2014年4月27日

【タカセの夢】身ひとつで向きあう(石井達朗)

 十数年前に過ぎ去った20世紀を思い返してみる。こと芸術の領域に焦点を当ててみると、過去数世紀ぶんの蓄積が引っくりがえりそうな、大胆な改革と革新の嵐が吹き荒れた。20世紀初頭のロシアアヴァンギャルド、イタリア未来派、ダダイズム、シュルレアリスムの華々しい幕開け。音楽では12音技法や電子音楽が古典派・ロマン派の流れとは訣別した世界を切り拓く。ダンスではイサドラ・ダンカンが身体を拘束するコスチュームを脱ぎ捨て裸足で緩やかに踊り始め、ディアギレフ率いるバレエ・リュス(ロシアバレエ)が古典バレエとは異なる強烈なイメージを舞台に召喚する。またドイツの表現(主義)舞踊が、感情や状況を等身大以上に表わす動きで、後に日本で暗黒舞踏が誕生するひとつのきっかけを与えている。そのあとに続く、不条理演劇、アンチロマン、アングラ、ハプニング、ポスト・モダンダンス、ミニマルアート、コンセプチュアルアート…などの用語を思い浮かべるだけでも、気持ちのいいほどに破壊と創造が謳歌された世紀であった。

 他方、眼を転じてみると、20世紀ほど殺戮が横行した時代はない。2つの大戦に懲りることなく、朝鮮戦争、ベトナム戦争、カンボジア内戦、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争、いくつものアフリカ内戦などの争いを繰り返し、枚挙に暇がないほどだ。地球というこの星のうえで、ヒトという種は信じがたいほどの惨状を引き起こしてきたのである。そして新しい世紀に入ってからも同時多発テロや世界各地での内紛など、20世紀からの負の遺産を引き継いだままである。華々しいまでの芸術の革新と、暴走する人類のエゴ。この一見相容れない両者をどのように受けとめればいいのだろうか。
 舞台の創造活動もときには細い糸で、ときには太い糸で世の中のさまざまな事象とつながっている。糸が細いか太いか(あるいはそんなふうにつながる糸があるかどうか)は本質的なことではない。身近な些末なところから作品づくりを考えてもいいし、逆にグローバルに大きな展望をもってもいい。問題は等身大の現実とは別の種類の想像力をどんなふうに膨らませながら、共有できる時空を創造できるのかという根っこの部分にあるように思える。

 『タカセの夢』はまさにそんな根っこを見てくれと言わんばかりに、清々しいまでにシンプルだ。タカセと一緒に観客に夢を見させてくれる舞台が、音楽・映像・ダンスから衣裳や装置まで緻密に構成されている。弧を描いて緩やかに湾曲する真っ白な舞台背景に心がなごむ。なによりも舞台中央に鎮座する、巨大な切り絵のような樹木が、その下で進行するすべての情景を見守る「聖なる木」のような神々しさと優しさをたたえている。後半、この樹木の幹の部分で影絵芝居が演じられる。影絵芝居といえばインドネシア伝統のワヤン・クリがもっともよく知られているが、ワヤン・クリにおいても、必ずスクリーンの中央に樹木の影絵が写し出される。この物言わぬこの樹木こそが、ワヤン(人形)たちにより長時間演じられる長大な叙事詩『マハーバーラタ』などの収束することのない争いのゆくえを静かに見守るのである。一方、『タカセの夢』は、『マハーバーラタ』のような王侯貴族の争い事とは程遠く、オーディションにより選ばれた静岡の闊達な十代の若者たちによる、突き抜けるような夢物語だ。
 舞台を疾走し、止まり、フリーズする。ときには演技し、叫び、踊り狂う。この十代の若者たちの立ち居振舞いが、新劇の俳優ふうではなく、ダンサーらしく動くのでもなく、じつに新鮮だ。訓練されたダンスの動きではなく、日常的な仕ぐさを作品のなかにとりいれる。このような手法は、20世紀のダンスの潮流に大きな変革をもたらしたアメリカのポスト・モダンダンスの時代から現在のコンテンポラリーダンスに至るまで、積極的に試みられてきた。その根底には「アート」を特権的な地位から引きずり下ろして、もっと「日常」に接近させようというジョン・ケージ以来の発想がある。また、土方巽という天才を始祖に仰ぐ暗黒舞踏の方法論は、美しく踊ろうとする西欧のモダンダンスとはかけ離れたところにあり、機能不全に陥ったような動きに満ちている。
 ポスト・モダンダンスも暗黒舞踏も、近代から現代に至る世界のダンスの潮流を大きく変容させたといっていいのだが、『タカセの夢』のダンサーたちは「ダンスの潮流」などという大袈裟なところとはまったく無縁で、自由で伸び伸びしている。そもそもオーディションで選んだティーンエイジャーの世代とダンス作品をじっくりとつくり込むということ自体が、稀な試みである(国際的に活躍する舞踊家勅使川原三郎がこのような試みを数年にわたり続けていて、新鮮な表現力をもった十代のダンサーたちが育ちつつある)。

 『タカセの夢』の少年少女たちの、全身を思いっきり開放した躍動感がいろいろなシーンで輝いている。これを見ていると逆に、日本では子供はもちろん大人になっても世代・職業・性別により期待されるパターンのなかで行動していることが多いのではないかと思えてきてしまう。子供も大人もテラっとしたケータイやパソコンやゲームのディスプレイを食い入るように見つめるばかりで、異なる立場の人と今現在を話しあい、未来を夢想することがいかに少なくなってしまったことか。それは、外をしっかりと見つめることなく、内側での気遣いとバランス感覚だけを肥大させていることからきている。近隣の国々との歴史認識の大きすぎる落差もそこにある。
 都会の雑踏の情景が背後に映るシーンでは、ダンサーたちは黒マントにマスクをつけて不気味に動く。あのマスクは花粉症や風邪や空気汚染から身を守ろうというものであるよりも、世代や環境を超えて率直なコミュニケーションをとることを妨げてしまう自己抑制の装置の隠喩にも見えてしまう。しかしそんな暗い情景も一変し、緑が茂り、光輝き、動物たちが憩う楽園に変貌し、タカセは夢を見続ける。闇も光も夢のうち。清濁あわせのむのが子供も大人も変わらぬ夢であり、有為転変の世界の多様性そのものなのである。そんな多様性を象徴するように、象や蛇がいる生命の木があり、日本のほかにアフリカやブラジル、中国、沖縄を思わせる音楽が鳴り、照明が多彩に変化し、子供たちのコスチュームもカラフルに変わる。
 冒頭の話題に戻る。あれだけ大規模な戦争と殺戮を経験した20世紀を超えた今も、人類は未だにどうしたら争いをミニマムに抑えられるかという共通のパラダイムさえ、構築できていない。そのくせスマホなどの電子端末は瞬時に世界とつながり、あらゆる情報を手元に開示してくれる。飛躍的に進歩した高度情報化社会は人のエゴが暴走する歯止めになっていないようだ。それどころか、ヴァーチャルな妄想を加速させ、新たな犯罪を生むこともある。宗教や国籍や言語の違い、男女差・世代差、そして異なる歴史観や価値観をもった人たちとまっすぐ向きあうことが子供にも大人にも求められている。今こそ、ケータイを置き、パソコンのふたを閉め、素の身体ひとつでタカセのように夢を語りたい。『タカセの夢』の続編が生まれるようなことがあるならば、タカセ以外の男の子たちももっと舞台に登場して欲しい。そして男の子たちからも女の子たちからも個別の夢を聞いてみたい。

【筆者プロフィール】
石井達朗 ISHII Tatsuro
舞踊評論家。ダンス以外の関心領域として、サーカス、アジアのシャーマニズム文化、現在のパフォーマンスアート。著書に『異装のセクシュアリティ』『身体の臨界点』『男装論』『アクロバットとダンス』『サーカスのフィルモロジー』など。