2012年6月29日

【ソウル・オブ・ソウル・ミュージック】静岡公演に寄せて(金晶洙)

 韓国の伝統音楽である「国楽」は、正楽・民俗楽・創作音楽に分類されます。「正楽」は宮中を中心とする主に上流階級が楽しんだ音楽です。「民俗楽」は主に韓国の巫俗儀式で使われた音楽を根源に持つ土俗音楽であり、庶民に親しまれ伝承されたものです。そして1960年代以降この2つの音楽をもとに西洋的な作曲技法と楽器編成を融合させ、現代人の感覚に合うように再創造された国楽の新しいジャンルを「創作音楽」と言います。
 ソウル市国楽管弦楽団は、1965年に創設された韓国で最初の国楽管弦楽団です。韓国の伝統音楽の創造的継承につとめ、時代の感覚にあった現代創作曲を開発し、韓国創作音楽の新しい進化に日々はげむリーダー的な役割を担う韓国で最高の管弦楽団です。伝統音楽の普及を目指し、ソウル市の顔として国楽を世界へ伝えるために、他国の音楽であるジャズやポップスなどと共演したり、光と色彩を用いた斬新な映像音楽にも挑戦しました。これらの試みを通じて韓国伝統音楽の新しい変化と、ワールドミュージックの中心への融合を目指し、韓国音楽の未来のかたちを提示するため日々、変貌を続けています。 
 2012年6月30日と7月1日の2日間「WorldTheatreFestivalShizuoka under Mt. Fuji 2012」の一環として上演される『ソウル・オブ・ソウル・ミュージック(Experience the Strings of Korea)』には、ソウル市国楽管弦楽団のコムンゴ奏者のキム・ソンヒョさんと、カヤグム主席奏者のカク・ジェヨンさんが参加いたします。
 私はソウル市国楽管弦楽団の団長兼任常任指揮者として、日本の皆様にこの2人の奏者を紹介することができ、誠に誇らしく光栄に存じます。わが楽団のこの若い2人は、数多くの公演に出演し好評を得ており、韓国内でも優秀な演奏者として認められています。
 この2人は、伝統音楽の正楽の霊山会相(ヨンサンフェサン)から下弦還入(ハヒョントドゥリ)と、民俗器楽の代表的な楽曲である散調(サンジョ)を新しくアレンジした変奏曲や、最近作曲された最新の創作曲などを皆様にお届けいたします。韓国伝統音楽の2本柱と言える正楽と民俗楽。そして、韓国音楽の現在形と言える創作音楽を、一度に堪能できる非常によい機会であると思います。
 これらの曲はソウル市国楽管弦楽団で行われてきた新しい試みの断片、ほんの一部ですが、伝統と現代がともに舞台の上で1つとなり共存する「調和の場」になると、私は確信いたします。
 「Experience the Strings of Korea」のテーマは「韓国音楽の多様性」です。音楽の形式や楽器の持つ特性だけではなく、韓国音楽の過去と現在を表現しようとするからです。
 ソンビ(朝鮮時代の学者)が好んで演奏し、男性的な音色を持つ弦楽器のコムンゴと、同じ弦楽器だが対照的に女性的な音色のカヤグム。この2つの楽器が織りなす調和は、韓国伝統音楽の「陰と陽の思想」そのものだと言えます。また、古来から受け継いだ姿のままのコムンゴと、新しい音楽に対応するために25弦に改良されたカヤグムの合奏は、韓国音楽が現代に力強く脈打つ躍動美を感じさせる事と存じます。
 この公演を通じて、韓国と日本の多様な音楽的交流の新しい取り組みが行われる事を期待いたします。

【筆者プロフィール】
金晶洙 KIM Jung-Soo
ソウル市国楽管弦楽団指揮者、韓国国楽協会会長、秋季芸術大学大学院学長


【春のめざめ】「悲劇」と「喜劇」の匙加減(酒寄進一)

 ドイツの作家フランク・ヴェデキントの『春のめざめ』は1891年に出版されたが、15年後の1906年までドイツ国内で上演が禁止されていたといういわくつきの戯曲だ。副題は「子どもたちの悲劇」。悲劇といえばもともとは高貴な人の没落を描き、その落ち方の大きさに観客が涙したもの。しかしその観客が「市民社会」出身者で構成されるようになると、同じ市民の悲劇が描かれるようになる。つづいて19世紀の市民悲劇は同じ市民の中にさらなる悲劇の主人公を探すようになる。たとえば、女性の葛藤に目を向けたイプセン、過酷な労働者の惨状を描いたハウプトマン。抑圧に苦しむ子どもの姿を赤裸々に描いたヴェデキントもその系譜につながるだろう。
 ただしヴェデキントは、その「悲劇」をわざと過剰に描くことで笑いを誘う、つまり「喜劇」的な一面まで加味させている。作者本人、すべての場面に笑いの要素があるとまでいっている。この「悲劇」と「喜劇」の匙加減が、昔から演出家や出演者を刺激してやまないようだ。
 『春のめざめ』はドイツ国内で再演されない年がないほど人気がある。しかも若手役者の登竜門のように扱われているところがある。一昔前だが、ドイツの名優ブルーノ・ガンツ(主演映画に『ヒトラー ~最期の12日間~』)の舞台デビューもモーリッツ役(ペーター・ツァデック演出 1965年)だった。日本でも串田和美演出(1998年)で北村有起哉(モーリッツ役)がデビューしている。
 『春のめざめ』はブロードウェイミュージカルになり、2009年劇団四季のミュージカルにもなった。そうしたことも手伝ってか、ストレートプレイも昨年、3種類観る機会に恵まれた。
 ひとつは2月25日から27日にかけて文学座アトリエで公演された文学座附属演劇研究所第50期本科夜間部の卒業発表会(高橋正徳演出)。よく走り、よく飛び跳ねる演出で、それが「子ども」たちの焦燥感や歓喜をうまく表現していた。
 次は4月27日から5月1日にかけて恵比寿のエコー劇場で公演された劇団アルターエゴ第44回公演(田村連演出)。本来セリフが担う感情表現をダンスに置き換え、最後の場面で「仮面の男」が口にする言葉を複数の役者に振り分け、多声的にすることでより普遍的な意味づけをした演出が斬新だった。
 3つ目は12月15日から17日にかけて日本大学芸術学部演劇学科の舞台総合実習2Aとして公演されたもの(桐山知也演出)。場面の順番を入れ替える大胆な解釈が行われ、大人を白塗りにし、子どもを素面にしたり、意味深なBGMを使ったりと、「子ども」の内面世界を視覚・聴覚的に現出させる工夫が随所に見られた。
 ところで本家本元のドイツではどのような舞台がかかっているのだろう。とくに印象に残っている2本がある。ひとつはベルリンのベルリナー・アンサンブル(クラウス・パイマン演出 2008年初演)。舞台を前後に2分する回転パネル(表裏それぞれ白と黒)だけで構成されるミニマルな演出で、この回転パネルがあるときはドアになり、またあるときは激しい回転によって風を表現する。風はもちろん「子ども」たちの心象風景でもある。もうひとつはベルリンのドイツ座で市内の高校生たちを中心に演じられたもの(マルク・プレッチュ演出 2010年初演)。等身大のはじけるような演技が「演技」に見えなかった。この公演に使われた小ホールは1906年に『春のめざめ』が初演された場所。ドイツの百年を考えさせられ感慨深かった。
 さて、オマール・ポラスはどんな新しい仕掛けと世界観を見せてくれるだろう。観るのが楽しみで、ワクワクしている。

【筆者プロフィール】
酒寄進一 SAKAYORI Shinichi
和光大学教授、ドイツ文学翻訳家。訳書F・v・シーラッハ『犯罪』(東京創元社)で今年度本屋大賞翻訳小説部門1位。他にF・ヴェデキント『春のめざめ』(長崎出版)、ネレ・ノイハウス『深い疵』(東京創元社)など。


【おたる鳥をよぶ準備】鳥が人を葬るとき(島田裕巳)

 人はなぜ踊るのか。
 それは、飛ぶためである。
 人間には羽根や翼などなく、本来は飛ぶことができない。だが、人間は周囲に飛ぶことのできる存在があることを知り、それに強い憧れをもってきた。
 そして、飛ぶことをめざしてきた。飛行機の発明も、そこに発しているが、もう一つ、踊ることを通して人は地球の引力の影響から脱しようとしてきた。
 20世紀初頭に活躍した伝説的なバレエ・ダンサー、ニジンスキーは空中に静止しているようだと言われた。彼は人であるにもかかわらず、踊ることで鳥に近づいたのだ。
 私もかつて、踊ることを通して人が鳥になる場面を目撃したことがある。
 セゾン劇場(現在のル テアトル銀座)での山海塾の公演、『卵を立てることから―卵熱』でのことだ。舞台の上にあった台の上に仰向けになった天児牛大が羽ばたくと、そのからだは飛んだ。私は、たしかにその光景を「視た」。
 地を這うように踊る能楽のシテも、ときに鳥になる。『道成寺』の最後、飛ぶことで鐘のなかに吸い込まれていく。
 踊ることが鳥になることであるとするならば、その世界で何者かが葬られるとするならば、やはりそれは鳥の流儀にかなったものでなければならない。
 選択肢は「鳥葬」しかない。
 鳥葬は、今日でもチベットで行われている遺体処理の方法である。古代に栄えたゾロアスター教でも、鳥葬が行われていたと言われる。
 鳥葬する際には、遺体を草原に運んでいく。遺体は、鳥が食べやすいように切り刻まれる。そこには、血を流すことで、鳥を集める効果もある。すると、ハゲタカなどがやってきて、遺体を食べ尽くしていく。
 この鳥葬に立ち会うツアーもあるようで、ネット上にはそれに参加した日本人の体験もつづられている。
 チベットで鳥葬が選択されているのは、火葬にするための木がないからだとも言われるが、ならば土葬という選択肢もあるはずだ。
 それでも鳥葬が続けられているのは、遺体が鳥に食べられることによって、その魂が、天に昇っていくように感じられるからではないだろうか。
 鳥葬は、それに立ち会った日本人にはグロテスクに感じられるかもしれないが、日本でほぼ100パーセント近く普及した火葬だって、考えてみれば遺体を火で焼くわけで、もし私たちがその過程をこの目で見なければならないとしたら、まともには正視できないだろう。
 死というものが残酷であるように、人を葬るという行為にも残酷な部分がつきまとっている。チベットの人々は、その残酷な部分を鳥に担ってもらうことで、どこかこころを癒されているのかもしれない。
 日本では、鳥葬は法律に引っかかるので、実施は不可能である。
 しかし、火葬した遺骨を墓に収めたとき、私たちはからだはそこに葬られたかもしれないが、魂の方は墓から解き放たれ、天に昇っていったと考える。だからこそ、最近では、墓の前で、『千の風になって』を歌う人が増えているのだ。
 風になってしまうのであれば、墓など本当は要らない。私たちのなかに、どこか鳥葬に対する憧れがあるのも、死んでから薄暗い墓のなかにとどまらなければならないことに抵抗があるからだろう。
 鳥葬は、残酷さと爽快さを併せ持っている。物事というものはそういうもので、つねに両面を持っている。
 私たちは、鳥葬にインスパイアーされた舞台の上で、踊り手がこの両面を鮮やかに表現するのに接することになるであろう。

【筆者プロフィール】
島田裕巳 SHIMADA Hiromi
宗教学者、文筆家。 東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。日本女子大学教授、東京大学先端科学技術研究センター特任研究員などを歴任。著書に『葬式は、要らない』(幻冬舎新書 2010)、『浄土真宗はなぜ日本でいちばん多いのか』(幻冬舎新書 2012)他多数。


2012年6月25日

【キリング・フィールドを越えて】カンボジア古典舞踊の周辺(山中ひとみ)

カンボジア古典舞踊の歴史と現在

 カンボジア古典舞踊を一言で説明すると「アンコール・ワットに伝えられる踊り」ということになる。王立プノンペン芸術大学芸能学部長(当時)のプルン・チアン教授は「カンボジアのすべての芸能のもとは宗教だ」と言う。そして、その宗教は、日本と同じく緩やかで複合的な要素を持つものであり、インドから伝わってきたヒンドゥー教、仏教、そしてアニミズムの信仰と慣習が結合したものである。アンコール王朝時代、踊り手はすべて女性で、人間と神の媒介の役割を担っていた。14 世紀アンコール王朝がタイのアユタヤ王朝に敗れたことにより、この古典舞踊の黄金期は終わり、舞踊教師と踊り手たちはタイに連れ去られたと碑文にある。
 その衰退してしまった文化が再興されたのは19 世紀、アンドゥオン王の時代である。アンドゥオン王はタイの宮廷文化と、カンボジアの宮廷で伝えられていたものを合わせ、カンボジアの古典文化を再興した。19‐20世紀前半、踊り手は宮殿の中に住み、王族の儀式のために踊り、フランス植民地支配下では外交儀礼でも踊っていた。第二次世界大戦後シアヌーク殿下がカンボジアを独立させた時代には、殿下の母君コサマック王妃が古典舞踊を興隆させた。(エン・ティアイ先生の青少年期)
 その後1975年から4年間続いたポル・ポト政権下での状況はこの作品にある通りだが、政権崩壊後の1980年、本作品の3人の舞踊家を含む生還した舞踊関係者達が、芸術学校と政府の芸能局で舞踊復興に取り組み始める。この社会主義時代、舞踊団は国立となり、歌詞の言葉遣いや内容も政治の影響を受けたが、1991年の和平協定以降、国が立憲君主制となるに伴い、舞踊も再び王制と関わりを持つようになった。そして2003年、カンボジア古典舞踊は、ユネスコの「人類の口承及び無形遺産の傑作」に登録された。

踊りが表わす壮大な宇宙観

 代々の舞踊の師匠の魂や神々へ礼を捧げるソンペア・クルーという儀式が、公演前や毎週木曜日に必ず行われる。冠やお面には魂が宿ると信じられ、敬意は良いものだけでなく悪いものにも捧げられる。それは善と悪、知性と荒ぶる力が永遠の闘いを繰り広げるという、彼らの宇宙観に基づいているようだ。そして舞台上の物語は必ずハッピーエンドで終わらなければならず、それは善が悪に打ち勝つよう願いを託しているからだと考えられる。
 舞踊の主要なモティーフは、リアムケー(カンボジア版ラーマーヤナ物語)や天女アプサラであり、高貴な主人公、柔和な女主人公、夜叉(エン・ティアイ先生、トン・キム・アン先生の役)、聖なる猿の4つの役がある。
 身体の動きの特徴は、まず手指で、「種を植える→芽→葉→花→果実が弾けて落ちる」という植物の命の循環を表現する。そして、指が反り返るのは大蛇ナーガの尾を表していると言われる。蛇はカンボジアの文化と深い関わりがあり、前述のチアン教授は、カンボジアの建国神話にも蛇姫ナーギーが登場することを取り上げ、「我々は蛇人間だ」と語る。また、天男天女が空を飛んでいる様子を表現するために、重心を下に押し付けながら、時々足を上に上げたり重心を緩めたりもする。
 衣装、冠、装身具も彼らの宇宙観、即ち、宇宙の中心に神々の住む須弥山(メール山)があり、その周りに我々人間の住む大地、そしてその果てを大海が取り囲むという神話や、聖なるものをお守りする大蛇ナーガを表現している。
 音楽は「ピン・ピアット」と呼ばれる古い形式の合奏で木琴、ゴング、笛、太鼓等の7つの楽器から成り、これに3人の唄い手がつく。(エン・ティアイ先生は唄の先生でもある)
 千年もの間、カンボジア古典舞踊は口伝で伝えられてきた。単に1つの役ができるだけでなく、すべての唄を正確に覚えているということは、失われかけた舞踊作品全体を蘇らせる原動力となったに違いない。エン・ティアイ先生が舞踊界の重鎮であるのは、年齢もあるが、その復興への貢献度にもあるのだ。
 

今、思うこと

 私が芸術学校に5年間留学していた頃、エン・ティアイ先生やトン・キム・アン先生には、よくお目にかかっていた。しかし、専門の役が違うこともあり、あまり深い話をしたことはなく、ポル・ポト時代のご自身の人生を伺うのは、本作品が初めてである。私には、とても彼女たちの壮絶な経験を引き受ける度量がなく、カンボジア語が得意でないことを理由に、直接の自分の先生以外とは深い話は避けていた。それを思うと、演出家オン・ケンセン氏の力には脱帽である。
 そして、内乱や社会主義時代の面影が残る1997年から、東南アジアの新興国として勢い付く現在まで、カンボジアに私が関わって思うことが2つある。
 1つは、私たちが生きている現在の日本社会から一旦離れて、欧米先進諸国だけでなく、広くアジア全体の様相を、多くの日本人に知ってもらいたいということ。例えば、こういった作品を通じて。すると、日本が敗戦とはいわずに終戦と呼ぶことで、手に入れたものと失ったものが、戦争を知らない世代の日本人にも見えてくる。アジアの他国の現状と、自分の親や祖父母の人生や考え方を照らし合わせる時、私達がこれから世界の中で、日本人としてどう偏狭なナショナリズムに陥らず、しかし自信を持って生きればよいのか、日本をどんな国にしてゆけばよいのか、きっと新しいビジョンが得られるはずだ。
 もう1つは、現代に生きる日本人は、必ず自分自身を幸せにしなければならない、ということ。ポル・ポト時代が終わったカンボジアで、芸術大学の先生達によく言われることは、「経済的な支援をしてほしい」ということだ。トン・キム・アン先生の後を継ぐ娘、つまりエン・ティアイ先生の孫娘も、現在大学を卒業して、踊りを続けながら別な勉強もしているらしい。将来を嘱望される先生の娘ですらそうなのだから、踊りで生き延びていくとは、大変なことなのだ。そして、一般の人には「日本に生まれて、あなたは幸せね」と言われる(少なくとも震災前までは…)。
 ポル・ポト時代を脱したカンボジア人の望みは、日本人のように経済的に豊かになること。だとしたら、その目標とされている私達が、自分自身を幸せだと感じられるようにできなければ、世界はどこへ向かえば良いのだろう。
 そんな思いを、この作品をご覧になった多くの皆様と共有し、発展させることで、苦難の中でもより良い未来を信じて、それぞれがご自分の道を歩まれることを、私は願っている。
 この作品が静岡で上演される運びとなった、全ての関係者の皆様に感謝しつつ。

【筆者プロフィール】
山中ひとみ YAMANAKA Hitomi
お茶の水女子大学卒業。1997年からカンボジア王立プノンペン芸術大学付属芸術学校古典舞踊科にて学び、2003年日本人として初めて卒業。その後も更に研鑽を重ね、アンコール遺跡、愛・地球博カンボジア館、大使館、国立劇場などで舞台を務めている。カンボジア舞踊企画・教室SAKARAK 主宰。


2012年6月24日

【THE BEE】自己を破壊する家族――『THE BEE』を家族から観る (芹沢俊介)

 子どもを虐待する親を責めたくなる気持ちをおさえて、そこで起きている事実に目をこらすなら、家族の自己破壊という像が見えてくる。自分の産んだ子を大事にいつくしみ、育てるのではなく、逆に苛むのだ。苛んだはてに、死に至らしめてしまう場合もまれではない。これを、自分で自分の家族を破壊する姿と言わずに、なんと捉えるべきであろう。
 そこで、問いが現れる。なぜこんなことが起きるのだろうか。
 説明抜きで私見を記せば、家族は内側に何かを抱え込んでしまったのだ。その抱え込んだ何かが、あることをきっかけに動き出し、ついに制御不能に陥ってしまうのだ。そうした手のつけられない暴走状態は、カタストロフィー(破局)を迎えるまで、終結することはない。
 家族が内側に抱え込んでしまった何かを、『家族という意志』という本のなかで、私は自己本位主義的志向であると考えた。要するにエゴイズムのことである。エゴイズムはいつも自分の欲望を最優先させようとする。したがってときに、目の前に子どもがいるという現実、妻がいるという現実、すなわち家族があるという現実は、どこまでも自己実現を目指すエゴイズムの前に立ちはだかる障害物として見えてくる。虐待をはじめとする家庭内に生じる厄介事の中心にあるのは、こうした独走しようとするエゴイズムの問題である。
 家族の個々は、このエゴイズムを飼いならすことによってしか、自らの家族を安定的に存続させることは困難である。これが、私たちが現に生きている家族の現状ではないか。そしてこれが、劇『THE BEE』が書かれなくてはならない背景ではないだろうか。
 劇は、飼いならしたはずのエゴイズムが、手綱を切って暴れ出し、制御不能と化し、家族を自己破壊するところまで突き進んでしまうまで終わらない、そういう進行をとる。
 ここには二つの家族が出てくる。一つは、主人公の井戸の家族である。劇は、刑務所を脱走した殺人犯小古呂が、井戸の留守中、井戸の妻子を人質に、井戸の家に立てこもったというところから始まる。もう一つの家族は、脱獄犯小古呂の家族である。井戸と同じ六歳になる男の子と妻がいる。小古呂の脱獄は、自分の妻子に会いたい一心からであり、会わせなければ井戸の妻子を殺すというくらい強い執心からである。
 人質になった妻子の救済が目的のはずだった井戸の行動がしだいに変容していく。一方は被害者、他方は加害者という関係からはじまる二つの家族が、井戸と小古呂、二人の、一歩も退かぬエゴイズムの激突を軸に、一方が他方の鏡像をみるような展開をたどることになるのだ。このダイナミズムが劇『THE BEE』の見所だと、家族論的には理解していいように思える。
 一方が他方の鏡像であるのなら、互いに引き返すことができないまま繰り返されるエゴイズムの応酬が何をもたらすか、その行方は誰にでも予測できるだろう。井戸が小古呂の妻子を苛む、すると小古呂が井戸の妻子を苛む。こうした応酬が、井戸にとっても小古呂にとっても、自分の妻子を苛むことと同じなのである。つまり、二つの家族が鏡像関係に入ったことによって、二つの家族に自己破壊が起きているのである。
 さて、THE BEE――蜂である。主人公井戸が蜂を苦手とするということは、やや強引にすぎるかもしれないけれど、蜂は井戸のエゴイズムに対する抑止力を象徴するものと言えるのかもしれない。井戸の加虐行為が後戻りできない状態でエスカレートするのは、井戸が蜂を殺した後であることに注目すれば……。少し解釈に傾きすぎたようだ。多謝。

【筆者プロフィール】
芹沢俊介 SERIZAWA Shunsuke
評論家。社会問題を中心に子ども、家族、教育に関する評論で活躍。著書に『親殺し』(NTT出版 2008)、『「存在論的ひきこもり」論』(雲母書房 2010)、『家族という意志』(岩波新書 2012)ほか多数。


2012年6月12日

【ライフ・アンド・タイムズ―エピソード1】<ドラマトゥルク・ノート(抄訳・ロングバージョン)>ルールのある自由 ケリー・コッパーとパヴォル・リシュカの演劇について(フロリアン・マルツァッハー)

 「ネイチャー・シアター・オブ・オクラホマ(オクラホマ野外劇場)」、これはカフカの未完の小説『アメリカ』に登場する怪しげながらも期待を持たせる劇団の名前である。この劇団は、締切日の深夜12時までに応募すれば、誰にでも適切な仕事を提供するという。この小説の主人公であるチェコ出身の移民者カルル・ロスマンもまた、このチャンスをものにして、新たな人生を目指し、すぐにオクラホマ行きの列車に乗り込んでいく。
 演出家で劇作家のケリー・コッパーとパヴォル・リシュカは、2003年に自分たちの劇団を立ち上げる日まで、ずっとこの劇団名を頭に思い描いていた。それまでのパヴォル・リシュカの人生は、小説のように波瀾万丈というわけではないにしても、このカフカの作品と驚くほど似ていたからである。スロヴァキアの小さな街で生まれ育ったリシュカは1991年、18歳の時に、うさんくさい短期の求人に応募して渡米することとなった。それまで一度も外国旅行をしたこともなく、兵役に就くはずだったのに、それから1週間もしないうちに、リシュカはオクラホマに降り立った。
 リシュカは仕事のない昼間に、大学で哲学と創作の授業に出るために、夜中必死に英語を勉強していた。成績が悪いと、学生ビザを失ってしまうからだ。オクラホマは、リシュカにとってのアメリカでの故郷だった。

 リシュカは1992年、ニューハンプシャー州のダートマス大学で創作と演劇を学んでいるときに、ケリー・コッパーに出会い、2人でニューヨークに引っ越して、イーストヴィレッジのワンルームマンションで長い間一緒に暮らし、作品を創っていくことになる。かつて「前衛の都」と呼ばれたこの街が生んだ近年の最も注目すべき作品のうちのいくつかは、2004年以降、この2人が「ネイチャー・シアター・オブ・オクラホマ」名義で創ったものである。[…]

 今ではとりわけヨーロッパで成功を収めているとしても(ここ数年でほとんどの重要な国際演劇祭に登場し、ザルツブルクでは「若手演出家賞」を獲得した)、2人の演劇には明らかにニューヨーク的なところがある。それは単に、ウィーン・ブルク劇場とアメリカの俳優を共演させた『ライフ・アンド・タイムズ』が「ミュージカル」というアメリカ独自の芸術形式を用いているから、というだけではない。この2人が影響を受けたのは、確実にマンハッタンの風土なのである。レディメイドの発明者としてのマルセル・デュシャン、日常生活をアートにまで高めたアンディ・ウォーホル、ジョン・ケージやマース・カニンガムに見られる偶然的選択、ケン・ジェイコブスによる映像の再使用、リチャード・フォアマンによる舞台や観客の操作、ウースター・グループに見られる完璧さの魅惑と過剰な要求、そして忘れてはならないのが、トラッシュとキャンプを賞讃するジャック・スミスの独自の美学である。これらの全てが、ネイチャー・シアターの作品のうちに影響を刻んでおり、ネイチャー・シアターはひそかに、歓びをもって、自らをこの伝統に属するものと見なしている。[…]

 『ライフ・アンド・タイムズ』は、単にクリスティン・ウォラルの人生を映し出しているだけではない。このテクストは、6人の俳優に振り分けられることで、複数の人物の伝記のようになっている。振付に関しては、リシュカはとりわけ自分の子供のころに見た動きや写真を使っている。「スパルタキヤード」というのは、チェコスロヴァキアで(また他の旧東欧諸国で)行われていた陸上競技大会の名前である。中でも、振付を伴った集団での体操が見ものだった。物語をより匿名的なものにするために、ウォラルの話に出てくる人名や地名のうちのいくつかは、ケリー・コッパーの似たような子供のころの想い出の人名や地名に置き換えられている。
 こういった戦略や技法はつねに(演劇よりもむしろヴィジュアル・アートや文学といった分野において)、いわゆる「 作者問題」を提起することとなる。だが、コッパーとリシュカが自分の作品について出した回答は、控えめなものではない。確かに2人は他の人が作った素材を使っているが、選択し、文脈を作り、形式を作ったのは、つまり素材から芸術作品を作ったのは、この2人なのである。芸術形式は、自分自身について考えていることよりも、何らかの意味で優れたものでなければならないのである。[…]

 ネイチャー・シアターにとって、演劇のライブ性について真面目に考えるということは、全く同じ公演は決してないということ、それぞれの公演は新しいものとして展開されるということである。初日が明けてからだいぶ経っても、演出家が全ての公演に立ち会うのは、このためである。惰性に陥らないように、パフォーマンスのルールについて、新たな指示や変更を(時には上演中に)出すこともよくある。[…]

 芸術的な手法としての偶然と自由は、明確に決められたルールがある限りにおいて意味を持つ。「何でもあり」では、美学的には大したものを生み出すことができない。コッパーとリシュカが劇作品のなかで使う制約やハードルは、特に重要な意味を持っている。パフォーマーにとっての自由と演出家によるコントロールのあいだ、予見できないものと几帳面さとのあいだのバランスを見出さなければならないのである。パヴォル・リシュカのカールした口ひげや、往々にして造花や小鳥があしらってあるケリー・コッパーの装飾的な髪型といった2人の外見は、まさにこの原則を表すものでもある。2人が自分たちの活動を真面目なものと捉えてほしいと思っているとすれば、それは自分自身に対しても、相手に対しても、特別な努力を要求することになる。この2人は、人生においても演劇においても、あまりに容易なものには価値があるとは思っていない。また、一見やすやすとやっているかのように見える名人芸にも興味がない。これは彼らにとっては、自分に対する挑戦を十分にしていない証であり、まだ自分の限界に至っていないことの証なのである。マジックが面白いのは、それが本当の魔術ではないと分かっているときだけなのだ。
 両足を動かしながら妙な顔をしている俳優が、どうやって実存に関することを伝えうるのか。見るからにしんどい作業によってである。通常は台詞とともに俳優の最も重要な援軍となるしぐさや動きも、俳優の味方になってくれないどころか、敵対しさえする。大きな障害を持った人が、何かを伝えるために、唇の震えや窮屈な様子で、一生懸命になって、誇張された発声をしているのに似ているかも知れない。私たちも、その意味を理解するためには、集中して耳を傾けなければならないのである。[…]

 『ライフ・アンド・タイムズ』においては、俳優が直面しなければならない制約やハードルは多種多様である。[…]振付は台本の中身とは必然的な関係がなく、厳密な左右対称が要求され(必ずしもそれが成し遂げられるとは限らないが)、とりわけ俳優たちがダンサーでも歌手でもないこと(歌手であるジュリー・ラメンドラを除けば)を考え合わせれば、そのために高度の集中と相互調整が必要であることが分かるだろう。これに加えて、出演者の背景の多様性もある。ニューヨークのインディペンデントシアター出身の俳優たちが、ブルクテアターの俳優たちと一緒にパフォーマンスを行っているのである。これによって、中央ヨーロッパとアングロサクソンの演技の伝統のあいだの違い、音楽への対処の仕方の違いといった、言語問題に似た問題も起こりうる。
 俳優が保身のために一定のパターンに陥ったり、戦略を立てたりするたびに、そういった努力は裏をかかれることになる。保身は退屈であり、常にバーはより高く設定されなければならないのである。こうして、たとえば、つねに新たな振付が導入されることとなる。高すぎるハードルは(演劇においては往々にしてそう考えられているように)不完全さの表れでも欠点でもなく、ここではむしろ意図的に導入されている。「何百人もの人たちが君たちを見るために座っているんだ。君たちが楽をする必要がどこにある?」というわけである。
 ネイチャー・シアターの公演は観客にとってパズルのようである。どこに焦点を合わせるかによって、表面にばかり気を取られることもあれば、その裏にある物語に集中することもある。形式と内容はつねに紛争状態にある。台詞も、演技も、メロディーも、空間構成も、衣装も、特定の意味を表象するものではなく、演出家が1つの明瞭な解釈に興味を向けるためのものでは全くない。これらは贈り物であり、これらが結びついて文脈を決める要素となっていくが、そこから自分自身にとっての意味を導き出すことは、私たちの手にゆだねられている。そう、私たちにとっても、あまりにも容易であれば、自分が到達できるであろうところまで行くことができないのである。


2012年6月10日

【ライフ・アンド・タイムズ―エピソード1】『ネイチャー・シアター・オブ・オクラホマを見たときのこと』(岡田利規)

 2008年の夏、僕がやってるチェルフィッチュという劇団が、オーストリアのザルツブルクに公演をしに行きました。あまりにもザ・観光地、という街のしつらえにいささか辟易したのと、観光用の馬車がたくさん闊歩しているせいで街がとにかく馬糞くさく、しかし「美しい」町並みとそれとの組み合わせはなかなかチャーミングでいいぞと思ったのを覚えています。
 そんなザルツブルクで僕らが参加したのは、クラシックコンサートやオペラといった正統的な趣に溢れるものから、そんなことからはすっかり自由な現代演劇まで、とにかく多種多様なプログラムをやるフェスティバル。その中のひとつ、現代演劇の若手演出家コンペティションに出場したのです。
 4組の若手演出家がノミネートされて(そのうちの1人が僕だったというわけです)、それぞれの作品が週替わりに上演される、僕らはその第3週めにつつがなく上演を終え、そのまま次の巡業地へと移動したのですが、翌週末、僕だけザルツブルクに戻ってきました。4組めの上演が終わった翌日に行われる、コンペティションの結果発表に立ち会うためです。
 というわけで、最終組の最終日の上演を、僕は見ることができました。それがネイチャー・シアター・オブ・オクラホマの『ロミオとジュリエット』だったのです。そんなタイトルだからといって、シェイクスピアの有名戯曲を台本通りに上演するわけでもなければ、原作に大胆な解釈をくわえて、というのでさえもないのでした。このグループの中心人物、ケリー・コッパーとパヴォル・リシュカのふたりは、電話の会話を録音するのが好きみたいなのですが、『ロミオとジュリエット』で用いられたテキストは、彼らがいろんな友達に電話して「ロミオとジュリエット」のあらすじを話してくれと頼み、その録音が書き起こされたものでした。今回上演される『ライフ・アンド・タイムズ―エピソード1』も同様のコンセプトでテキストができあがってますね。実はみんな、ロミジュリのあらすじをあんまりわかってなくて、うろ覚えでいい加減なことを言います。その音声を舞台上の俳優はイヤホンで聞きながら、その通りのフレーズを話すのです。上演の途中でときどき、意味なくウサギだったかクマだったかの着ぐるみが踊るのでした。
 いい演劇だなあ、と思いました。肩肘張ったところがなにもなくて、ふにゃふにゃしていて。それでも押し出しの強いところはしっかり、ぐいっと押し出されてるから、アメリカっぽいなあ、いいなあ、と思ったりもしました。観客とのあいだに、リラックスした関係が形成されます。2人はこんなコメントをしたことがあるようです。「舞台上でやられることって基本的には私たちとお客さんが一緒の時間を過ごすための、ただの口実」。いいこと言うなあ。上演と観客の関係について明確な見解を持っていることがわかるコメントですからね。
 さて、そのときの若手演出家コンペティションは、ネイチャー・シアター・オブ・オクラホマのケリー・コッパーとパヴォル・リシュカが受賞しました。壇上に上がった2人は、はにかんだような雰囲気がある人たちで、僕はこの人たち好きだ、と思いました。2人は賞金と、モンブラン社特製のマックス・ラインハルト・モデルなる万年筆を賞品としてもらってました。あ、僕も参加賞で普通のモンブランを頂きました。
 授賞式のあと、ノミネートされていた演出家たち、コンペティションの主催者たちの会食がありました。屋外に並んだテーブルに一堂に会し、夏のザルツブルクの眩しい日差しをパラソルで遮りつつ、馬糞の香りもほのかに漂う中、おいしい食事とワインをごちそうになりました。2人が住んでる街ニューヨークで今度公演するよ、じゃあ見に行くよ、などと話してたのですが、結局当地で会ったことはなく、しかし今回静岡に来てくれるので、彼らにも彼らの舞台にも4年ぶりに会えます。

【筆者プロフィール】
岡田利規 OKADA Toshiki
演劇作家、小説家、チェルフィッチュ主宰。2005年『三月の5日間』で第49回岸田國士戯曲賞を受賞。同作は世界27都市で上演され、11年12月には公演回数延べ100回を記録した。08年、小説集『わたしたちに許された特別な時間の終わり』で、第2回大江健三郎賞受賞。


2012年6月8日

【オリヴィエ・ピィの『ロミオとジュリエット』】死(タナトス)へと疾走する生/性(エロス)(エグリントンみか)

 2011年の初秋、パリのオデオン座で、オリヴィエ・ピィ翻訳・演出の『ロミオとジュリエット』を見た。椰子の木、可動式の木箱と階段、シャッター、ピアノ、ドレッサーといった大道具が、役者たちによって動かされ、目紛しく姿を変える。絢爛豪華な劇場とコントラストを成す、虚飾を剥ぎ取られた簡素な舞台。そこへ喪服を着た役者たちが一同に会して始まり、終わる200分は、悲劇と喜劇、恋愛と憎悪の間を激しく揺れ動き、劇場内の温度を上げながら、瞬く間に過ぎていく。あたかも、死の欲動たるタナトスの暴走を抑える(とフロイトが仮定した)愛と生の欲動たるエロスまでもが暴走したかのように、「不幸な星の恋人たち」の生/性は、死へと直走っていく。
 愛と死への疾走速度をいや増したのは、演出家自身による、大胆なまでに独創的なフランス語訳に他ならない。弱強五歩格を多用したシェイクスピアの英語の韻文を、リリカルな六歩格のアレクサンドランへ、その散文をカジュアルな現代口語へと変貌させたピィの戯曲は、艶かしいレトリックに富んだ恋歌、露骨な猥談、さらには劇聖を揶揄する奔放な言葉遊び( ‘De…secouer…sa poire…Shake his pear…Shakespeare…’「梨(男根)を振れ、シェイクスピア」 第2幕第1場)といった、原作にある様々なモチーフを編み直した、色鮮やかなタペストリーとなっている。
 シェイクスピア戯曲が持つ猥雑さを引き継いだピィ戯曲の恋人たちは、「ロマン主義的な解釈によって流布した、世間しらずのおめでたいカップルのイメージ」を、あざとく裏切ってみせる。ロミオとその父モンタギューの2役を演じるマチュー・デセルティーヌは、一瞬にしてロザラインを忘れ、ジュリエットに夢中になりながらも、半裸で男友達との疑似セックスに興じ、ロミオが異性愛だけでなく、同性愛の手練手管にも富んでいることを臭わせる。カミーユ・コビ(SPAC公演では、セリーヌ・シェエンヌ)演じるジュリエットは、木箱に寝そべったまま登場し、母親のキャピュレット夫人と乳母に呼ばれ、凄みのある低い声で返事をしながら、気だるそうに起き上がる。そして、自分の結婚相手は、命がけでも自ら射止めてみせると叫ばんばかりに、ピストルを構えながら階段を下っていく。かのロミオをリードする程に性愛のレトリックに長けた(原作では若干13歳の)若きヒロインは、手足の長い華奢な体に白いドレスを纏いながらも、純粋無垢な乙女のイメージとはかけ離れた、すでに成熟した女である。
 情熱的というより、動物的といった方が相応しい抑え難い欲動に取り憑かれ、舞台を走り回り、床に倒れ込むタイトルロールたちの性癖は、意味深長なダブリングによって演じ分けられる、ほかの登場人物にも見受けられる。性的な暴言を吐きながら、宿敵モンタギューに半裸で喧嘩を売る召使サムソンと、全裸で乳母を挑発するマーキューシオ(フレデリック・ジルートリュ)。舞踏会でブタの面を被って道化に徹し、快楽を貪る家長キャピュレットと、家長の力を盾にジュリエットに結婚を強いるパリス(オリヴィエ・バラジューク)。ライオンの面を被ってロミオへの報復を誓うティボルトと、黒いヴェールを被ってロミオの毒殺を企むキャピュレット夫人(カンタン・フォール)。ストッキングなどの小道具一つで別の役へと早変わりする手法は、個々の人格の表層性と同時に、異なる人物が持つ隠れた共通点を炙り出し、観客に新たな読みの可能性をも示唆する。
 最終場面、喪服を着た役者たちが再び一同に会し、2人の家長から約束されたロミオとジュリエットの金像に代わって、白い粉が撒き散らされる。「両家の憎しみの生け贄」となった若き恋人たちの灰を撒くことによって、その早すぎた死を弔い、あの世での新床を言祝ぐかのように。

参考文献 ジークムント・フロイト「快感原則の彼岸」『フロイト著作集6』(井村恒郎編 人文書院 1970年)

【筆者プロフィール】
エグリントンみか EGLINTON Mika
翻訳家。神戸市外国語大学英米学科准教授。専門はイギリス演劇研究。SPACで宮城聰演出『ふたりの女』(唐十郎作)、『真夏の夜の夢』(シェイクスピア原作、野田秀樹潤色)の字幕用英訳に携わる。


2012年6月2日

【ペール・ギュント】「ペール・ギュント」、戯曲と音楽のあいだ。(小林旬)

ノルウェーの国民的文豪ヘンリック・イプセン(1828-1906)の戯曲『ペール・ギュント』(1867)は、戯曲のかたちをしてはいるものの、舞台的な制約をほとんど無視している。なにしろペール・ギュントという人間は、端的に言えば、どうしようもない男、荒唐無稽、場あたり的で自己欺瞞に充ちている。物語の時間は40年ちかくにわたり、ノルウェーの大渓谷の村から山の魔王の宮殿、暗闇、モロッコの海辺にサハラ砂漠、カイロの精神病院、嵐の海、墓地、荒野など、おそよ舞台に表現づらい情景が連続する。破天荒な冒険譚、壮大なファンタジー。物語はどんどん肥大化してゆくが、主題はむしろ自己という中心へと加速度的に展開、いや、回転する、と言おうか。「ギュント的おのれ、それはそもそも/希望、願望、欲望の山、/ギュント的おのれ、それはそもそも/機智、欲求、追求の海」。第4幕でペールはそう豪語するが、第5幕、死神の使者であるボタン職人が宣告する。「おのれに徹するとは、おのれを殺すこと」。ノルウェーのノーベル賞文学者でイプセンとも親交のあった大詩人B.ビョルンソン(1832-1910)の評、『ペール・ギュント』という戯曲は、「ノルウェー人の利己主義、狭量、うぬぼれに対する風刺」である。
1874年、エドヴァルド・グリーグ(1843-1907)は31歳のとき、ドレスデンにいたイプセンから長い手紙を受け取った。『ペール・ギュント』を舞台で上演するための音楽を依頼するものだった。25歳のとき、あの劇的なピアノ協奏曲 イ短調 op.16(1868/1906-07)で喝采を浴び、作曲家として世に認められることになったグリーグだが、彼は自らの音楽を抒情的でさりげないものであると感じていた。たとえばグリーグの音楽的な小宇宙をかたちづくるピアノのための小品のかずかず《抒情小曲集》(1867-1901)。彼にとって、どぎつい『ペール・ギュント』は「手に負えない主題」だった。彼は『ペール・ギュント』の文学的価値はおおいに認めてはいたが、それは自身の音楽性とはほとんど相容れないし、そもそもこの戯曲に音楽的なところがあるだろうか―。こんにちグリーグの作品でもっとも知られているのがピアノ協奏曲と《ペール・ギュント》なわけだが、それらはむしろ彼には“らしくない”音楽なのかもしれない。いったん断りはしたものの、結局グリーグがイプセンの依頼に応じたのは、やはり祖国ノルウェーを愛していたからだ。
グリーグの音楽にノルウェーの心がはっきり宿っていると高らかに宣言したのは巨匠F.リスト(1811-86)だ。かつて「ピアノの魔術師」とよばれて華々しく活躍したが、いまやもう晩年の域、ローマで僧籍の身にあった。彼はあるとき楽譜店でグリーグの楽譜に眼を留める。そこにこの若い作曲家の才能を認め、翌日、賞讃と招待の手紙を書き送った。グリーグはローマのリストのもとを訪れる。リストはあのピアノ協奏曲を初見で、しかし圧倒的にドラマティックに奏(ひ)きながら、「これがほんとうの北欧だ!」と叫んだ。
『ペール・ギュント』を舞台化することは、イプセンにしたところで、それがそうとう困難なことであることは判っていた。彼は、こんな規格外な戯曲を舞台化するには、音楽は「口あたりのよいもの」でなくてはならないと考えていた。その点、グリーグは最善の選択だった。グリーグにしても、この《ペール・ギュント》op.23(1874-75)の音楽を「観客が呑みやすいように丸薬にかけた糖衣」にたとえている。
1876年、グリーグの音楽を附した詩劇《ペール・ギュント》は初演された。イプセンとグリーグのもくろみはとりあえずは成功したが、「それは多分に甘ったるい音楽のせいで、作品そのものが理解されたわけではなかった」(原千代海)。「砂糖がむしろつきすぎているように思われる」(P.ワッツ)。劇作家・評論家G.B.ショー(1856-1950)はその音楽について、「この作品の表面的な問題をわずかに捉えているだけで、その本質までには及んでいない」と厳しい。しかしグリーグは判っていたのだろう。「いま、オスロで《ペール・ギュント》を上演するのは、なかなか効果的だ。なにしろ、オスロでは物質主義が昂まり、我々が高尚で神聖だと考えているものをみな押し殺そうとしているのだから。エゴイズムを映しだすもうひとつの鏡が必要だと私は思う。《ペール・ギュント》はそういう鏡なのだ」(ビョルンソンへの手紙)。―第2幕、魔王がペールに言う。「お前たち人間はみな同じだ。口では魂だの何だのと言っているが、握りこぶしでつかめるものでしか、ありがたがらない」(★)。
グリーグはひじょうに個人的な、プライヴェートな作曲家だといえるだろう。愛する国ノルウェーが独立しようとする気運が昂まるなか、彼はフィヨルドの寒村で、《抒情小品集》をこつこつと、まるで日記のようにつづっていた。やがてグリーグは国民的な作曲家となったが、音楽によって革命をおこそう、というのではない。彼は彼の在りかたで、あくまで抒情的でさりげない音楽によってノルウェーの音楽を築きあげた。グリーグがイプセンの詩劇を充全に理解していたとしても、それを本質的に音楽に表現するのは、彼の音楽性、というか、彼の生きかたには、どうもしっくりとはこなかったのだろう。しかし、民族的な主題に情熱を注ぎ、グリーグにとってもっとも劇的で、聴くものの心に物語の情景をありありと描かせる音楽となったのである。
《ペール・ギュント》の初演は音楽を含め、好意的に迎えられた。ぜんぶで26曲のなかから、4曲の第1組曲 op.46(1888)、また別の4曲の第2組曲 op.55(1891)が編まれた。グリーグの《ペール・ギュント》が愛されているのは、劇音楽としてではなく、これらの組曲によってであり、また、イプセンの戯曲『ペール・ギュント』はこの音楽によって世に知られているといってもいい。
現在、イプセンの『ペール・ギュント』を上演するにあたって、グリーグの音楽はそぐわないと考えられている。そもそもこの戯曲が上演されることもあまり多くはないが、それだけに、この音楽の全曲を聴く機会はなおさらない。にもかかわらず、誰もが〈朝〉や〈ソルヴェイグの歌〉を耳にしたことのあるのは2つの組曲があるからだが、それがこれほどまでに世に膾炙されているのは、やはり音楽がすてきだからだ。その音楽には印象的な旋律やリズムがふんだんに、ぜいたくに用いられている。戯曲を離れて、自律した音楽、2つの組曲として聴かれるのは、むしろ作品にとっては幸せなことだったのかもしれない。これだけすてきな音楽を生みだすのは、たやすいことではない。ただ、それだけに、《ペール・ギュント》はグリーグにとって超えようにも超えることのできない最大の壁となっただろう。その後の彼の音楽は、もっとひっそりとした小径へと歩んでいったから―。

『ペール・ギュント』からの引用は基本的に毛利三彌訳(論創社、2006)により、★は毛利訳で省略されているため『イプセン戯曲全集』第2巻(原千代海訳、未來社、1989)による。

【筆者プロフィール】
小林旬
静岡音楽館AOI学芸員。これまで約500曲の曲目解説を執筆。また静岡他の民俗芸能を調査・研究。D.マッケヴィット:《トランスルーセンス》(静岡、東京。2002)、M.ラヴェル:《ボレロ》(熊本。2003)、志田笙子:《四季》(ケルン。2004)、F.ガスパリーニ:歌劇《ハムレット》(静岡。2007)など演出。


【ペール・ギュント】〈自分自身であること〉への旅 ――イプセン『ペール・ギュント』をめぐって(木村直恵)

 〈ペール・ギュント〉とは、イプセン自身の紹介によると「近代のノルウェー民話に登場する半ば伝説的、半ば架空的人物」(1) である。この人物は1867年、イプセンの手によって新たに生まれ変わった。といっても、イプセンの書いた戯曲によれば、この年はペール・ギュントが年老いて死んだ年でもあるらしいので、彼はこの時、1つの生命を終えるとともに、新たな生命を獲得したということになるのだろう。

 ペール・ギュントの物語は、もとの民話と、イプセンの戯曲とではずいぶん異なっている。民話のペールはふてぶてしく、小知恵のまわる男だ。猟師のペールはある日、山のなかで日が暮れてしまい、奇妙なものと遭遇する。ふいに足にぶつかったそれは、「冷たくて大きくてつるつるした」なんとも得体の知れないものである。「こいつ、誰だ」と、思わず尋ねるペールに、それは「おれは、まがりさ」と名乗る。それはじつにへんてこな物体で、ペールがそれをよけるために歩き過ぎようとしても、どこまでいってもそれにぶちあたってしまう。どうにかペールが目的の小屋のなかにたどり着くと、そこにも冷たい大きなつるつるとしたものが浸入していた。「まがり」にすっかり包囲されていることに気付いたペールは、機転をきかせて退治することに成功する。さらにペールは、人間に災いをもたらそうと意地悪くうかがうトロルたちをつぎつぎと巧みにかわし、退治していく。(2) 民話のなかで、ペールはちょっとした英雄である。
 では、イプセンが生み出した戯曲『ペール・ギュント』はどうだろうか。この作品においてイプセンは、民話を素材としつつも、物語に大きく手を加えて膨らませていった。その結果、もとの民話とはほとんど別物といってよいほど、『ペール・ギュント』は完全にイプセンの創作と化した。その変貌のありさまは、われわれがこの過激にして過剰な作品を体験するためのひとつの手がかりとなる。
 イプセン版『ペール・ギュント』の物語は、それに出会う者に、なにより1人の男の流寓の生涯を印象づけるはずだ。ノルウェーの田舎村に生れ育ったペールは、はるばるモロッコの海岸に、次いで砂漠に、さらにエジプトのスフィンクスの傍らに姿を現す。ペール自身によれば、彼はそれまでに貿易商として世界中を駆け回ったこともあるというのだ。そして年老いたペールは帰るべき場所も失ってノルウェーに戻り、さすらい続ける。ペール・ギュントの生涯とは、生れ故郷を立ち去って以来、ずっと根を下ろすことのない流浪の連続であった。ところで意外なことに、このような流浪はもとの民話には存在しない要素である。イプセンは、戯曲『ペール・ギュント』の物語の骨格をなす要素として、〈旅〉を与えた。この旅は物語のなかでどのように展開され、またどのような機能を持ったものだっただろう。
 物語は20歳のペールとともに始まる。ペールに与えられた属性は、嘘つきのほら吹き、粗暴で高慢で生意気なのらくら者、村中の鼻つまみのろくでなしである。ペールはいつも自分がなにか「でっかいこと」をしでかして、周囲の鼻を明かしてやることを夢想している。だがその「でっかいこと」が何であるのか、ペールに具体的な心当たりがあるわけではない。ただお伽話に出てくるような王さまや皇帝の漠然としたイメージが去来するばかりである。
 ある若者が、その一身にはまったく分不相応に思われる欲望や野望への衝動を抱いていて、それゆえに時に人の顰蹙を買い、時にその未知数の将来を期待させるといった話には、ある普遍性がある。そのようにして野心ある若者が旅立つ物語は、いかにも伝説や民話の類にふさわしい題材だ。だが、ペール・ギュントは19世紀の近代人である。正しく言えば、イプセンはペール・ギュントに19世紀という同時代を生きさせることを選択した。もしペールが故郷の村から出奔せずに終ったなら、彼の野望はせいぜい村人の物笑いの種にしかならなかっただろう。そしてやがては若気の至りという解釈のもとに、無害な村の語り草に追加されるにとどまっていたかもしれない。だがペールの形なき野望のドライブは、村の共同体を飛び出して、近代の世界のなかで形をとることになった。ペールの旅とは、その欲望の展開過程にほかならない。
 帝国主義の雰囲気を背景として、19世紀的現実に相応するかたちで解放されたペールの欲望は、3つの形をとって示される。ひたすら富を求める実業家ペール、恋する予言者ペール、そして歴史学者ペールだ。失敗を繰り返しながら流浪と変転を繰り返すペールであるが、彼はつねにひとつの命題に支配されている。それは〈自分自身であること〉だ。中年の成功した実業家ペールは、得々として自分の人生訓を語る、「男子なんたるべきか、おのれ自ら。これがわが輩の単純なる答え」。恋に溺れる予言者ペールは、エキゾチックな娘アニトラに語りかける、「生きるとはどういうことか知っているか?/それは足を濡らさずに流れに漂い時代の河を下ること、完全におのれ自らを保ちながら」。学者ペールはスフィンクスの傍らで知り合った男にこう自己紹介する、「わたしはずっと努めてきました。わたし自身であろうとね」(★)。そして死の間際まで〈自分自身であること〉がペールを引きずり回す。
 だが、そのペールの〈自分自身〉とはいったい何なのか。富、恋、知…、近代の凡庸な欲望の対象を次から次へと節操なく追い求めるペール・ギュントが何者であるのかは、傍で見ているわれわれにもよく分からないことだ。ところで、この問題についてはペール自身が得意気にこう述べている。「ギュント的おのれ、それはそもそも希望、願望、欲望の山、ギュント的おのれ、 それはそもそも機知、 欲求、 追求の海。」
 つまるところペール・ギュントは何者でもないのだ。それはオポチュニスティックに発現される非定形の欲望が、自己を騙っているという事態にすぎないのだ。

 イプセンは、近代人における〈自分自身であること〉の病いにきわめて意識的な作家だった。『ペール・ギュント』以降の作品には、〈自分自身であること〉をリゴリスティックに追及し、強迫することが引き起こす悲劇が何度も現われる。例えば『人形の家』におけるノラの出奔は、署名という〈自分自身であること〉を象徴する行為が契機となっている。だがこの問題に関して言うと、『ペール』以後の作品は、よりいっそう深刻であるがゆえに、むしろ一面的である。言い換えると、のちの作品群に比べると、はるかに非現実的に見える『ペール』のほうが、人間の現実のありようにずっと肉薄しているように思われるのである。
 〈自分自身であること〉という言葉は2度、若くて向こう見ずだったペールに投げかけられた。まずはトロルの国のドヴレ王によって。「山の外、照り輝く大空の下ではこう言う、『人間よ、おのれ自らに徹せよ!』/ここ、われらトロルの間ではこう言う、『トロルよ、おのれ自らに満足せよ!』」ついでトロルの国を脱出したペールは、奇妙な体験をする。闇のなかで茫洋とした得体の知れないものに包囲されてしまうのだ。「答えろ!何ものだ?」「おのれ自ら」。「おのれ自ら」を名乗るこの不気味なものはボェイグ――すなわち民話の「まがり」である。これこそイプセンがペール民話からつかみ出した物語の核だった。ペール・ギュントはこのとき、「おのれ自ら」なるものにどこからどこまでも取り巻かれてしまったのだ。だが民話と違い、それは切り抜けることも打ち倒すこともできない。そしてそれは「回り道しろ、ペール!」と命令しつづける。
 ペールの旅は、この命令に導かれて始まったのだった。それゆえ、大いなる回り道に終わることが最初から運命付けられている。しかもそこにはドヴレ王の言葉が深く刻みつけられている――ただし〈満足〉という言葉が含まれていたことを、すっかり意識の外に追い払ってのことだったが。かくしてペールの旅はある構図によって規定されることとなった。すなわち<自分自身であること>というテーマが、〈欲望〉と〈満足〉という相対する2極から引っ張られているような構図だ。
 だからペールは、いつでも日和(ひよ)る。「大胆不敵さのコツとはそも何か?行動する勇気を持つためのコツとは何か?それは落し穴に落ちた人生の荒野に絶えず可能性を残して立っていること。…いつでも引き退ることができるように常にうしろに橋を作っておくこと」。「傍観者として、安全な距離から」(★)というのが彼のモットーだ。そして流行を追うこと、順応すること、なんにでも慣れてしまうこと。自分自身であろうとする欲望を追いかける道程には、最初から満足が織り込まれている。それゆえ〈自分自身であること〉は、その本人の主観的意識に反して、いつだって中途半端な試みにならざるを得ないのである。40年の長い放浪を経ながらあまりに成長も成熟もしない主人公をつうじて、欲望が形をとるおぞましさと、形にすらならないことの空しさとを2つながら描いてみせるこの物語は、りっぱなアンチ教養小説(ビルドゥングスロマン)の様相を呈している。
 だが、〈自分自身であること〉を貫いて成熟していけることなど、この近代の世界のなかでありうることなのだろうか。エジプトの精神病院で狂人たちの皇帝(ペールの野望はここで叶う!)となったペールは、彼自身も狂人である病院長から、狂人とは徹底的に自分自身であるような人間たちだと説明を受ける。また、年老いたペールは、「おのれ自らだったことなんて1度もない」凡庸な魂として、ボタン作りから魂を回収されそうになる。老ペールはボタン作りから逃れるため、悪魔にすがり付いて地獄に行くための条件を聞き出す。悪魔が示した条件とは、夜も昼も、自分自身であり続けること――であった。〈自分自身であること〉の貫徹は、近代の世界においては、狂気か、地獄に通じる道なのである。

 それでは〈自分自身であること〉の不可能がこの物語の結論であったのか。イプセンは『ペール・ギュント』の結末をたんなるシニシズムのうちに閉じてはいない。むしろこの作品の最大の魅力は、〈自分自身であること〉という問題をめぐる深い洞察を構成している点にこそある。われわれはここで民話には存在せず、イプセンが創造し、付け加えたもうひとつの重要な要素――女たちが、この作品に配置された意味を問うてみなければならない。
 この物語はペールの母オーセに始まり、ソールヴェイに終る――2人の女に支えられた物語世界という構造をとっている。この2人の女において、まぎれもなく〈愛〉が形象化されている。彼女たちは、ろくでなしペールをただひたすら深く愛さずにはいられない。オーセは、息子にさんざん迷惑をかけられつつも「あの子を失くすわけにはいかないんだ!」と叫ぶ。これはほかならぬ彼自身を、そのあるがままの存在において承認し求める者だけが発することのできる、究極的な愛の言葉である。ソールヴェイはそれを分かち合い、受け継ぐ関係にある。この際、ソールヴェイに「あんな男をなぜ」と尋ねることに意味はない。なぜなら愛は出来事であり、究極的にいかなる理由付けも動機も拒むからである。それはただ、近代的欲望や満足から完全に離れたところで屹立している、まったく手段的ならざる何かなのである。だがそれゆえに、近代的世界において〈愛〉は居場所を失う。イプセンはそのことについても意識的だった。
 のちの『人形の家』でも、『野鴨』でも、イプセンは、同一性と真正性の証明を求める強烈な光のもとに、剥き出しに暴き立てられ、追い立てられることにいたたまれなくなる愛の姿を描いた。興味深いことにこのような愛の荒廃を、イプセンは〈自分自身であること〉の追及と表裏する問題として取り出した。ペールもまた、〈愛〉の手前でそれを迂回して以来、〈自分自身であること〉を求めて愛なき世界をさまよいつづけてきた。だがこの作品においては、これ以後の作品とは異なり、〈愛〉の居場所は世界の背景に保持されつづけていた。
 ペールのまわり道は、それがソールヴェイの前から始まったのである以上、当然、再びソールヴェイのもとへたどり着くことによって閉じられる円環でなければならない。年老いて盲目になったソールヴェイは、若き日に待っていてくれと言い置いて去ったきり帰って来なかった男のすべてを抱擁する。われわれはそこで初めてペールがペール自身であった場所の在り処を知るのである。「じゃ、言ってくれ、おれの全身、おれの真実、おのれ自らとして、おれはどこにいたか?」「わたしの信仰の中、希望の中、愛の中。」――これこそ、この物語のすべてが収斂していく場所である。〈自分自身であること〉をめぐるペールの不毛なあがきと、棄てた故郷の〈愛〉のなかで、すでに、つねに成就していた彼自身とのこの対照は、きわめて印象的である。
 〈自分自身〉とはいったいどこにあるのか――他者による深い承認のうちに。このことをイプセンは演劇的(ドラマチック)な仕組みのうちに見事に明かしてみせた。ペールのさまよった世界は広大だが平板なものであった。だがイプセンは、結末でオーセとソールヴェイによって支えられた枠(フレーム)を浮き立たせることで、世界を一挙に重層化してみせる。身勝手に傲慢に世界を駆けめぐってきた19世紀の主人公ペールは、その瞬間、主人公の座を〈愛〉に譲る。それは〈自分自身であること〉について、演劇が与えたひとつの歴史的回答である。
 ただしイプセンは『ペール・ギュント』を、上演を想定しない戯曲として書いた。このスペクタクルを舞台のうえでいかに立ち上げて見せるか、それは近代という長い時代が続いている限り、後世に託された挑戦でありつづけている。

*テキスト日本語訳の引用は、基本的に毛利三彌訳により、★は毛利訳で省略されているため原千代海訳を用いた。

1 1867年1月5日付フレデリック・ヘーゲル宛書簡
2 「ペール・ギュント」『世界の民話3・北欧』、ぎょうせい、1976

【筆者プロフィール】
木村直恵
学習院女子大学准教授。専門分野は比較文学、比較文化。主著に『<青年>の誕生 明治日本における政治的実践の転換』(新曜社、1998年)。


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