2012年7月17日

【Nameless Voice――水の庭、砂の家】考える前に、観る前に(古川日出男)

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 Noism というカンパニーがその作品を成り立たせるために「不可欠」としている要素は、わずかに2つしかない。誰もが思いつける最小単位の2つだ。すなわち肉体と劇場。このうち、ダンスであるならば前者は必須だ、と即答できる。面白いのは後者で、そこが劇場であることを忘れることがこのカンパニーにはない。結局のところ、それは「Noism の芸術監督である金森穣には、ない」と言い換えられる。
 舞台芸術とは何なのか。
 それは当たり前のように、金森さんに問われつづけているのだ。
 しかし問うためにはツールが要る。どんなツールか。「舞台に立てるダンサー」がその回答だろう。踊る才能というものは、持てる者は持てる。だから優秀なダンサーはいかなる場所(現実の土地、現実の所属、アマチュアかプロフェッショナルかの区分)でも見出しうる、のだけれども、しかし全員が舞台に立てるわけではない。劇場とは異様な空間だ。その異様さは、「そこが異様である」と本能で感じ取っている人間にしか、解析しえない。だが舞台に憑かれて「それを(わざわざ)観たい」と思う人間は――私やあなたのような観客は――そこが普通の空間ではないから足を運んでいる。つまり日常を超える場としての、劇場。
 そこに、誰が立てるのか。
 このことは Noism の設立以来、シビアに問われている。訓練というもの、肉体への眼差しというものが、彼らに蔑ろにされることはない。ただし、ここまでは最小単位の2つ、ただの「不可欠」の要素でしかない。さらに要素は、足される。肉体と劇場はある作品を成立させるためのマトリックスでしかないのだから。照明であれ衣裳であれ音楽であれ、そうしたものも「付け足し」とはならないのが Noism(の作品群)だ。が、それ以上に金森さんのイメージというのがある。劇場があり、肉体があり、そこに作品のためのイメージ――または複数のイメージ、イメージ群――が掲げられて、そこから出発する。
 たとえば、今回の『Nameless Voice』でいうならば、ひとつには水。「水で何かを作れ」と言われたら、人は、水そのものを描出しようと足掻く。しかし、こう考えてほしい。本来水があるべき場所に、水がないとしたら、人はそこに水を連想するのではないか、と。そしてこの作品の冒頭には、まさに「水があるべき」何物かが大量に登場して(そして、それ/それらの内側には水がない)、イメージの圧勝といったものから発進する。題名にある Voice に関してもそうだ。声はある種、ダンス公演にとっては飛び道具で、それだけでメッセージ性を持ってしまうわけだが、しかし声があることで「声があるべき」何事かが連想されつづけるだけだとしたら。それだけだとしたら。すなわち、強烈に「ない声」=無声が意識されるのだとしたら。
 そもそも Noism を鑑賞するのに、じつは作品のコンセプトの理解やメッセージの咀嚼は、不要だ。演題やあるいはパンフレット掲載のさまざまな文章がメッセージらしきものを呈示するが、しかし、そこにある「主題」というものは作品ではイメージの屹立という形でしか表われない。それがわざとなのか無意識になのかは不明だが、金森さんは結局、メッセージなど届けていない。それらはイメージ群に転位されて、私たち観客に求められるのは、せいぜい「考えろ。答えはない」ということだけ。しかも、ここが Noism のすばらしさなのだが、私たちはじつは考えることすら必要ない。なにしろ、まずは感じなければならないからだ。イメージを感受すること、味わうこと。劇場と肉体という「不可欠」のプリズムにさらに多数の屈曲/分散のために要素を足して、私たちは「感じろ」と求められつづける。
 素敵な要求ではないか。感じろ、それから考えろ。答えなど出さずに、また観ろ。
 では、観よう。

【筆者プロフィール】
古川日出男 FURUKAWA Hideo
1966年福島県生れ。作家。98年に『13』で小説家デビュー。2002年『アラビアの夜の種族』で日本推理作家協会賞と日本SF大賞、06年『LOVE』で三島由紀夫賞を受賞。その他に『ベルカ、吠えないのか? 』 、『聖家族』等、著書多数。