の高い舞台表現がテクストの娯楽性に回収される、一見回帰的とも思えるこの作品は、あるいは演劇性と文学性の関係についての新たな視点を含むものかもしれない。この芸術“笑”演劇が、これからどのような方向に向かってゆくのか、この演出者と劇場の今後の動向が注目されるところだろう。

(於.静岡芸術劇場 2013年6月8日所見)