2013年11月13日

【わが町】開戦3週間前の『わが町』(水谷八也)

 1938年2月、ソーントン・ワイルダーの『わが町』はブロードウェイのヘンリー・ミラー劇場で幕を開ける(といっても、最初から幕は開いていたが・・・)。後のワイルダーの芝居が常に賛否両論を招くように、『わが町』も完全な裸舞台という過激さゆえに評価は大きく分かれたが、春にはピューリッツァー賞に輝き、次第にアメリカを代表する戯曲という地位を獲得していく。以後数年間で、『わが町』は世界中で翻訳され、地球上で『わが町』が上演されていない夜はない、とまで言われるようになる。
 ブロードウェイでの幕を閉じるのが38年11月。森本薫の翻訳『わが町』が演劇雑誌『劇作』の11月号に掲載されるのが翌39年である。当時の状況を考えれば異様な早さである。これが舞台にかかるのが1941年7月。文学座が「勉強会」の名のもと、長岡輝子演出で、築地の国民新劇場において上演した。この短期間の公演は好評で、朝日新聞はこのような良質の舞台を「3日で終わらせるのは惜しい」と書いている。これに応える形で、文学座は9、11月に東京、大阪で上演することを決定した。
 7月の舞台を見て感動し、東京での本公演をもう一度見た若者がいた。東京商科大学(現・一橋大学)の学生だった大串隆作である。大串は演劇研究会のメンバーであり、この文学座の『わが町』をぜひ、国立のキャンパス内にある兼松講堂で上演して、その感動を学友と共有したいと願い、さっそく行動に出る。しかしこの年8月のアメリカによる対日石油輸出禁止以後、軍内部は開戦の方向へと傾き、当時の日米関係は悪化の一途をたどっていた。大串は周到に準備を進める。
 幸い、大学にはリベラルな空気がまだあり、アメリカ文学者の西川正身もいた時代である。大串青年の熱意は教授陣にも伝わり、全学あげて協力体制をとり、また文学座もこれを快く引き受け、11月17日、文化祭の一環として兼松講堂での上演が実現する。公演は大成功に終わり、学生も教員も深い感動に包まれたという。真珠湾攻撃のわずか3週間前のことである。
 一橋での公演の翌日の朝日新聞第一面の中央には、「首、外相 対米決意を明示」という囲み記事が出る。これからその「アメリカ」と戦う運命にあるとおそらくは予感していた学生たちはどのような思いで「アメリカ」を代表するこの芝居を見て、何に感動したのだろう。時代の空気を考えれば、彼らの感動の源泉がこの戯曲の「アメリカ」的な要素にあったはずはない。おそらく彼らは、「アメリカ」を突き抜けた『わが町』の本質に触れたのだと考えざるを得ない。
 長岡輝子の演出助手であった長尾喜又は、「私たちはあの年の日夜ひそかに動員が繰り返される夏の日の重苦しい、逼迫した情勢の中で、また予感される死、危険の恐れの中で、この舞台からしみじみと毎日の平凡な生活の貴さ、人生の意義、価値、悲哀、そして永遠なものを感じ、味わったに違いない」と回想している。「死」は、特に若者にとって、現実問題として目前にあった、すでにアジアに、そしてアメリカ・・・。
 ほとんど劇的なことが何も起こらないこの劇を「つまらない」とか、「感傷的だ」と揶揄する向きもあるだろう。しかし、41年11月17日の兼松講堂での若者たちの感動を笑うことはできない。私たちは素直に彼らの感動を想像すべきだろう。
 「平凡」が奇妙にドラマ化され、すでに「平凡」でなくなっている現在、『わが町』はどんなふうに見えるのだろうか。西川正身は兼松講堂での上演後、一橋新聞に「変転の時流をよそに 静かに生を反省」と題して記事を書き、同僚の神保謙吾は文学座を「多分の純粋性を持っている」劇団と評価した。今回はこの純粋性を受け継ぐ文学座の今井朋彦が、一橋の学生も耳にした森本薫の翻訳を使っての演出となる。日本の『わが町』の原点に戻って、変転の時流をよそに、静かに「平凡」を反省してみたい。

【筆者プロフィール】
水谷八也 MIZUTANI Hachiya
早稲田大学文化構想学部教授(文芸ジャーナリズム論系)。専門分野は20世紀英米演劇。共著に『アメリカ文学案内』(朝日出版社、2008年)、訳書にソーントン・ワイルダー『危機一髪』『結婚仲介人』(新潮社、1995年)など。