2015年4月30日

【ベイルートでゴドーを待ちながら】あっちとこっちの反弁証法、或はないところにあるものについて(鵜戸聡)

 暗闇に浮かび上がる二人の男、噛み合ない会話。脱線に次ぐ脱線、というよりそもそも本線がわからない。さて、この作品の解説なんてどうしたものか? だいいち解説するために必要な作品の「解釈」なんてものは、すでにこの説明的すぎる邦題がケリをつけてしまっているではないか。『ベイルートでゴドーを待ちながら』。そのとおり。これはサミュエル・ベケットのあの傑作/問題作のレバノン版である。そこまで言ってしまえば、もはや演劇好きの観客に向かって付け足すこともなくなってしまう(わかるでしょ?)。
 とはいえ『ゴドーを待ちながら』の訳者解題で、イギリス演劇研究の大家にして『ノンセンス大全』の著者たる高橋康也先生が「論ずれば論ずるほど、というか論じようとして本文を丁寧に読み返せば読み返すほど、議論が作品によって先手を打たれているのではないか」、と気づかされつつも「無数の解釈が生まれ、すれちがい、ゆらめき、消尽されてゆく、その過程がまさにこの作品を観たり読んだりする経験の実体にちがいないのだ」とおっしゃっているのだから、僕もまた「要らざるお節介とお叱りもあろうが、限りなく多様な乱反射的な読みの可能性のちょっとした示唆」を書き付けさせて頂こう。
 やはりタイトルから始めるべきか。ずいぶんネタバレな邦題にしたのは、おそらく原題のままだと意味不明になるからだろう。すなわち『第7面』。正しい日本語にすると一層わからない。もう少し直訳にすると『第7頁』。やっと意味がわかってくる。頁のことを面と呼ぶ、つまりこれは新聞だ。レバノンの新聞では、第7面に訃報が載っているらしい。社交上手のご婦人たちは知人の関係者が載っていないかチェックするものだろうが、我らが主人公イサーム&ファーディーは、エストラゴン&ヴラジーミル(ベケット『ゴドー…』の主人公)と同じならば、いわゆる「ホームレス」のおっさんである。彼らはふるまい料理を目当てに葬式を探して第7面に目を通すのだ(冠婚葬祭では食事を誰にでもふるまうものだから)。
 さてこのおっさんたちは、別にゴドーを待っている訳でもないのだが、延々とわけのわからぬ話を続けている。一言で言えばノンセンス。とりあえず二人の人間がいるので会話は無限連鎖していくのだが、いつまでたっても話が噛み合ない。ということは中身は余り重要でないのかも? むしろ二人でいることが大事なのだ。少なくとも「二」という数は重要だ。イエスかノーか、あっちかこっちか、敵か味方か、生きるべきか死ぬべきか——それが問題だ。二人がイサームとファーディーであるように、この世はあれかこれかに分かれるのである。
 ちなみにアラビア語には双数形という妙な語形があって、その名の通り「二つの〜」を意味する語尾が存在するのだが、とりわけレバノン・シリア方言ではこれが多用される(レバノンとシリアは歴史的には一体の地域で言葉も非常に近い)。特徴的なのが「二倍返し」の法則だ。「ありがとう」(サッハ)と言われたら、「ありがとう×2=どういたしまして」(サッハテーン)と答えねばならない。この法則は外来語にも適用され、「メルシーエーン」とか「ボンジューレーン」という荒技も存在する。
 それなのに、われらがファーディー氏は「二」のもたらす安定的関係に身を落ち着けることができないらしく、二人しかいないにもかかわらず、のっけから「〈あいだ〉にはまっちまった」とわめきだすのだ。「あいだ」と訳した「ノッス」という語には「半分」という意味もある。何かの半分のところは、何かと何かの〈あいだ〉でもある。あっちとこっちの〈あいだ〉はどっちなのだろう? あれとこれの〈あいだ〉はあれでもありこれでもあり、あれでもなくこれでもない。
 「ノッス」とはぜんぜん別なのだけど、この戯曲を読み始めた僕の脳裏にすぐさま浮かんで来たのは「バルザフ」というアラビア語である。「障壁」を意味するこの語は、霊的あるいは物質的に、何かと何かを分つもので、例えばコーランには以下の用例がある(中田考訳):

「きっと私は残してきたものにおいて善行をなすでしょう」。いや、それは彼が口にする言葉にすぎない。そして、彼らの後ろには彼らが甦らされる日まで、障壁がある。(23:10)

そして彼こそは二つの海を解き放ち、——こちらは甘く美味く、またこちらは塩辛く苦い——、その二つの間に障壁と遮られた遮断をなし給うた御方。(25:53)

両者[淡水と鹹水の二つの海]の間には障壁があり、両者は(障壁を)超えることはない。(55:20)

 それぞれ、生者の世界と死者の世界を分つ障壁、信仰者と不信仰者を分つ障壁、真水と塩水を分つ障壁である。障壁と聞くと、何やら分厚く堅固な物質が思い浮かぶが、どうやら霊的な壁、というよりも異なる次元の〈あいだ〉には、何らかの広がりがあるようなのだ。
 現代アラブ文学を代表する作家の一人、リビアのベドウィン出身のイブヒーム・アル・クーニーの小説『ティブル』では、主人公のウーハイドが砂漠をさまようなかで幻影の暗闇に落ちていく:

最初の落下の時、彼は意識と無意識の間、あるいは死と生との間にある地点(バルザフ)にいる自分を見いだした。彼は急いで自分の歯の助けを借りて、意識と無意識の間に繋がれたまま、尻尾に結んだ綱に手首をきつく結わえつけた。その意識の狭間は、『直ちに何らかの処置をとれ』という指示を彼に与えた。(奴田原睦明訳、69頁)

 境界・狭間というものは、イサームが繰り返し諭そうとするように、何かと何かの〈あいだ〉でしかなく、それ自体は何かではない。にもかかわらず、その「ない」ところに「ある」のが〈あいだ〉の〈あいだ〉たる所以であり、「バルザフ」もまたそのようなものであるならば、ファーディーが〈あいだ〉にはまってしまうのもありえないことではないのかもしれない。
 さて、『ゴドー…』の精神に則ってもう一歩マニアックな「脱線」をゆるされたいのだが、レバノン・シリアでおっさん二人の会話劇といえば、知る人ぞ知るロングラン・ショートドラマ『アマル・マー・フィー』(希望なし)だろう。くらーい画面に浮かび上がる冴えないおっさんが二人、重々しい様子で毎回「民主主義」とか「革命」とかについて質疑応答を繰り返すだけなのだが、いつもブラックな落ちがつく、シリア的ユーモア?の名作/迷作である。例えば、「国民の義務と権利って何だ?」という問いには、「義務とは法律の遵守、町の清掃、テロリストの告発、治安を乱さないこと…」といくらでも答えが出てくるのに、「じゃあ、国民の権利って?」と聞かれると「国民の権利? なんだそれは? 聞いたことがない…」ということになる。
 アラブ演劇が不条理劇的な要素を好むのは、ラテンアメリカ文学における魔術的リアリズムと同じ理屈で、つまり現実が不条理なのだ。それを小説でやったのが、シリア文学の大御所ザカリーヤー・ターミルだろう。彼のショートショート小説では、市井の男女がただひたすら見えない手に殴られ続けたり、行く先々でレイプされ続けたりする。ただ、ターミルの小説が感情を削ぎ落とした酷薄ともいえる文体で書かれているのに対し、不条理リアリズムの演劇はもっと可笑しみを大事にする。ためしに『アマル・マー・フィー』を YouTube で検索してみると、「カテゴリ」は「コメディ」となっている(あんなに暗いのに!)。そう、彼らはコメディが大好きなのだ。
 だから、アラブ演劇の紹介をしていて一番困るのは、日本の観客が真面目すぎることなのである。SPAC や F/T(フェスティバル/トーキョー) でおなじみのラビァ・ムルエやワジディ・ムアワッドは、レバノン内戦を題材に、表象のプロセスを解体してみせたり神話的なヴィジョンを描き出したりと、わりあい「高級」なことをやってはいるものの、あちらこちらに笑いのツボを仕掛けてくれているのだが、襟を正して「悲惨」な内戦の話を拝聴している日本人たちは、仕込んだネタをことごとくスルーしてくれるのだ。幸い本作には小難しいところはなく、レバノンやシリアの現代政治のことなど知らなくても十分に楽しめる。たしかに今、シリアの不条理な現実は獰猛さを極めている。シリアの人々の苦難に想いをいたし、彼らに心を寄り添わせたい、と祈りつつ、それでもやはり、このノンセンスなドタバタ劇を日本の観客に笑ってみて欲しいと思う。それこそが、アラブの力強い笑いから世界を再発見することであり、悲しみと喜びに満ちた彼らの生と連帯するための端緒となるのだから。

*レバノン基礎情報  海洋国家フェニキアの揺籃の地としても知られるが、近代国家が成立するのはフランスの委任統治から独立する1943年。もともとキリスト教徒(特にマロン派)が多かった「レバノン山地」(オスマン帝国以来の行政区分)を中心に創出された国土は、そもそもシリア・パレスチナ・ヨルダンとともに「シャーム」(歴史的シリア)と呼ばれる地域に属し、いわゆる「肥沃な三日月地帯」の西翼に相当する。大統領はマロン派、首相はスンナ派、国会議長はシーア派から選出する不文律があり、国権を宗教コミュニティ別に配分する「宗派体制」が最大の特徴となっている。75年から90年まで続いたレバノン内戦は、宗派的な対立構造にパレスチナ解放運動や米ソ対立などの外的要因が絡んで錯綜を極めたが、最終的にはシリア軍の介入によって終止符が打たれた。以後レバノンはシリアの実質的な支配下に置かれることとなったが、2005年のハリーリー首相暗殺(シリアの関与が疑われた)を契機として駐留シリア軍は完全撤退へと追い込まれ、15年続いたシリアの覇権はついに終焉を迎える。しかし翌06年にはシーア派組織ヒズブッラーによるイスラエル軍兵士の拘束をきっかけに「レバノン紛争」が勃発、イスラエルによるレバノン各地の空爆と南部への侵攻が行われた。その後も親シリア派と反シリア派とがデモ合戦を繰り広げるなど、シリアを争点に各勢力が合従連衡しているところで、今度はシリア自体が内戦化し、現在両国の国境は難民や武器が行き交う事態となっている。

【筆者プロフィール】
鵜戸聡 UDO Satoshi
鹿児島大学法文学部准教授。アラブ=ベルベル文学・演劇専攻。共著に『シリア・レバノンを知るための64章』、翻訳にラビァ・ムルエ「これがすべてエイプリルフールだったなら、とナンシーは」(『舞台芸術』第12号』)など。