劇評講座

2013年9月24日

■依頼劇評■白い闇を見詰めて クロード・レジ演出「室内」論 柳生正名さん

■劇評塾卒業生 依頼劇評■

白い闇を見詰めて
クロード・レジ演出「室内」論

柳生正名

 今年の梅雨は、首都圏では7月上旬に歴史的な早さで明け、例年なら梅雨雲にさえぎられる夏至直後の直射日光が地を灼くことになった。まばゆい昼間の出来事は陽炎のように揺らぐ夢であり、夜の闇こそ現―。そんな感覚を持つに至ったのは自分だけではなかろう。
 もっとも、この倒錯した現実感の責任を異常気象ばかりに押し付けるのは、こと自分自身の場合、不適切だ。梅雨明けの少し前、クロード・レジ演出によるモーリス・メーテルリンク作「室内」の日本人キャストによる上演という歴史的事件に出会った。このことが多分に影響していたように思われてならない。 続きを読む »

2013年8月19日

■依頼劇評■【おっかさんはつらいよ、本当にね(でも、娘も…)!『母よ、父なる国に生きる母よ』を観る】阿部未知世さん(ヴロツワフ・ポーランド劇場/ヤン・クラタ演出)

■劇評塾卒業生 依頼劇評■

おっかさんはつらいよ、本当にね(でも、娘も…)!
 『母よ、父なる国に生きる母よ』を観る

阿部未知世

1. ポーランドと言えば
 2013年の<ふじのくに⇔せかい演劇祭>に、ポーランドの演劇が招聘された。東ヨーロッパの演劇とは…。この演劇祭では、初めてのことではないか?興味津々なのだが…、やはり遠い国だなあ…。ポーランドについて、いったい何を知っているのだろうか…。思い出すまま連ねてみると。
 まず、アウシュビッツのユダヤ人強制収容所(これは、あまりにも重い現実)。社会主義崩壊の引き金となった民主化運動、<連帯>とそのリーダーのワレサ(これはグダニスクの造船所労働者に端を発する運動で、リーダーは敬虔なカトリック信者だった筈)。NATO に対抗したワルシャワ条約機構というのもあったし…。
 イメージとしては、ドイツとロシア(ソ連)という両大国の狭間で、蹂躙され続けた歴史を持つところ。何か、つらい思いが伴うなあ…。アンジェイ・ワイダの重い内容の映画とか。 続きを読む »

2013年8月15日

■依頼劇評■【芸術“笑”演劇のゆくえ】奥原佳津夫さん 『脱線! スパニッシュ・フライ』(ベルリン・フォルクスビューネ/ヘルベルト・フリッチュ演出)

■劇評塾卒業生 依頼劇評■

芸術“笑”演劇のゆくえ

奥原佳津夫

 劇場の壁いっぱいまで奥行きを取った深い舞台に、一枚の巨大なペルシャ絨毯が敷かれ、後方で大きく波打っている。その、人が隠れるほどのうねの手前にトランポリンが仕込んであって、これを俳優たちが自在に使いこなすのが、この作品の空間造形の肝。ほかには何もない。
 戯曲の設定は富裕な工場主の邸内のはずだが、裸舞台の、抽象的と云ってよい空間で、ここでどんな演技が繰りひろげられるのかと期待させるが、冒頭、娘が両親には内緒の恋人と電話で話す場面からして、あたかもテレビ電話のように、中空に向かって全身の大きな身振りを伴って語りかける表現に驚かされる。 続きを読む »

2013年8月5日

■依頼劇評■芸能する者たちのデウス・エクス・マキナ──宮城聰演出『黄金の馬車』批評 井出聖喜さん

■劇評塾卒業生 依頼劇評■

芸能する者たちのデウス・エクス・マキナ
  ──宮城聰演出『黄金の馬車』批評

井出聖喜

THE FINAL SCENE(大詰め)
 喧噪は去り、舞台には座長とカミーラのみが残る。座長が言う。「人生とやらに、カミーラよ、お前の居場所はありはせぬ。幸福をお前は舞台でみつけるのだ。」
カミーラ「フェリペ、ラモン、殿様、みんないない。もう存在しない。……もういないの?」
座長「もういない。見物人の中に消えた。……寂しいか。」
カミーラ「……ええ、少し。」
 カミーラ、一世一代の奉納芝居の始まりを言祝ぐように音楽が賑やかに奏でられる中、当のカミーラは幾分うつろな表情で舞台中央に佇立する。
 ──宮城聰演出の舞台『黄金の馬車』は、こうして華やかさの中に幾ばくかの寂寥感を残して締めくくられる。 続きを読む »

2013年7月2日

■準入選■【『ロビンソンとクルーソー』(イ・ユンテク演出)】渡邊敏さん

■準入選■

渡邊 敏
 
 第二次大戦の終戦時に、無人島に漂着した日本兵と朝鮮人の物語。演出は韓国のイ・ユンテク氏。閉ざされた空間で、必ずや二人の間に恨みや憎しみの感情が交わされるものと予想して、少し緊張しながら見た。

 ところが、帝国軍人と称するわりには日本兵は簡単に弱音を吐くし、かたや農民風の朝鮮人は日本に深い恨みはない様子だ。二人は日本兵が持っていたスルメを巡って争うけれど、それはコミカルでまるで「トムとジェリー」の争いか、昔の喜劇映画のようだ。やがて言葉は通じないながらも友情が芽生え、良き友となる。ロビンソンとクルーソーは孤島に生きる二人の新しい名前だ。結局、一度も戦争や贖罪が語られることなく、それぞれの懐かしい故郷に向かって出発していく。
 個人的に、韓国・中国の人たちに接する時、必ず心の片隅に戦争がある。ない、ということはあり得ない。そういう点で、あまりにも明るく、澄んだこの作品には肩すかしをくらわされた。「え、これでいいの?」と戸惑う。 
 いつのまにか軍服を脱いで褌(ふんどし)姿になった日本人と、上半身裸の朝鮮人。素(す)の人間になった二人は、魚が獲れて大漁祭り、家を作って棟上げ祭り。韓国と日本それぞれの音楽と踊りがお互いを祝福し、人間の善なるものを祝福してくれているようだ。
 二人の姿はあくまでも可愛い。人間の可愛さを見せつけてくれる。旅立ちの時の「チング(友よ)!」という呼び声は、至純な心そのものだ。
 ラスト・シーンは明るい希望の光で輝き、心の通い合いの温かさが満ちていた。人間の善性に期待し希望を抱こうとするこの作品は、韓国ではどのように受けとめられるのだろうか。 

 さて、この作品は中高生の鑑賞事業に指定されている。観劇した日は中学生がいっぱいだった。客席の中学生たちは、時に海のカモメや魚に見立てられ、役者二人は客席に呼びかけ、通路を走り、座席まで入り込んで中学生たちと身体的な接触やエネルギーの交感をする。
 今どきは女子も男子も、汗や体臭といったものを嫌悪して消臭スプレーや香りつきのローションを使うと聞く。子どもながらどんどん神経が細かくなってきて、大らかさが失われていくようだ。二人の役者が放つエネルギーや、目の前で躍動する、彼らから見たら「おじさん」に位置づけられそうな男性の肉体はどんな風に映っただろうか。
 子どもたちより舞台で跳ねている大人の方がはるかに自由で楽しげだった。本当は彼らの方が溢れんばかりのエネルギーを持っているのだろうけれど、それらが蓋をされているような、自由にエネルギーを巡らせる術がなくて、固まっているような。「子どもはのびのびと」なんて嘘だよね、と感じる。
 二人のエネルギーをもらって、元気になったり、発散できた子は沢山いただろうか。演劇の場に共にいることは、そんな効能もあるはずだ。

「SPAC秋のシーズン2012」&『ロビンソンとクルーソー』劇評塾 入選・準入選作 一覧

カテゴリー: 2012年秋のシーズン

「SPAC秋のシーズン2012」&『ロビンソンとクルーソー』の劇評塾に投稿いただいた作品のうち
入選作1作、準入選作9作を公開します。

『夜叉ケ池』(演出:宮城聰)

 ■準入選■ 福井保久さん 『夜叉ヶ池』

 ■準入選■ 松竹由紀さん 『夜叉ヶ池』

 ■準入選■ 平井清隆さん 『夜叉ヶ池』

 ■準入選■ 鈴木麻里さん 中学生と観た『夜叉ヶ池』

『病は気から』(潤色・演出:ノゾエ征爾)

 ■準入選■ 福井保久さん 『病は気から』

 ■準入選■ 鈴木麻里さん 悲劇の英雄

 ■準入選■ 吉田汲未さん 『病は気から』

『ロミオとジュリエット』(演出:オマール・ポラス)

 ■準入選■ 前田勝浩さん 『ロミオとジュリエット』
 
 ■入選■ 平井清隆さん 『ロミオとジュリエット』

『ロビンソンとクルーソー』(演出:イ・ユンテク)

 ■準入選■ 渡邊敏さん 『ロビンソンとクルーソー』
 

2013年4月16日

■入選■【『ロミオとジュリエット』オマール・ポラス演出】平井清隆さん

カテゴリー: 2012年秋のシーズン

■入選■

平井清隆

 『ロミオとジュリエット』は、喜劇だ。
 常々そのように思っていたのだが、今回のSPAC×オマール・ポラス版は、その意を強くしてくれた。
 通常、この戯曲は、悲劇とされる。演劇を始め、バレエや映画などでも繰返し上演・上映され、また、本作を本歌とする作品も多数ある。バルコニーの場面など、一部が取り上げられる事も多い。それら全てが、『ロミオとジュリエット』は悲劇だと捉えている。
 しかし————-。
 喜劇ものの定石の一つに、一般的な常識と登場人物の常識や行動との乖離を笑いの元とする手法がある。過去や未来、異文化の国から来た人物、場合によっては、ロボットだったり、宇宙人であったりもする。いずれにしても彼ら異邦人との常識のギャップで笑いをとる、というものだ。
 また、破天荒で気まぐれな人物に周囲が振り回されると言う話も、よくあるパターンだ。「熱血」の度が過ぎている者だったり、気分屋で突拍子もない行動をとる者だったりする。
 そんな視点から見るとどうであろうか。
 キャピュレットとモンタギューという二つの名家の争いは、大公すら憂慮する程に深刻さを増していた。そんな緊迫した「社会情勢」の中、モンタギュー家の跡取りにも関わらず、関心事は女性の事ばかりのロミオ。しかも、ジュリエットを一目見るや、それまで夜も眠れぬほど恋い焦がれた女性から、あっさりと心変わりする始末。そして、まんまと「箱入り娘」をたらし込み、翌日には結婚をも誓う事になる。電光石火の早業だ。ところが、その帰途、お子ちゃま同士のいざこざを、人死が出るほどの事態に発展させてしまう。親友を殺され逆上したロミオは、その敵を討ち、追放処分になってしまうと言う体たらくだ。立場や情勢にあまりに無頓着で、耐えることを知らない軽さを持つロミオの言動には、あきれて笑うしかないではないか。極めつけは、ジュリエットが死んだと早合点し、「後追い」自殺するくだりだ。こいつアホや~と、関西弁で突っ込みのひとつも入れたくなる。
 ロミオ役の新人女優山本実幸のひたむきな演技が、大真面目なスーダラ男ロミオによく合う。彼女の演技が真摯であるほど、舞台としては可笑しみが増す。
 他のキャラクターも効いている。とりわけ絶品なのは、キャピュレット家の当主夫妻だ。この二人、特に「お父ちゃん」は、出てくるだけで笑える。「寺内貫太郎」を彷彿させると言ったら失礼だろうか。また、ジュリエットの乳母もいい。この役は、キャピュレット夫人とともに、男優が演じており、それだけで十分可笑しみがあるのだが、別の効果も見逃せない。乳母の台詞には、エロティクなものも多いが、男優・武石守正が演じる乳母の口から発せられると、エロより笑いが先に立ち、品位が下がらない。子供と見ていても安心だ。キャピュレット家の召使いにも男優が多数配置されている。彼女(彼)らのダンスも、とても楽しい。
 他にも様々な「仕掛け」がある。舞台設定は「日本」となっているが、純和風ではなく、外国人であるオマール・ポラスのイメージするジャポニズム的な雰囲気で、我々日本人から見てもエキゾチックだ。外国人俳優も多く、独特な雰囲気づくりに大いに役立っている。配置も、「日本人チーム」「外国人チーム」の様にパート分けされているのではなく、絶妙にブレンドされている。配役だけではない。音楽や舞台装置なども、随所にひとひねりを加えた工夫があり、飽きがこない。
 個人的には、大いに笑えた2時間であった。
 しかし、キャピュレット家から見た時、様相は変わる。とりわけ、ロミオのような軽佻浮薄なピーマン男に引っかかってしまったジュリエットには憐憫の涙を誘われる。
 純粋培養の箱入り娘にとっての初恋は、本来、恋に恋する“はしか”のようなものだった筈だ。ところが、熱に浮かされている内に、婚姻の契りを結ぶはめになり、さらには、早とちりのおっちょこちょい男の後を追って自刃することになってしまう。14歳の身空である。不運な事故か流行病で命を落としたと納得するしかないような年齢だ。時代背景を鑑みれば、現代の日本での高校生か短大生ぐらいに相当するだろうが、それでも若い。わずか5日、正味3日の間の「悪夢」だ。
 そして、手塩に育てた娘が、不慮の死を遂げてしまった「お父ちゃん」の気持ちは、同じ年頃の娘を持つ身としては、察するに余りある。美加理演じるジュリエットが、本当にピュアで少女らしく、可愛らしいだけに余計に身につまされる。
 『ロミオとジュリエット』は喜劇だ、ロミオを主人公として見れば。だが、ジュリエットに視線を移すと、一変して悲劇となる。シェイクスピアは、争う両家の和解を最後に持ってくることで、救いとした。しかし、このSPAC×オマール・ポラス版は、ジュリエットの自刃で幕となる。救いすらない悲劇である。

■準入選■【『ロミオとジュリエット』オマール・ポラス演出】前田勝浩さん

カテゴリー: 2012年秋のシーズン

■準入選■

前田勝浩

 シェイクスピア原作の『ロミオとジュリエット』は、普段演劇を観ない人であっても題名を知らない人はいないだろう、という有名な作品である。意外だが、SPACによる他のシェイクスピアの作品は公演してきたが、本作は初の公演となる。構成・演出のオマール・ポラス氏は、コロンビア出身で現在はスイスを中心に活動している。そのオマール氏が西洋社会ではない東洋の日本で、一体どのような演出をするのかに興味があった。

 イタリアは花の都ヴェローナでの話だが、舞台美術は西欧の邸宅風ではない。丸柱と梁だけの一見とてもシンプルで仮設的な様相だ。しかも重要なシーンに必要なバルコニーがない事に驚く。おそらく神社の鳥居のようなイメージではないかと思ったが、実は舞台芸術公園内にある「楕円堂」ホール内観を模しているとの事だ。ただし全く同じではなく、中央だけは高い二本の柱で門柱のようになっており、その他が左右対称の列柱配置となっている。これは両家、モンタギュー家とキャピュレット家の対立を表していると感じた。舞台美術を「日本的なもの」としたのは、西欧文化圏ではない場所で公演する意味として、その国や地域への敬意ではないかと思える。日本で公演するからそうしたのであって、他の場所、例えばインドや中東、アフリカであれば、その地域の建築文化に見合ったものとしたであろう。SPAC共同制作なので出演者は日本人が多いが、西欧人との混合であり、セリフも日本語・フランス語が混在しているという、全体的に多国籍な構成も大きな演出内容だ。その演出意図が最もわかりやすい表現が「衣装」である。全体的に「和洋混合」もしくは、昔の日本を現代化したような出立ちとなっている。中でも乳母やメイドは上半身を東洋的、下半身は西欧的となっていて滑稽でもある。舞台全体をひとつのスタイルに纏めきっているというより、あえて異なるものを混在させている演出なのだ。

 もうひとつの大きな特徴は、冒頭で話の結末を述べてしまっている事だ。もちろん、あらすじを知っている観劇者も多いかもしれないが、構成としては「事の顛末を語る」というものだ。「悲劇の死」を頭に浮かべながら舞台を観るので、感情移入するというより冷静に観察する視点ができる。原作では、前半では猥褻なくらい喜劇性が強く、恋愛で幸福の絶頂の後、ある事件によって急転直下、悲劇性が増していく構成であったはずだ。だが、そのような対比構成というよりは、「対立構造や争いの虚しさ」という大きなテーマを感じるのだ。ここで、二つの名家の争いというより、多国籍で混合させた舞台の世界観から「世界中で今も続く国や地域の争いと数多くの悲劇」という事を連想させる。そもそも両家が対立し合う理由そのものが既に風化していて分からなくなっているのに、「争いと憎しみの感情」だけが親から子へと連鎖的に伝わっているのだ。仇相手の何が悪かった等も分からず、ただ互いが存在しているだけで争う事になっている。長い争いに疲れたキャピュレットは、どこかで何とか終わらせたい素振りもみせる。だが、血気盛んな若い世代は諍いばかりではなく、お互いを殺し合うまでしてしまう。そのような事が次々と起きてしまう為、争いを終結できないでいるのだ。そして、それは世界の戦争や紛争が続く理由と同じであるとオマールは言っているのではないか。生きている時は威勢のいいマキューシオも、死の直前には本音を吐かずにはいられない。「両家ともくたばってしまえ!」私にはこの恨みの言葉が、争いの犠牲者からの真実の叫びとも思えるのだ。これは両家の人間が全員死んでしまう事を望むというより、「どちらかが勝利する」という対立構造を否定し、お互いが統合する事でどちらでもない全く別の存在へ生まれ変わって欲しい思いを感じざるを得ない。モンタギュー家とキャピュレット家の場合、後継者のロミオとジュリエットが結婚して全く新しい家を創設すれば、それは可能であったはずだ。そう考えると、日本そのものでもなく西欧でもない両者が混在している世界観の演出に納得できるのだった。お互いに忍耐と尊重しあえば、文化や言葉が違っても共存できると。

 だが現実社会と同じように、事はうまくはいかない。若さゆえの過ち、もしくは情熱が破滅を導く。運命に翻弄された二人は結果的には「悲劇的な死」を迎える事となる。この家(社会)の義理と愛情との間で、勘違いとはいえ同じ場所で同じ日にお互い「死を選ぶ」のだ。これは日本的な「義理と人情」の板挟みによる「心中」を思い浮かべざるを得ない。クライマックスのシーンは言葉もなく、身振りでお互いの気持ちを表しながら死を迎え、花弁が舞い降りる中での最後の抱擁する場面は、日本的な演出で儚くも大変美しい。

 叙情的な最後が美しくて感動してしまうのだが、演出テーマである「争いの虚しさ」を表現する結末としては美しすぎると思える。「両家の和解」が描かれていない以上、二人の死の意味が伝わりにくいと感じるのだ。だが、この作品が多くの国で公演される時、より多文化社会の中でこそ、この多国籍な演出の意図は更に直接的に伝わる。この作品には、多くの国や文化の中で生きてきたオマール自身の祈りが込められているかもしれない。

■準入選■【『病は気から』ノゾエ征爾潤色・演出】吉田汲未さん

カテゴリー: 2012年秋のシーズン

■準入選■

吉田汲未

 客席を観ている自分は客席にいる。やがて、この劇場を訪れた観客という登場人物によって、観ていた無人の客席に息が吹きかけられ物語が始まった。すると、どう見ても、病人の劇場見学者が一人。しかし、本人は病人では無いと言い張る。あれ?「病は気から」の諺とは反対??と思っている間に、現代、日本、現実から、17世紀、フランス、物語へ。その間の“今”らしき物語に導かれて、今回の喜劇の世界に入っていくこととなった。
 外国の物語であるが、日本人が演じる無理矢理の外国人への役作りがなく、むしろ、日本の風俗を積極的に取り入れており、視覚的にも、物語へ入り易かった。更には、日本人に聴こえるフランス語の特徴を利用し、フランス人の物語であることをも、喜劇の要素として取り入れている喜劇への貪欲さを感じた。
 喜劇への貪欲さは、他にも、男女の配役の一部入れ替えによっての効果、意表を突く音楽、歌、衣装、俳優の動きにもそのねらいが見受けられた。これが、物語を舞台で表現することの意義なのであろうと改めて思われた。
 喜劇のテーマは、物語において十分に表現されてはいるが、それを更に、演劇的手法を使って追及したり、膨らませたり、読み変えたりすることを試みた醍醐味を、この舞台では存分に魅せてもらった。物語のテーマは、舞台化することで、より深めることが出来るということを観せてもらった舞台であった。
 作者モリエールは、この作品を4回公演したところで亡くなっているという。つまり、「病は気から」という諺とは逆の出来事が身に起こっていた。「病気である人」であるにもかかわらず、「病気であると思い込んでいる人」を演じたのであった。今回の舞台で、モリエールのやった役の俳優さんが吐血するたび、モリエールの最期について思いをめぐらされた。これは、悲劇であり、そして、こんなブラックなユーモアはないというような喜劇である。そして皮肉なことに、悲しければ悲しいほど喜劇になっていくのである。
 半分死にかけているアルガンを、周囲の者が担ぎあげておかしなポーズをさせていた最後のシーンでは、死に直面していたモリエールが喜劇を演じていたことと重なった。当時フランスのモリエールの舞台での観客は、おそらく病身のモリエールの事情を知らずに、モリエール演じるアルガンに大笑いしていたのであろうと想像した。一方、今回の日本の舞台では、最後のシーンに笑い声一つ聞こえてはこなかった。この時、まさに、このシーンは皮肉な喜劇という物語のための表現の集大成であるということを示していると思われた。こんなに悲しい喜劇の舞台表現に私は出会った事がない。
 病気というテーマの物語の入口から、医者への痛烈な皮肉もこの作品の特徴である。お金や権力によって名医との人脈をつくることが出来、自分が興味あることへの演説が上手ければ、称号と白衣を与えられる。白衣さえ手に入れられたら医者になれる。これは、他の「先生」と呼ばれる職業に就く人々にも当てはめられるであろう。政治家、大学教授などに読み変えて想像してみると、おかしいくらいぴったり当てはまり、見事に言い当てているモリエールの鋭さに感心し、ひどく笑っている自分がいた。これはとても皮肉な笑いではあったが、代弁してもらったようにすっきりとした気持ちになった。
 それらの様々な皮肉な出来事が、今回の舞台ではすべて、自分たちの座っているシートと同じシートが並ぶ、舞台上の観客席で起こっている。それを見せられているのは、観客である自分たちである。舞台はまるで鏡であり、「あなたたちもこんなことをしていますよ」と言われているようである。そう考えると、初めからあらゆる“鏡現象”を見せられ続けてきたことに気付かせられる。
 病気でないと主張する病人から、病気でない病人に始まり「思いこみ」の強い人間の数々・・・恋愛、愛情、学識、学歴、職業について、表と裏、嘘と本当、理想と現実、というような人間にまつわる出来事の外側と中身を次から次へと披露してもらった。見かけや肩書に惑わされるのが、人間ですよと改めて言われているかのようであった。そして、いつの時代も、どんな国でも同じような事で人間は喜んだり悲しんだりしている、滑稽ですねと言われている事がわかる。
 そして、最後に舞台という鏡から「あなたはどうですか?」と声をかけられて帰ってきた。

■準入選■【『病は気から』(ノゾエ征爾潤色・演出)】『喜劇の英雄』鈴木麻里さん

カテゴリー: 2012年秋のシーズン

■準入選■

悲劇の英雄

鈴木麻里

 客席に掛けて舞台を眺めると、100席に満たないほどのもう一つの客席が設えられている。制作者からの挨拶が終わると、その隣に現れた舞台監督が、観客の後方からやってくる俳優らしき人々を迎え入れた。制作者からの挨拶が終わると、観客の後方から舞台監督が俳優らしき人々を引き連れ降りてきた。劇場の機構をひとつひとつ解説しながら舞台へ上がり、奥まで一周する。一同黒ずくめである。

 咳き込んで病身に見える一人の男が『病は気から』を上演しようと、自分を病気だと思い込んでいるアルガンなる男について穏やかに決然と語りはじめる。男の体を気遣って周囲が止めるなか、口元から赤い布を垂らして吐血の様を見せながらもやめようとはしない。
 吉本新喜劇を思い起こさせる「Somebody Stole My Gal」が鮮烈に流れる中、一同ぽんぽん黒衣を脱ぎ捨ててカラフルな衣装に早変わり、黒一色だった舞台上の客席も真ん中の12席だけ純白に変った。「BED」と札がついている。

 治療と薬に夢中なアルガン、「病気」に親身とは言いがたい態度で接する女中トットとの軽妙なやり取り、長女アンジが吐露するケロッグへの恋心、医者との結婚を突然強いた長女や反対に加勢する女中との悶着、後妻ベリーヌの媚態、彼女への遺産相続を相談するため弁護士ポンヌフを招く場面など、大筋をモリエールの戯曲に拠りながら役名はじめ語られる言葉はシンプルに書き換えられており、小気味良い速度で舞台が展開していく。
 登場人物たちを軽やかに演じる手つきが、劇中劇としてふと幕を開けた構図に強い説得力を与えている。客席型の舞台装置を縦横に駆け回る俳優陣の身体的な力量と遊び心が、観る者に足場の不都合を感じさせない。

 場面の変わり目などの要所で、アルガン役の俳優は苦しそうに咳をする。
 初演当時、この役は実際に胸を患うモリエール自身によって演じられていた。公演の四回目には激しい咳の発作に襲われながら舞台を務めていたと言う。当人の肉体的苦痛や周囲の心痛に寄り添うことも出来ようが、状況を俯瞰すればこれは劇の外側に設えられたもう一つの喜劇と読み取れる。瀕死の病を患いながらよりによってアルガンを演じる、モリエールの不条理である。

 三幕冒頭、医者との縁談が破れてなお娘の結婚を認めず、頑なに後妻ベリーの肩を持ち続けるアルガンを見かねて、弟ヘラルドと女中トットが一計を案ずる。病の果て遂に亡くなった振りをしてみせて、ベリーの反応を窺おうというのである。悲しむどころか清々してとっとと遺産を手に入れようとする彼女にさすがの彼も追放を選び、今度は娘アンジの反応を待つ。嘆くアンジにアルガンは喜んで生き返ってみせるが、ケロッグが医者になってくれるならば結婚を認めるとなおも無茶な仰せである。

 ここでヘラルドから、アルガン自身が医者になれば良いと提案がある。すぐにでも医者連中を呼んで式を挙げてもらおうと言う。
 モリエールは初期の『飛び医者』以来、『恋は医者』『ドン・ジュアン』『いやいやながら医者にされ』などで、医学と医者を繰り返し槍玉に挙げた。この遺作に於いても、医学への痛烈な風刺を交えながらそれに振り回される男の滑稽を描いてきた。
 実際に病気になったらどうするかについては、「なんにもしません」と劇中でヘラルドに語らせている。自然のままに任せておけば自ずから徐々に回復していく。兄さんには気晴らしにモリエールの芝居でも見せたいとまで言わせている。終には当人に医者を演じさせてしまおうという次第である。
 この場に至って男は激しく咳き込み台詞を中断することもしばしば、アルガンを演じるモリエールの地が見え隠れする状態である。周囲の俳優も役を放棄しかけ芝居を止めようとするが、男は続ける。笑いの絶えない『病は気から』の世界から、ドラマの焦点は刻一刻と死期が迫るなか芝居をやめないモリエールの姿へと移っている。

 劇の外側に設えられたもう一つの喜劇が、悲劇としての正体を現そうとしている。
 モリエールは、死ぬのである。病へは無為にして自ずから治癒する、薬に杞憂が人を弱らせるのだと豪語しながらこの世を去る。自らを無力な医者の一人として数えながら我が身に芝居を処方して身を滅ぼす。
 悲劇の主人公は始終完き聡明であるわけではない。あやまち故に不幸になる様は喜劇的とも言えるが、あやまちが明るみに出た暁にあえて自らの錯誤を引き受ける高潔さが、彼らの物語を尊厳ある悲劇たらしめている。

 医者連中に囲まれて、モリエールは絶え絶えに台詞を吐き続ける。医師になるための試験が数問繰り返されたのち、彼は白衣を与えられた。咳き込んで振り返れば、血糊をべったりまとった姿である。倒れて事切れた彼を、俳優たちは抱え上げ、手取り足取り踊らせながら大笑いした。自らの最期をも喜劇の内に描き切った彼に、最上の敬意を表しているかの様だった。

 彼の行為と作品とを構造化する劇作の力と人物の意志を体現する俳優の力との出会いが、神でも王でもない一人の喜劇作家の武勇から笑いに満ちた高潔な悲劇を産んだ。

参考文献
モリエール(鈴木力衛訳)『病は気から』(1970年4月、岩波書店)
アリストテレース、ホラーティウス(松本仁助、岡道男訳)『詩学・詩論』(1997年1月、岩波書店)
磯田光一「『悲劇』の条件」、『文芸読本 シェイクスピア』(1977年5月、河出書房新社)