2012年11月11日

【ロミオとジュリエット】ロミオとジュリエットは、笑いから悲しみへ向かう(河合祥一郎)

 オマール・ポラスの稽古場に立ち会って、彼の才能を確信した。付け耳・付け鼻やユニークな衣装を用いるオリジナルな演出は『ロミオとジュリエット』前半の喜劇性を効果的に強調するものであり、こんな突飛なアイデアはよほど深く作品を理解してないと出てこないからだ。ロマンティックな美しい影絵に目を奪われることになるが、これも喜劇性とのコントラストがあればこそ、一層効果的になっている。
 前半の喜劇性というのは、この作品の重要なポイントだ。『ロミオとジュリエット』がシェイクスピアの四大悲劇(『ハムレット』、『オセロー』、『リア王』、『マクベス』)のなかに入らないのは、この喜劇性ゆえだと言ってもいい。マキューシオや乳母が下ネタ満載のジョークを連発し、前半は悲劇どころか笑劇のようでさえある。
 実際、前半はロミオとジュリエットが出会って恋に落ちるのが話の大きな流れなのだから、悲劇的な要素はほとんどない。むしろわくわくする楽しい展開だ。事態が変わるのは、マキューシオが殺され、ロミオがティボルトを殺してしまう時点からだ。血が流れ、急転直下、ロミオは追放。笑いは凍りつき、悲劇へと変わる。喜びを期待しているときの悲しみほど衝撃的なものはない。だからこそ、『ロミオとジュリエット』はドラマティックなのだ。名作と呼ばれるものには、そのように後半で急に悲劇に転ずるものが多い。『オイディプス王』しかり、『リチャード三世』しかりである。
 ただし、四大悲劇はそのようには書かれていない。ハムレットは最初から嘆きながら登場するし、リア王はのっけから最愛の娘を追放してしまう。さらに言えば、四大悲劇の主人公たちは運命の矢弾を耐え忍び、おのれの力で憤然と運命と戦おうとするところがドラマの核心となっているが、ロミオとジュリエットの場合は「不幸な星の恋人たち」(star-crossed lovers)であり、「ああ、俺は運命にもてあそばれる愚か者だ」とロミオの台詞にあるように、運命と対決することがなかなかできない。ティボルトを殺して追放になってしまったロミオがロレンス神父のもとへ逃げ込んで泣き叫び、「女々しい」と神父に叱られるところなどは、まったく悲劇の主人公らしくない。そんなロミオもジュリエットの訃報を聞くと、「ならば、運命の星を敵に回して戦おう」と叫ぶ。この時点で真の意味での悲劇が始まるのだ。
 四大悲劇はシェイクスピアの「悲劇時代」(1600~1606年)に書かれているが、『ロミオとジュリエット』はそれよりもずっと早い「初期喜劇時代」の作品だという点も見逃せない。具体的には1594年から1596年のあいだ。初期喜劇とは、『恋の骨折り損』、『間違いの喜劇』、『じゃじゃ馬馴らし』、『夏の夜の夢』などだ。
 喜劇時代の作品であるため、道化の活躍も大きい。乳母の召し使いピーターは、当時の道化役者ウィリアム・ケンプが演じたことがわかっている。乳母自身もかなり道化的だ。
 観客を楽しませる乳母は、ジュリエットの心の友でもあるから、そんな「大事なばあや」が、「ロミオなんて忘れてパリス伯爵と結婚なさい」などと言うとき、ジュリエットのショックは大きい。
 ジュリエットはすでにロミオと結婚しているので、乳母が勧めているのは二重婚である。キリスト教では許されない恐ろしい罪であるから、ジュリエットは「心からそう言っているの?」と問い、「ええ、魂から、でなきゃ地獄落ちになります」という乳母の答えに「そうなりますよう」と返すジュリエットは真剣だ。泣いてばかりだったジュリエットは、このときになって泣くのをやめて決然と立ち上がる。そして、真の悲劇のヒロインへと歩み出すのである。あとは運命の導くままエンディングへ。
 なお、ポラス演出では(少なくとも稽古の時点では)ジュリエットの死とともに幕を下ろすエンディングとなっているが、これはバレエではおなじみの演出である。

【筆者プロフィール】
河合祥一郎 KAWAI Shoichiro
東京大学教授。専門はシェイクスピア、表象文化論。角川文庫よりシェイクスピア新訳を刊行中。著書に『ハムレットは太っていた!』(白水社、2001)ほか。共同台本執筆をした『家康と按針』(市村正親主演、グレッグ・ドーラン演出)が今年12月東京・神奈川再演、来年新春ロンドン上演予定。