劇場文化

2014年4月25日

【マハーバーラタ〜ナラ王の冒険〜】『マハーバーラタ』 空間から場所へ(四方田犬彦)

 場所placeと空間spaceとは違う。
 空間には記憶がない。三次元世界のなかにあって、何も占有するものがないために、空虚となっているところを、人は空間と呼ぶ。たとえば映画は空間がなければ上映されない。しかしその空間が固有のものである必要はない。
 場所とは本来的に固有のものだ。場所とは来歴(いわれ)をもち、何かの形で根拠づけられた空間である。では、どのようにして、それに根拠を与えるのか。かつて人々は神話を物語り、儀礼を執り行うことを必要とした。神話が人間の物語にとってかわられると、場所はひとたび恒久の神聖さを見失ってしまう。演劇が誕生したのは、このときである。何かが度重なって演じられることで、空間は記憶を少しずつ蓄積し、ふたたび場所へと変容していく。演劇とは、互換性のある空間に固有の体験を与え、上演の一瞬においてではあるが、それを掛け替えのない場所へと作り変えていく行為である。
 なんだか難しそうなことを書いてしまったが、要するに演劇は映画と違い、それが上演される場所によって大きく意味が変わって来るということである。そして演劇の演出とは、そもそもそれが上演される場所を定めるところから開始されている。

 『マハーバーラタ』は、簡単にいうならば、世界でもっとも長大な物語である。「マハ」は「マハラジャ」の「マハ」、つまり偉大であるという意味。「バーラタ」はインド人の総称。だからこの題名は「大インド人のすべて」くらいの意味を持つ。紀元前4世紀にサンスクリット語で一応の形が整ったが、それがさらに歳月を経て10倍以上に膨れ上がり、旧約新約聖書の両方を合わせたものの16倍の分量へと発展した。語られているのは文字通り、宇宙の創生から終末までである。
 『マハーバーラタ』はその規模の大きさもさることながら、伝播と諸言語への拡がりにおいても、他の物語、叙事詩の追随を許さない。紀元7世紀には早くもクメール(カンボジア)で、その朗誦がなされたという碑文が発見されている。11世紀には古代ジャワ王国で翻訳がなされ、15世紀にはムガール帝国のアクバル帝の命令で、ペルシャ語訳が行われた。また仏典を通して中国に伝えられた挿話は、本朝の『今昔物語』にさえ影を投げかけている。そこから歌舞伎の『鳴神』が生れた。英語訳はいくたびか試みられたが、原初からの完訳はなく、ちくま学芸文庫による日本語訳も、訳者の早世によって中絶したままだ。とはいえこの古代叙事詩は、インドを中心に、ペルシャから日本まで、広大な物語の時空を覆い、それが朗誦され上演される空間に、神聖なる場所の記憶を授けてきたのである。

 1985年7月、南仏のアヴィニョン演劇祭で、わたしは初めて『マハーバーラタ』の魅力に憑りつかれた。というより、有無をいわせぬ力によってその深淵に巻き込まれてしまったというべきか。そこから這い上るためには、『叙事詩の権能』(哲学書房)という演劇論を1冊書かなければならなかった。わたしはピーター・ブルックの演出した舞台を、アヴィニョン市内から船で1時間ほど運河を下り、さらに30分ほど土埃の舞う山道を歩いた先にある、山中の石切り場で観てしまったのだ。
 ブルックは『マハーバーラタ』の準備に10年をかけていた。インド哲学を学び、平易なフランス語で脚本を整え、7年目にようやく俳優と楽師を決めて、本格的な稽古に入った。メンバー全員を連れてインド旅行を敢行し、現地でさまざまな芸能を学んだあと、もう一度すべてを作り直した。登場人物は100人以上。1人の役者が3役以上を担当する。原作を詰めに詰めて本番に臨んだのだが、それでも3日3晩かかる壮大な舞台となった(※)。
 舞台として選ばれた石切り場は、高さにして33メートルほどの、白亜の険しい崖に三方を囲まれた窪地であり、背後にガンジス川に見立てられた水の流れがある。手前には小さな水溜り。あとは何もない。600人ほどを収容できる反円状の客席が臨時に設けられているだけで、その前面には30メートルほどの、がらんとした空間が拡がっているばかりだ。観客たちは夕暮れの冷気に誘われ、喧騒のアヴィニョン市街から少し離れたこの「なにもない空間」に到達したとき、何だか小さな巡礼を果たしたような気分になった。
 舞台は波乱万丈だった。何しろ満天の星の下、まったき静寂のなかで、巨大な篝火が幾本も焚かれ、2晩目に生じる世界終末の場では、何とダイナマイトさえ使用された。わたしはその後ブルックリンと東京のセゾン劇場でも、同じブルック演出による同じ芝居を観る機会があったが、いずれもが石切り場での初演の規模と臨場感を超えるものではなかった。アヴィニョンの石切り場では、さながら世界の四大元素である火水地空が味方となって、演劇の達成に力を貸しているという印象をもった。

 宮城聰が『マハーバーラタ』のあまたの挿話のなかでも、ナラ王の悲恋物語をとりあげて演出するという話を聴いたのは、2000年代が始まって間もなくの頃である。わたしはこれは、ブルックとは対照的なものになるだろうという直感をもった。ナラ王の物語はこの巨大な叙事詩のなかで美しさにおいても突出した挿話であるとともに、叙事詩全体の雛形、つまりミニュアチュールを構成しているからである。彼はブルックのように現実の俳優に科白を語らせる方法を採らず、文楽、あるいはジャカルタのワヤン・オランに似て、語る者と演じる者の分離を主軸において演出を行なった。だが、両者の違いはそれに留まらない。
 宮城が舞台として上野の東京国立博物館の地下を選んだという点も、見捨てられて久しい石切り場を選んだブルックとは正反対である。というのも石切り場が人間の記憶から隔絶した場所であるとすれば、博物館とは人類の、いや地球上の生物の、あらゆる記憶の集蔵体であり、まさに『マハーバーラタ』の物語の規模に見合った場所だからだ。ブルックは何もない空間に場所の記憶を与えようと試みたが、宮城は逆に、あらゆる人類と生命の記憶と物語が凝縮され陳列されている場所を借り受けることで、この人類の物語をそこに重ね焼きしようとしたのだった。博物館をめぐる彼の偏愛は、その後に彼が、パリのケ・ブランリー博物館の地下劇場を借りて、同じ作品を演出したことからも、強く窺い知ることができる。かつての人類学博物館の後身たるケ・ブランリーの地下とは、人類の集合的無意識が宿る、象徴的な場所ではないだろうか。
 静岡の屋外で演じられた宮城版『マハーバーラタ』は、次にブルックが定位づけたアヴィニョンの石切り場で上演されると聞いた。これがいかにスリリングな舞台となるだろうということは、これまで世界中で多くの『マハーバーラタ』上演に立ち会ってきた者として、容易に推測がつく。演劇とは、それについての情報に最初に心躍らせたときから、すでに開幕しているのである。

(※注)全3部の上演時間は延べ9時間にも及ぶため、3部を1日に連続上演する回のほかに、1日1部ずつ日替わりで上演する回も公演日程に含まれていた。

【筆者プロフィール】
四方田犬彦 YOMOTA Inuhiko
東京大学で宗教学を、同大学院で比較文学を学ぶ。映画、文学、都市論、料理、漫画、音楽といった、幅広い文化現象をめぐって、批評の健筆をふるう。芸術選奨受賞。近著に詩集『わが煉獄』(港の人)がある。