2014年4月27日

【マネキンに恋して】&【Jerk】際から際へ思考を揺さぶる:対立項を並べるジゼル・ヴィエンヌの分野超境的芸術(岩城京子)

 欧州の舞台芸術界で、近年、よく聞くことばに「分野超境的(インターディシプリン)」あるいは「分野複合的(マルチディシプリン)」というものがある。日本の舞台芸術界ではまだ耳慣れないことばだが、要するにこれは、演劇、ダンス、音楽、映像、建築、彫刻、ヴィジュアル・アートなど、多種多様な表現形式を越境的/複合的に採用する芸術表現のことである。主な作家に、ロメオ・カステルッチ(1960-、イタリア)、ティム・エッチェルス(1962-、英国)、ブレット・ベイリー(1967-、南アフリカ)、フィリップ・ケーヌ(1970-、フランス)、マルクス・オェルン(1972-、スウェーデン)、ファブリス・ミュルジア(1982-、ベルギー)などが挙げられる。私見では、これは時代に要請されて生まれた芸術表現であるように思う。つまり複数の断片化された物語が、つねにオンライン/オフラインといった異なる位相で同時進行する、多層的な「現代都市社会」を過不足なく表出するためには、かつてのような単線的、時系列的、分野限定的な演劇表現ではなにかが決定的に不足し、その欠落感への応答として、こうした複合的な表現形式が必然的に生まれてきたのだ。そして静岡で今回『マネキンに恋して―ショールーム・ダミーズー』(2013年初演)と『Jerk』(2008年初演)を上演する作家ジゼル・ヴィエンヌ(1976ー、オーストリア/フランス)は、この分野越境的な舞台作家たちのなかでも、際立って異質な表現方法を選択する作家だ。

 ヴィエンヌの特異性を理解するには、彼女の生いたちをひもとく必要がある。人形作家の母のもと「アネット・メサジェ、ハンス・ヴェルメールなどの人形作家」(2008年取材)に憧れながら育った彼女は、音楽と文学とアートに青春を捧げながらも、大学では哲学を専攻。ニーチェ、バタイユ、アルトーなど、いわゆる西洋哲学史のアウトローともいえる思想家たちに傾倒していく。だがどれほど哲学を探求しても、自分が表現したい世界を全的に掬いとれる気がしない。そこで幼少期から漠然とあった「音楽、文学、ビジュアルアートを融合する最適な手段は人形劇に違いない」(2008年取材)というビジョンを追究すべく、大学卒業後、フランス国立高等人形劇芸術学院に進学。当校在学中に出会った淡路人形座の文楽などに感銘を受けつつ、上記項目が三位一体となって共存する空間芸術を追究していく。そんな彼女が演出家、振付家、人形作家、ビジュアル・アーティストという複数の肩書きを自在に編み上げながら、2作目の舞台作品としてクリエイションしたのが、来日する『ショールーム・ダミーズ』のオリジナル・バージョン(2001年初演)である。

 来日する作品は、ロレーヌ国立バレエ団のために2013年に改訂上演されたもの。全体像は2001年の初演版、2009年のリクリエイション(再制作)版から大きく変わらないものの、目線操作のような小さな表情、人形と人間のあいだを越境するムーヴメント、冷ややかで幽閉的な舞台美術などがより抽象性と洗練度を増している。本作は、精神的・肉体的苦痛に対して快楽を覚える性的倒錯者を描いたレーオポルト・フォン・ザッハー=マゾッホによる『毛皮のヴィーナス』を原作にとる。言うまでもなくマゾッホは、マゾヒズムの語源となったウクライナの伯爵。原作では作家自身を連想させる主人公セヴェリーンが保養地で出会った美貌の未亡人ワンダに一目惚れし、自身の超官能主義を告白したうえで、自分を奴隷として虐めぬいて欲しいと懇願する。つまり、男が女に、生殺与奪の権をあけわたすのだ。

 しかしヴィエンヌの『ショールーム・ダミーズ』は、原作ほど権力構図がシンプルでない。ここで作家は「人形」と「人間」の双方にワンダを演じさせ、また電子人格のようにワンダを「複製・増殖」することで、原作の対立構図を複雑化していく。果たしてワンダとそっくりなもののあきらかに嗜虐性が誇張されたマスクを被る人形たちは、時の経過とともに記憶が補強された恋人のイメージなのだろうか。それならばこの作品は、原作の終章後の物語、つまりワンダが去ってしまったのち、無残に取り残された男の精神衰弱なさまを描いているのかもしれない。あるいはまた無数に複製・増殖された人形たちは、もしも現代社会にマゾッホ伯爵が生きていたらと仮定したときの、21世紀バージョンの超官能主義を表象しているのかもしれない。

 舞台上では、現実と仮想、自然美と人工美、生と死、支配者と被支配者、といった様々な対立項が緊張感をもって提示され、その無言の対峙空間のうちから、観客は想像力をふくらませていくことになる。エクストリームな対立構図から「思考のテンションを生じさせる」(2008年取材)。それが最新作『The Pyre』(2013年)に至るまで、ヴィエンヌが創作においてつねに心がけている基本方針なのだ。彼女は以前、次のように語ってくれた。「私はいつでも相反する美的問題を舞台にのせることを好みます。いっけん矛盾することを舞台上で探求することで、そこにテンションが生じ、観客が思考をはじめるからです」(2008年取材)。

 相反物の観察から、いっけん矛盾しているようでいて相補的な美を探求していきたい、というヴィエンヌの統合的な創作哲学はしかし、A点とB点の中間地点で統合されるというよりも、疑いようもなくある特定の極に収斂されていく。つまりそれは暴力、性犯罪、死、妄想、抑圧、狂気といった負の極への接近だ。「現在のポップカルチャーは、あらゆるものが明るさと明解さに支配されています」とヴィエンヌは言う。そしてそんな時代だからこそ「わたしはその対極にある影に声を与えたい。現代の光が強くなればなるほど、劇場では、暗く、小さく、抑圧され、不明瞭な声を届けていきたい」と思いをあかす。(2013年取材)

 人形劇『Jerk』は、ヴィエンヌのこうした負の哲学をたった55分間に凝縮した作品である。ここでは、アメリカのゲイ・パンク作家デニス・クーパーの手により、70年代に米国テキサス州で実際に起きた27人もの青年への強姦殺人事件が、一人芝居、独白、黙読、を融合させた短編戯曲へと編み上げられる。演者は幼さと危うさと不気味さをその笑みに共存させる、俳優で腹話術師のジョナタン・カプドゥヴィエルただひとり。彼はここで主犯ディーン・コールに加担した青年デイヴィッド・ブルックス役として発話すると同時に、その他のキャラクターたちの声を両手にはめた動物型パペット人形に器用に与えていく。またカプドゥヴィエルは、断末魔の叫び、性交の嗚咽、自慰行為の鼻息、血まみれの噎び泣き、といった様々な音をひとりで音声化してみせる。舞台上で表現されるのは17世紀英国で流行した「パンチとジュディ」の血腥い人形劇を連想させる、コミカルでいておぞましい物語の現代版だ。

 しかしやはりここでもヴィエンヌは、序章から終章まで、ひとつの方法論で作品を完結させることはしない。例えば観客は冒頭と途中、デイヴィッドが執筆したという2篇のノンフィクションを黙読させられることになるし、また前半と後半ではカプドゥヴィエルによる語りの方法論が一変する。果たして観客はカプドゥヴィエルの演技を眺めているのか。牢獄で人形劇を上演するデイヴィッドを眺めているのか。あるいは彼が執筆した小説を介して囚人の脳内記憶を追想しているのか。異なる方法論により、異なる現実が立ち現れてくる。

 ある観客は本作のあまりの暴力表現にショックを受けて失神してしまったという。だがヴィエンヌによればその「暴力」は作家ではなく観客が創造したもの。「私は意図的に、前半と後半の絵がつながらないよう創作します。ですから2つの絵の溝を埋めているのは観客の想像力。暴力を生み出しているのは、観客なのです」(2008年取材)。確かに本作でも、人形の身振り、演者の声、ノンフィクションのテキストの3者を脳内で統合させるのは、他でもない観客だ。その事実を作家が指摘するとときに西欧の観客は驚くというが、思えば日本人はヴィエンヌが影響を受けた文楽にはじまり、こうした分野融合的な芸術表現になじみがある。そう考えるとヴィエンヌの作品群は、日本の文化的土壌と極めて親和性が高いのかもしれない。今回の2作からも観客は、新奇でありながらどこか親しみのある体験を味わうことになるだろう。

【筆者プロフィール】
岩城京子 IWAKI Kyoko
パフォーミングアーツ・ジャーナリスト。1977年、東京生まれ。世界17カ国で取材をこなし「朝日新聞」「アエラ」などに舞台芸術関連記事を執筆。ロンドン大学ゴールドスミス校博士課程演劇学科在籍、同大学講師。著書に『東京演劇現在形 八人の新進作家たちとの対話』など。