2013年5月30日

【黄金の馬車】『「黄金の馬車」とメリメの再演劇化』(田之倉稔)

 1952年に製作されたルノワールの名作の誉れ高い映画であるが、最近になってまた再評価されているようだ。第二次世界大戦が終わってルノワールは亡命先のアメリカからパリにもどってきたが、フランス映画を作る機会にはめぐまれなかった。第一作目の『河』に続いてテクニカラーで撮ったのがこの作品だった。イタリア・フランスの合作。
 原作はメリメの『サン・サクルマン(聖体)の四輪馬車』という戯曲。『クララ・ガスルの演劇』に『デンマークのスペイン人たち』ほか6編とともに収められている。戯曲集は1830年に上梓されているが、その5年前「グローブ」という雑誌に発表された。メリメは自分の名を出さず、スペインのジブラルタルで出会ったガスルという女優の書いた作品という体裁にした。現在ではメリメが書いた作品として扱われている。彼はこの戯曲を「コメディー」ではなく「サイネーテ」と呼んでいる。「サイネーテ」とはスペインで生まれた「短いファルス」の呼称で、歌や踊りのはいることもある。18世紀ごろ南米でもよく演じられた。メリメ23歳のときの「若書き」の「軽い喜劇」だった。
 オッフェンバックもこの作品に目をつけて、オペラ・ブッフ『ラ・ペリコール』三幕を作曲している。ここでは女優はジプシー(ロマ)の、しがない歌手となっている。
 メリメは後年「歴史的記念物視察官」の職についてからは、僻地に埋もれていた文化財や歴史の調査に精をだした。だから史実を尊重し、小説もあまり虚構化しなかった。『カルメン』を読めばわかるとおりで、これもスペイン文化に精通していたメリメでなければ書けない小説であった。『四輪馬車』の原作に登場するカミーラもミカエラ・ビジェガスという実在する女優で、彼女と恋におちいるリマの総督も、1761-75年までその地位にあったマヌエル・エ・アマトという人物だった。六十歳近い初老の男と二十数歳の美しい女優との恋物語だった。ルノワールは映画化にあたって、メリメからなるべく離れようと考えた。その結果単層的な「サイネーテ」は重層的な「コメディー」へと変貌した。闘牛士ラモンや将校フェリペ、カミーラ-ヨーロッパからやってきた「コメディア・デラルテ」一座の女優-などを登場させたり、芝居の場面を再現することによって映画を豊かな「スペクタクル」に仕立てた。しかしルノワールはそれだけに満足せず、もう一つの意図を実現しようとした。それはメリメの原作をもう一つの物語で囲い込み、「メタシアター化」をはかった。こうして映画は原作を超え、エキゾチズムの時代からポスト・コロニアリズムの現代までを見通す視点をうちだした。
 クスコの戦闘で捕虜となっていたフェリペはリマにもどってこういう。「(インディオスは)野蛮どころか、彼らほど心のやさしい人々はいない。(中略)文明という、誠意も心もないものに、僕はおさらばするよ」(川竹英克訳)。カミーラは、闘牛士と総督よりフェリペを愛しているが、インディオスの社会へと向かうフェリペを追わない。カミーラは「あんな馬車いらないのよ」といい、その無用性をフェリペとともに認める。「権力の象徴」だった「黄金の馬車」とは「アナクロニズムの象徴」にかわってしまった。
 この時代のリマは、スペインの統治下にあった。総督は国王の代理として本国から派遣されていた。私はかつてこの地を訪れたことがあるが、大統領府の近くにインカ帝国を滅ぼした悪名高きピサロの騎馬像があったのには驚いた。いまやコロンブスさえ批判されているというのに! スペインのコロニアリズムは南米のネイティヴたちと文化を抹殺しようとした。ペルーはその最大の被害者だった。各地でインディオスの反乱が起こっていた。これを鎮圧しようとした総督府は多額の支出をよぎなくされ、財政状態は火の車だった。現代のペルーはピサロの影も追い払い、自立した国家となっている。映画では総督、ラモン、フェリペも消え去った。カミーラは女優という自己の立場をつらぬいた。座長のアントニオはいう「役者や綱渡りや道化や軽業師が(おまえの)仲間だ。幸福を、お前は舞台で見つける」。国家と演劇は等価であることを伝える。結局『黄金の馬車』のメッセージとは「メタシアター」に他ならなかったのである。
 宮城聰は18世紀リマを室町時代の日本に、「コメディア・デラルテ」を「田楽」におきかえ、「メタシアトリカルな構造」を表出しようとした。

【筆者プロフィール】
田之倉稔 TANOKURA Minoru
演劇評論家。1938年生まれ。東京外国語大学イタリア科卒。元静岡県立大学国際関係学部教授。1981年『イタリアのアヴァン・ギャルド―未来派からピランデルロへ』(白水社)でマルコ・ポーロ賞受賞。著書多数。