2013年1月8日

【ロビンソンとクルーソー】孤独な島はふたりに帰属する(大澤真幸)

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※作品内容に言及する箇所がございますので、事前情報なしに観劇を希望される方には、観劇後にお読みになることをお勧めいたします。

 ダニエル・デフォーのロビンソン・クルーソーは、ひとりで無人島にたどりつく。だが、イ・ユンテクの『ロビンソンとクルーソー』では、ふたりの男が別々に同じ小さな無人島に漂着する。
 『ロビンソンとクルーソー』のメッセージは明快で力強い。ふたりの男、ロビンソンとクルーソーは、それぞれ、韓国人と日本人を代表している。ふたりは、最初はいがみ合い敵対している。しかし、無人島で生き延びようとしているうちに、ふたりは、自然と協力しあうことになる。やがて、両者は互いを理解し、深い友情を――自分が助かることよりも相手のことを優先させるほどの深い友情を――はぐくむに至る。敵対しあっている韓国人と日本人が連帯することができるということ、ひとつになりうるということ、いやむしろ本来はひとつであったということ。この芝居は、あらためて、私たちに、これらのことを想い起こさせる。
 芝居は、ユーモアにあふれ、全体としてコミカルである。もの言わぬ(しかし踊る)猿二頭がときどき介入してくることを別にすれば、ロビンソンとクルーソーのたったふたりしか登場しないが、芝居は、韓国語と日本語の二言語を交錯させながら、ときに観客を巻き込み、いくつものエピソードを組み込みつつ、躍動感あふれる展開を遂げる。大いに笑った後、観客は、ラストのシーンに思わず涙を流すだろう。
 『ロビンソンとクルーソー』は明快なので、その中心的な主題を読み間違うことはまずありえないが、深く理解するためには、歴史的な背景を知っておく必要がある。1910年に、日本は韓国(当時は朝鮮半島全体)を併合(植民地化)した。その5年前(1905年)に、日本は、隠岐諸島の北西157キロにある小島、日本で「竹島」、韓国で「独島(トクト)」と呼ばれている無人島を自らの領土と定め、島根県の所属としていた。日本と韓国の間の諍いの源には、これらの出来事がある。
 日本の植民地支配は、日本が敗戦した1945年まで続く。『ロビンソンとクルーソー』は、1945年8月16日から始まるが、それは、日本の敗戦が国民に告げ知らされた日の翌日、したがって日本の韓国に対する植民地支配が事実上終わった日の翌日だということになる。
 植民地支配は終わったが、日韓の間には、今日に至るまで多くの問題が解決されずに残っている。たとえば歴史教科書の問題がある。両国の標準的な歴史認識の中で、植民地支配の評価はもちろんのこと、文禄・慶長の役の意味の解釈等において、多くの不一致がある。また、ほかならぬ無人島、竹島=独島がどちらの国に帰属するのかという問題は、現在の日韓関係における最大の懸案である。
 加えて、朝鮮半島に残る最大の不幸、すなわち南北の分断は、日本による韓国併合に由来していることを忘れるべきではない。終戦時、朝鮮半島は日本領であった。そのために、連合国の信託統治の対象となり、その際、北をソ連が、南をアメリカが支配したのが、分断の原因である。いわば、日本が他者(韓国)を併合したことが、その他者の分裂を招いたのだ。
 だから、韓国と日本は、無人島にたどり着いたばかりのロビンソンとクルーソーのように仲が悪い。しかし、『ロビンソンとクルーソー』は、両者が仲違いを克服して連帯しうること、対立を越えて一体化しうることを示唆している。無人島を竹島=独島に重ねたとき、日韓両国の人々はひとつの希望を見るだろう。
 このように日韓の歴史的背景に関係づけると、この芝居の固有で特殊な意味を取り出すことができるが、これをデフォーの『ロビンソン・クルーソー』と対比すると、今度は、人間についての普遍的な洞察を導きだすことができる。『ロビンソン・クルーソー』は、ひとりであることについての、つまり極限的な孤独についての物語である。あえて、この孤独の物語を下敷きにして、『ロビンソンとクルーソー』というふたりについての物語、ふたりがひとつになりうることについての物語が創られていることに留意すべきである。そうすると、単独者(「ロビンソン・クルーソー」)が、他者との葛藤を媒介にして高次の統合(「ロビンソンとクルーソー」)へと至るという弁証法的な過程を思い描くことができる。
 『ロビンソン・クルーソー』の主人公クルーソーも、他者と遭遇しないわけではない。フライデイがその他者である。しかし、クルーソーは、フライデイを野蛮人と見なし、奴隷のように扱う。これは、大英帝国による植民地支配の隠喩である(ここで、もう一度「韓国併合」のことを想い起こしてもよい)。フライデイは、クルーソーにとって対等な他者ではないがゆえに、その孤独を癒すことはできない。
 家造りのエピソードを対照させてみるとおもしろい。『ロビンソン・クルーソー』で、主人公は、他者の――人食い人種の――侵略を恐れて、深い洞窟のような家を造る。彼は、その中に、フライデイすら入れない。洞窟への引きこもりは、クルーソーの孤立を際立たせている。それに対して、『ロビンソンとクルーソー』では、ふたりは協力して一つの家を建てる。家は、連帯の象徴である。『ロビンソン・クルーソー』で、クルーソーは、あまりに深く穴を掘り過ぎて、最後に、洞窟が山の反対側に突き抜けてしまう。深く内側に退却したことで、かえって、外への孔が開いてしまったのだ。外へと、他者へとつながるその孔の意味を継承し、ふたりについての物語を創れば、それが『ロビンソンとクルーソー』になる。
 『ロビンソンとクルーソー』は、韓国語の「助けて」の叫びから始まる。ラストで、クルーソー(日本人)の無言の叫び、ひとり無人島に残ったクルーソーの助けを求める無言の呼びかけに応ずるように、ロビンソン(韓国人)は、無人島に帰ってくる。冒頭の韓国語の「助けて」は虚空に向けられている。しかし、最後の日本人の「助けて」という想いは、声に出されていないのに韓国人にしっかりと聞き取られている。他者の呼びかけを鋭敏に感知し、これに応答すること、そこに真の連帯のための基礎がある。

【筆者プロフィール】
大澤真幸 OHSAWA Masachi
SPAC文芸部員。社会学者。千葉大学教授、京都大学大学院教授を歴任。著書に『社会は絶えず夢を見ている』、『〈世界史〉の哲学』古代篇・中世篇、『夢よりも深い覚醒へ――3.11後の哲学』等。思想誌『Thinking「O」』主宰。