劇場文化

2015年4月30日

【小町風伝】夫、太田省吾、そして、「小町風伝」のことなど(太田美津子)

 この度、SPAC−静岡県舞台芸術センターの「ふじのくに⇔せかい演劇祭2015」で、太田省吾作、李潤澤氏演出、演戯団コリペの『小町風伝』が上演されることを、大変嬉しく思っております。関係の皆様にお礼申し上げます。

 私は演劇について全くの素人ですが、劇団転形劇場と太田の演劇活動を、長年傍らから見てきた様々な事柄について、充分ではありませんがこの貴重な紙面をお借りし、私なりに書かせていただきたいと思います。

 太田は、1968年に程島武夫先生を主宰に、品川徹さん達と劇団転形劇場の設立に参加、70年には太田が主宰となり、東京赤坂の工房を拠点に活動を開始しました。以降、劇団転形劇場は、70年に上演した鶴屋南北の「桜姫東文章」を例外に、88年の劇団解散まで、すべて太田作、演出の作品を発表し続けてきました。 

 劇団設立から10年近くを経た頃、劇団は表現上の問題や、経済問題などを抱え、苦しい状況にあったようでした。
 この困難な局面を脱するため、太田は大変な苦労の末に神楽坂の矢来能楽堂を借り、能舞台での上演を念頭に、伝統と対峙するかのように、渾身の力を込めて書き上げたのが『小町風伝』でした。
 この『小町風伝』の上演で成果を上げる事ができなければ、劇団の存続は厳しかったかもしれないと、太田が言うのを聞いたことがありますが、強い緊張感と、決死の覚悟で稽古に取り組んでいる様子が伝わってくるようでした。
 最近、品川徹さんから聞いたのですが、「小町風伝」初演に向け赤坂の工房で稽古中のある時、稽古を早めに切り上げ、全員で矢来能楽堂へ下見に行ったことがあったそうですが、工房に戻ると太田は突然、主役の老婆はじめ数名の台詞と台詞体のト書きは、「すべて沈黙のうちにあって<台詞>として、外化されることはない」と、封印してしまったそうです。
 太田は、渾身の台詞が「能舞台からカーンと蹴飛ばされ、600年の伝統に比べ、たかだか100年の現代劇の台詞は、はじき飛ばされ、拒否されたように感じた」と後に書いていますが、この下見の時に、太田の頭の中でカーンと蹴飛ばされたことを初めて知りました。
 すでに大量の台詞を覚え稽古に臨んでいた役者さん達は、台詞として外化されることのない台詞をもとに、どう演じればよいか大変苦労したと聞いています。
 この太田の厳しい要求に、主役を演じる当時20代の若き女優佐藤和代さんは、なんと、足の指先の動きだけで舞台を移動するという、驚異的な身体表現で応答し、これら長く苦しい模索の稽古を続けるなか、回転を遅らせた緩やかな音楽、それに呼応するゆっくりと滑るような登場人物の動き、照明による時空の変換など、今まで観たことがないような表現が能舞台上に創造されていきました。

 『小町風伝』は、寒波に見舞われた77年1月、東京神楽坂の矢来能楽堂で初演の幕を開けました。
 初日、客入れ前の薄暗いロビーで、緊張に崩折れそうな体を、壁にもたせ掛けた腕で必死に支えている太田の姿を、遠くから偶然に目にした私は、作品を世に問うとは、こんなにも怖いことなのかと、思い知らされた気がしました。
 幸いに、この実験的で斬新な舞台はすぐに大手新聞社の演劇批評欄で大きく取り上げられ、クチコミも広がり、劇団事務所は予約電話で鳴りっぱなしの状態が続き、寒風の中チケットを求めて列をなした観客が、ついにはロビーに溢れるほどに評判を呼びました。
 『小町風伝』は翌年、第22回岸田國士戯曲賞を受賞、一躍、劇団転形劇場の名を世に知らすこととなり、その後の劇団の新たな表現、沈黙とスローテンポの沈黙劇へと向かう道筋を切り開いていくことになりました。
 『小町風伝』はその後、老婆−佐藤和代、アパートの管理人−瀬川哲也、隣家の父親−品川徹、隣家の息子−大杉漣の主要キャストを変えることなく、88年の劇団解散まで国内外で80回近くの公演を重ね、転形劇場のもう一本の代表作『水の駅』と共に、劇団の精神的支えになりました。

 数年前に、韓国演劇界の重鎮であり、詩人、劇作家、演出家など多才な活躍で知られる李潤澤氏が『小町風伝』を上演してくださる以前に、このテキストに取り組んでくださった演出家は、太田の生前に私の知る限り、平田オリザさんと新里直之さんのお二人だけだと思います。平田オリザさんの『小町風伝』は、98年に藤沢の湘南台市民シアターで、当時芸術監督だった太田が企画した舞台でした。20代の若者新里直之さんの『小町風伝』は、登場人物を二人にし、老婆をホームレスに見立てた構成の演出で、これをビデオで観た太田は、この若者の大胆な表現を「おもしろい!」と、嬉しそうにいっていたのを覚えています。

 2012年2月、日韓共同制作、李潤澤氏演出の『小町風伝』を観るために、私は期待に胸を躍らせながら大阪に向かいました。
 関西の演劇人と共に創られた『小町風伝』は、太田の封印から台詞を解き放っただけでなく、ト書き、台詞体のト書きにいたるテキストのすべてを舞台に上げ、主役を演じる85歳の女優(関西芸術座の河東けいさん)は、饒舌で元気に舞台を動き回るという、言葉と躍動にあふれた予想外の舞台でしたが、私はこの舞台を観て『小町風伝』にはこんな物語が書かれていたのかと、改めて気付かされたように思いました。
 渦巻きの中心に向かって、キリキリと収斂していくような太田演出、渦巻きの外部に向かって軽やかに拡散していくような李氏演出、この全く対極的な舞台表現に、長い間、太田演出しか想像出来なかった私は、このテキストが初演から35年の月日を経て、新たな息吹を与えられたように思いました。
 太田は生前、「文学にしろ、絵画にしろ、演劇にしろ、表現は響き合う感性に出会わなければ、存在しないのと同じ」と言っていましたが、『小町風伝』は幸せな出会いを得た作品だと思いました。

 その後、李潤澤氏は演戯団コリペの『小町風伝』を、12年5月に釜山国際演劇祭で、13年10月には東京BeSeTo演劇祭で、そして昨年の秋には、ソウル国際演劇祭で上演、私は公演を重ねるたびに洗練され進化する舞台を観てきました。
 昨秋のソウル公演初日の後、李潤澤氏は「数年の歳月を費やし、あらゆる最善を尽くし、完成作を創ることが出来た」と、深い満足感を込めて語っていらっしゃいましたが、 李潤澤氏もまた、太田のように強い緊張感を持って演出されたのだと思いました。
 ソウルの『小町風伝』は、李氏と演戯団コリペが長年培ってきた、人間のありように対する深い洞察の眼差しと、東アジアの豊かな情感の溢れる素晴らしい舞台でした。
 私はこの新しい『小町風伝』を観たくて、毎公演劇場に足を運び、韓国の観客と共に一心に舞台を見つめ、手が痛くなるほど拍手を送り、ロビーで観客がパンフレットを求めて売り場に駆け寄る姿を、37年前の矢来能楽堂での『小町風伝』初演を想い出しながら、幸せな気持ちで眺めていました。
 太田は生前に、今、私が眺めているこのような情景を、想像したことがあったのだろうかと、聞いてみたい気がしました。

 その舞台に、今年の5月、SPACで再会できることになり、今からとても楽しみにしています。そして、新しい『小町風伝』が、多くの日本の皆さんに観ていただけることを心から願っております。

【筆者プロフィール】
太田奈津子 OHTA Mitsuko
1948年7月、在日二世の5人姉兄の末っ子として、大阪で生まれる。高校卒業後に上京し、実姉の家業を手伝う。71年、同級生が出演する転形劇場の舞台を観に行き、太田と出会い翌年結婚。