2019年2月15日

【妖怪の国の与太郎】ジャン・ランベール=ヴィルド、あるいは詩人として世界に住むこと(ポール・フランセスコーニ)

 リムーザン国立演劇センターのディレクターである前に、ジャン・ランベール=ヴィルドはまず詩人である。舞台のために、あるいは人生において詩を書きながら、世界中の夢と亡霊とを呼び覚ましながら、彼は詩とともに地球上に住み、生と死の普遍的な道を歩んでいる。
 彼はレユニオン島の出身だ。インド洋のただなかに浮かぶ旧フランス植民地で、アフリカとヨーロッパとアジアが交錯する島だ。この火山島では、いやでも自然と対話をさせられる。大文字の歴史に祝福され、今なお歴史が親密に語りかけてくる島。神聖なものと日常的なものとが絶えず対話を交わす神話に満ちた島。ランベール=ヴィルドは「レユニオン島ディアスポラ」とでもいうべき人々のうちの一人だ。彼は島の外で生きながら、自分のなかに、テクストのなかに、舞台のなかに、世界のなかに、この島を持ち込んでいく。島は世界の鼓動への耳の傾け方に影響を与えている。彼が地理的・芸術的にノマドでありつづけるのは、この出発点としての亡命があったからだ。
 ランベール=ヴィルドは信じられないほど多様な劇世界を旅しつづけているので、芸術界の未確認飛行物体のようにさえ見える。彼の作品は何一つ互いに似たものがない。彼の舞台では演技術だけでなく、造形美術、音楽、ダンス、現代的なマジック、ビデオ、古かったり新しかったりする機械、さらには蜂にしゃべらせる技術までが用いられる。ランベール=ヴィルドは何にでも興味をもつ男だ。パゾリーニのテクストにのせてクラゲ状のホログラムを揺らせたり、観客をプールの底に連れて行ったり、『リチャード三世』で綿菓子に台詞を与えたり、無重力状態で旅をしたり、ジャグリングの巨大なボールとともに川の上を飛び跳ねたり、アメリカインディアンの一部族をアヴィニョン演劇祭に参加させて、人間と宇宙の和解について話させたり、ロシア人、日本人、ハンガリー人、アメリカ人、韓国人と作品を作ったりする。最大のヒット作は二人の驚くほどすばらしいアフリカ人俳優による『ゴドーを待ちながら』だった。
 多様な演出に挑戦しながらも、ほとんど全ての作品に一貫して、ある衣裳が登場する。青と白の縞々のパジャマ。ランベール=ヴィルドはよくこの衣裳を着ている。夢遊病者として、あるいは彼が「グラン・ブラン」と呼ぶ、物悲しく辛辣な白いピエロとして。往々にして、オリジナルの作品でも翻案(シェイクスピア、モリエール、ベケット・・・)でも、ランベール=ヴィルドは自作に出演もしている。一見多彩に見える作品群だが、こういった形式面での恒常的な要素が導きの糸となっている。彼は『ヒュポゲウム(地下貯蔵庫・地下墓室)』と名づけた演劇作品群を作りつづけている。『ヒュポゲウム』は1つの『エクムネジー』と326の『カレンチュア』からなっている。『エクムネジー(過去の記憶がまるで今起きていることのように想起されること)』においては、上演時間が長く大規模ないくつもの舞台作品が、全体で一つの叙事詩となっている。『カレンチュア(熱帯性熱病)』あるいは「海のただ中での船乗りの妄想的夢想」は、より短く、より観客が参加しやすい形式の作品だ。
 彼の作品制作に共通していることがもう1つある。他のアーティストとのコラボレーションだ。ジャン・ランベール=ヴィルドは経験豊富な他のアーティストたちとその世界を共有し、作品の共同作者にしている。カロリン・カールソン、ミシェル・オンフレー、マルセル・ボゾネ、そしてとりわけ作曲家ジャン=リュック・テルミナリアスやスイスの演出家でモンテーのクロシュタン劇場のディレクターでもあるロレンゾ・マラゲラなどだ。こうしたアーティストたちとの共同作業によって、世界中の主要な劇場やフェスティバルを長期間ツアーする作品をいくつも作り上げている。このように長期にわたってギルド的な関係を築くことで、彼の作品は、生と愛と死のはかなさを、つねに洗練された形で、絶えずいきいきとした力を得ながら表現することができているのだ。
 フランスではとりわけ国と地方自治体による支援のおかげで、様々な形式の現代演劇が存在している。芸術は郵便や病院、議会などと同様に、公益事業と見なされている。今日では国による支援も変化しつつあり、持続的な製作体制を堅持しつつ公衆に訴えることができるような新たな形式を生み出すことがアーティストに求められている。したがって、国立演劇施設のディレクターであるランベール=ヴィルドは単に詩人であるだけでなく、こういった目標を意識するプロデューサーでもある。彼は創作活動において、芸術的な工程だけでなく製作体制についても、つねに創造力を結集させるような新たな方法を探求している。このヴィジョンのおかげで、ランベール=ヴィルドは様々な国で、様々な職種の人々とともに、つねに現実に大きく先回りしながら、作品を作りつづけることができている。そしてこのように様々な可能性を視野に入れることで、詩的にして神秘主義的な独自の道を夢見つづけることが可能になっているのだ。死者たちが安心して不可能なことを信じ、生者たちへ楽しげに語りかける道を。

(翻訳:SPAC文芸部 横山義志)

【筆者プロフィール】
ポール・フランセスコーニ Paul FRANCESCONI
劇作家・演出家。レユニオン島出身。劇団ソレイユ・グラセ(凍った太陽)を率いてヌーヴェル=アキテーヌ地域圏とフランス海外領土で活動し、詩的で世界に開かれた演劇を目指している。テアトル・ド・リュニオン=リムーザン国立演劇センターの支援を受け、作品はランスマン社から出版されている。


【妖怪の国の与太郎】生まれなおす友情(平野暁人)

 翻訳家の世界には、「共訳は友情の墓場」という格言がある。
 と、断言してしまっていいのかどうかはわからないけれど、僕は幼ないころから折に触れてそう聞かされてきた。なかんずく文芸翻訳には範例も唯一解もなく、翻訳家の数だけ異なった哲学がある以上、協力してひとつの作品を訳そうとすれば必ず衝突が起こり、ときに深刻な対立へと発展して深い禍根を残すことすらある。どんなに気心の知れた大切な友人であっても、否、大切な友人であればこそ共訳者に選んではいけない……呪詛のようなこの言葉を僕は、自らが翻訳を生業にするようになってからはいよいよ家訓のごとく心得て守り抜いている。けだし、訓示とは得てして呪詛の残滓に他ならないのかもしれない。
 さてそこで、ロレンゾ・マラゲラである。
 本作で共同演出の一翼を担うロレンゾは2012年以降、ジャンとのコンビで定期的に作品を発表し、今回で五回目を数える。なかなかにハイペースな仕事ぶりだが、仮に演出家の営みを「他者の手になるテクストを自分というフィルターを通して世界に提示すること」だと定義すれば、そこには少なからず翻訳家との共通点もみてとれる。にも拘らず二人の関係がいまなお「墓場」へ行き着いていないのは驚異的と言ってもよいのではないか。
 一見すると、二人は静と動のようでもある。四六時中熱っぽく語り続けるジャンにひたすら相槌を打つロレンゾ。実にイメージ通りのスイス人っぷりだ。ところが、稽古場でのロレンゾはジャンに些かも遠慮しない。それどころか実はロレンゾの方がはるかに気が短く、通訳していても気を遣う。そしてお互いにどんどんアイディアを出し合い議論しながらも決して険悪にならない。ジャンは作家出身、ロレンゾは俳優出身という背景も関係しているだろう。同じ哲学を共有しつつ、前者が巨視的に作品全体を眺めるのに対して後者は微視的にシーンを追求する。「ロレンゾは僕の詩情に狂気を盛り込む役なんだ」とジャンは言う。
 もうひとつの鍵は、おそらく出会いのタイミングにある。2012年といえばジャンが俳優に本格復帰を決めた年であり、今まで二人が共同演出を手掛けてきた作品はほとんどがジャンの出演作。自身も出演する作品を演出するという誰にとっても難易度の高いミッションにあって、ジャンが文字通り「背中を預けた」のがロレンゾだったのである。
 ふたりの友情は創作と錯綜の場にあって今日も生まれなおしている。

【筆者プロフィール】
平野暁人 HIRANO Akihito
翻訳家。戯曲から精神分析、ノンフィクションまで幅広く手がける。訳書に、エドガー・フォイヒトヴァンガー『隣人ヒトラー』(岩波書店)、カトリーヌ・オディベール『「ひとりではいられない」症候群』(講談社)他。『妖怪の国の与太郎』の翻訳と通訳を担当、ドラマトゥルギーに参加。