2015年4月30日

【觀~すべてのものに捧げるおどり~】祭祀からコンテンポラリーな時空に向けて~『觀』をめぐって思うこと~(石井達朗)

 舞台奥から腰をこごめ、止まっているのか動いているのかわからないほど緩やかに、こちらに歩を進める異形の者たちがいる。彼/彼女らは何者か。天から降臨した神々なのか、地から這い出た悪霊たちなのか。かつて見たことのないような静謐で美しい舞台。そこに立ち現われる者たちは、沈黙を守りながらも深い想いを秘めているかのよう。低く響きつづける打楽器の音の群が陽炎のように揺らめき、生死・善悪という二元論を超えた時空を包みこむ。身体はときに足元しか見えないほどに屈折している…。
 腰から両足裏まで地に密着した重心の低さは、日本に根付いた伝統的な身体性と遠戚関係にあり、思わず親近感を覚える。舞踊でいうところの「すり足」、民俗学でいう「反閇(へんばい)」「兎歩(うほ)」などの用語は、それぞれ動きこそ違うが、天に向かうよりも地との親和を示している。異界、外部からやってくる者、とくに常世(とこよ)から稀に来訪して村人に祝福を与える神々を、折口信夫は「まれびと」と呼び、その歩行に「力足を踏む」という表現を与えている。

まれびとは、祝言を以ってほかひをすると共に、土地の精霊に誓言を迫った。更に家屋によって生ずる禍ひを防ぐ為に、稜威に満ちた力足を踏んだ。其れによって地霊を抑圧しようとしたのだ。平安朝に於いて陰陽道の台頭と共に興り、武家の時代に威力を信ぜられることの深かった「反閇(へんばい)」は、実は支那渡来の方式ではなかった。在来の伝承が、道教将来の方術の形式を取りこんだものに過ぎなかったのだ。(中略)まれびとの力強い歩みは、自ら土地の精霊を慴伏させるのであった(注1)。

 『觀』に出現する異形の「まれびと」たちの背景には、神話的・フォークロア的な物語がある。ただしそのような背景を知らずに見ることも可能だし、いや、むしろまったく白紙の状態でこの時空に向き合ったほうが、より身近になるかもしれない。それだけここに進行する夢幻の光景と超越的な時間はその根底に、多様に原初的なイメージの集積があり、自律した世界を生成している。異なった角度の前屈した姿態をつかいわけ、舞台空間の縦線と横線を交錯させる踊り手たちの移動は、演出・振付の観点から見れば複雑であるわけではない。むしろ単純すぎるほどである。そしてこの簡潔さは、多くのアジアの祭祀の空間と身体に通底するものである。
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 世界の創世と、存在についてのコスモロジーは、伝統的な祭祀や儀礼のなかでおおかた共有されている。だからこそ、簡潔な身体性が多彩な表象を喚起する。たとえば南インドのある祭祀芸能である。度を超えた化粧とごく単純な動きが特徴的だ。
 南インドのケーララ州の森のなかに、カーヴと呼ばれるサンクチュアリ(聖域)がある。カーヴでは、呪術的な祭祀テイヤムが行われる。異なった村々で幾度となく夜を徹して行われるテイヤムを見てきて、いつも強い衝撃を受けた。テイヤムでは、アウトカースト(カーストの埒外に置かれ不可触民とされる)の者たちが、「テイヤム」(神々)に変貌する。そこでは浄と不浄、男性性と女性性、聖と俗が交じりあい、豊饒性が立ちあらわれる。神々とは地母神、英雄神、祖霊などだが、なによりもこれらに変身する者たちの重装備の衣装と異様な化粧には圧倒される。ただし身体全体をおおうこの装備のために、テイヤムに変貌した者は、踊ることはおろか、自由に動くことさえできず、歩き、飛び、跳ね、(装備が多少軽ければ)走り…という動作を繰り返すだけである。民俗的な想像力が過剰なまでにヴィジュアルに徹しているために、意味ありげな動きや動作など必要ないということだろう。
 『觀』のダンサーたちの高度にコントロールされた身体技法を、テイヤムのそれとは比較しようがない。だが、超自然的な存在への変身を「演じる」のではなく、今ここに「ある」ものとする現前性こそがすべてである、ということでは両者は共通している。一方では劇場の舞台で「作品」として、他方では森のなかの聖域で踏襲されてきた「祭りごと」として、ともに創出されたものなのである。その豊穣なイメージはリアリズムや自然主義からはもっとも遠いところにある。聖なるものと芸術との関係を探求したファン・デル・レーウは、次のように述べている。

芸術の自律的生命が最も明白に示されるには、舞台をおいて他にない。われわれはそこにわれわれ自身の世界を見るのではなく、作家の世界を見るのである。そしてそこに表現された出来事は、作家の精神の法則に従っている。(中略)外見的な形式で企てられたにせよ、情熱と個性の忠実な再現ということで企てられたにせよ、舞台上に、<自然主義>を是が非でも求めようとすることほど愚かなことはない(注2)。

 自然主義とは対極の領域にありながら、厳格なまでの現前性にこだわる『觀』の舞台は、カナダの舞踊界の異才マリー・シュイナールの一連の作品に近いものがある。セクシュアリティの領域に大胆に踏み込むシュイナールの『春の祭典』や『牧神の午後への前奏曲』などの作品では、奇妙な頭飾りやコスチュームに呼応するかのような奇矯ともいえる身振りや発声が突出している。それこそがシュイナール作品の個性でもある。他方、『觀』の振付家・林麗珍はシュイナールに輪をかけるように化粧、衣装、頭飾り、装身具に徹底してこだわり、フォークロア的世界に特異な視覚的イメージを幾重にも拡大する。林麗珍がシュイナールとまったく異なるのは、動きを極端に抑制することにより、まるでインスタレーションされた自動人形を見るような、微細に制御された美的な造形を完成していることだ。エロスをある種のカリカチュアとして表象するシュイナールに対して、林麗珍がわれわれに差し出すのは、ほとんど瞑想とでも呼びたくなるような静謐な世界である。
 前述した南インドのテイヤムは、インドを代表する舞踊劇カタカリの成立に影響を与えたとも言われる。カタカリでは様式化された身体性がすべてだが、その訓練法には伝統武術カラリーパヤットの鍛錬も取り入れられている。20世紀後半の新しい演劇の動向に最大の影響を与えた一人、グロトフスキの俳優訓練法は、カタカリからヒントを得たといわれている。彼に影響を与えたのは、衣装と化粧が重量級のカタカリの実際の公演ではなく、腰巻一枚の裸で行われる肉体訓練であったにちがいない。またカタカリはその重装備の衣装ばかりでなく、特徴的な隈取とムドラーと呼ばれる複雑なマイム言語によって知られる(カタカリは、いっさい言葉を使わない)。マイムで神話的世界を物語ろうとするカタカリが、象徴性に富む複雑な身体言語を発達させたのに対して、もともと舞踊出身の林麗珍は、逆にムーヴメントにまつわる類型的な意味性をそぎおとす。そのことにより、神話的世界を物語るのでなく、その内奥にあるイメージの強度を立ちのぼらせている。
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 『觀』を祭祀の象徴性という観点から見ると、この時空全体が次の状態(あるいは次元)に移行する際の不安定で不確定な中間領域、「リミナリティ」(境界性)のなかにあるように見えてくる。象徴人類学者ヴィクター・ターナーがこの領域に焦点を当てたことで知られている。

リミナリティの、あるいは、境界にある人間(“敷居の上の人たち”)の属性は、例外なく、あいまいである。このあり方(コンディション)やこの人たちは、平常ならば状態や地位や文化的空間に設定する分類の網の目(ネットワーク)から脱け出したり、あるいは、それからはみ出しているからだ。境界にある人たちはこちらにもいないしそちらにもいない。かれらは法や伝統や慣習や儀礼によって指定され配列された地位のあいだのどっちつかずのところにいる。そういうわけで、かれらのあいまいで不確定な属性は、社会的文化的移行を儀礼化している多くの社会では、多種多様な象徴によって表現されている。かくて、リミナリティは、しばしば、死や子宮の中にいること、不可視なもの、暗黒、男女両性の具有、荒野そして日月の蝕に喩えられる(注3)。

 『觀』がリミナリティという境界領域にあるとすれば、その2時間を超える舞台に立ち会った観客たちは終演後、あいまいな中間点を通過して新たな領域に入ることになる。それは「生」のもうひとつの位相であるかもしれない。いずれにしろ、祭祀空間とは知的に解釈するものではなく、時間と空間を分かち合うそのことに意味がある。そこで人々は有限である生のサイクルを感じ、無限であるものに思いを馳せる。
 では『觀』が達成したように、いにしえの神話・祭祀はどのようにして現代に蘇ることができるのだろうか。そんなことを考えるときいつも真っ先に思い浮かべる作品がある。ピーター・ブルック演出による『鳥たちの会議』である。これは12世紀ペルシャの詩人で巡礼者のアッタールが、スーフィー教(イスラム神秘主義)の長老たちから聞いた話を物語にしたものだ。世界中の鳥たちが集まって王(神)を求める旅に出る。艱難辛苦の末にわずか30羽の鳥だけが捜し求める地に辿りつく…(注4)。多国籍の俳優をつかったブルックの簡潔な演出は、比喩に満ちたペルシャの物語世界を見事に開示し、現代の観客の想像力に訴えた。
 最近のダンスの舞台では、笠井叡が振付け、麿赤児他30名がベートーヴェンの『第九』全曲で踊る『ハヤサスラヒメ』が強いインパクトを残した。平安時代に成立した延喜式(えんぎしき)の大祓詞(おおはらえのことば)に出て来るハヤサスラヒメを軸に、3.11という震災後の「浄化」をテーマにした本作は、土方巽を始祖と仰ぎ今や世界中に広がっている舞踏の歴史にエポックを印すものである。また、今年インドネシアから来日したエコ・スプリヤントの『Cry Jailolo』という作品は、西ハルマヘラ島に伝わる伝統舞踊を数人の男たちのコンテンポラリーな身体性に置き換えて、類を見ないフィジカルなパフォーマンスを見せた。地球上の誰も知らない赤道直下に伝わる小さな祭祀が、現代のコンテンポラリーダンスの状況に風穴を開けるような驚くべき舞台を見せたのである。
 アジアは神話、祭祀、儀礼、フォークロアの宝庫である。ますます混迷を深める21世紀の世界で、舞台はどのようにその扉をあけて今の時代にリンクさせることができるのか。パフォーマンス理論で知られるリチャード・シェクナーの以下の言葉を再確認したい。

祭祀(リチュアル)とは、受容されてきた創意の数々を貴重品のように保管するものではない。それは多くの場合、新しい題材を生み、新しい方法で伝統的な行為を再構成するダイナミックでパフォーマティヴなシステムなのである(注5)。

(注1)『折口信夫全集 第一巻』、中央公論社、1972年、38頁
(注2)G・ファン・デル・レーウ『芸術と聖なるもの』小倉重夫訳、せりか書房、1983年、88頁
(注3)V・W・ターナー『儀礼の過程』冨倉光雄訳、新思索社、1996年、126-127頁
(注4)ファリード・ウッディーン・アッタール『鳥の言葉―ペルシャ神秘主義比喩物語詩』
黒柳恒男訳、平凡社、2012年 参照
(注5)Richard Schechner, The Future of Ritual: Writings on Culture and Performance, Routledge, London and New York, 1993, p.228

【筆者プロフィール】
石井達朗 ISHII Tatsuro
舞踊評論家。ダンス以外の関心領域として、サーカス、アジアのシャーマニズム文化、現在のパフォーマンスアート。著書に『異装のセクシュアリティ』『身体の臨界点』『男装論』『アクロバットとダンス』『サーカスのフィルモロジー』など。