2015年10月29日

【王国、空を飛ぶ!~アリストパネスの『鳥』~】アリストパネスの喜劇について(野津寛)

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 アリストパネスは紀元前5世紀中頃に生まれ、主にペロポネソス戦争時代のアテナイで活躍した喜劇詩人である。哲学者のソクラテスや悲劇詩人のソフォクレスやエウリピデスと同時代人だ。アリストパネスは40以上の喜劇作品を書き、それらは演劇競技会で上演された(当時アテナイで演劇を上演するとは、競技会に出品し、他の劇詩人たちと競い合うことを意味した)。これら40余りの喜劇作品中、11作品がほぼ完全な形で伝存しているが、古代の劇作家の伝存状態としては、驚異的な数字であると言えよう。
 アリストパネスの喜劇は、何といってもその言論における自由、猥雑さ、発想の大胆さ、荒唐無稽なファンタジーが特徴的だ。彼の喜劇の主人公たちは、例えば『アカルナイの人々』のディカイオポリスのように、国家(ポリス)全体がスパルタとの戦争を続けている時に、自分と自分の家族だけのために、敵国スパルタとの間に30年間の個人的平和条約を締結してしまう。『平和』のトリュガイオスのように、巨大なフンコロガシの背中に乗って天空に飛び上がり、平和を実現してしまう。『蛙』のディオニュソスのように、すでに死んでしまった悲劇詩人エウリピデスをこの世に呼び戻そうと、黄泉の国への旅に出かけたりする。あるいは、『女の平和』のリュシストラテのように、アテナイとスパルタの男たちが戦争に明け暮れている時、全ギリシアの女たちに呼びかけ夫たちとの性的関係を拒否する「セックス・ストライキ」に訴えて戦争を中止させるというクーデターを起こす。アリストパネスの喜劇のジョークには、酷く子供っぽく、性的なものが多く、ここでそれらを紹介するのもためらわれるほどだ(アリストパネス研究の専門家たちは古代ギリシア語の知識を駆使しながらこうした「下ネタ」をどれだけ見つけ出せるかを競いあっている)。
 近代人にとってアリストパネスは、その奔放な言論と荒唐無稽なファンタジーのみならず、その政治的な態度によっても、「言論の自由」のシンボルである。彼は、自らを命の危険にさらしながらも、当時のアテナイの権力者たちに対する非難と罵倒を止めなかった。アリストパネスにとって喜劇とは、あえて自国民の悪口を言うことによって、国民をして自己の誤りに気づかせる役割を担う教育的活動であった。教育的な主題を扱った作品としては、『雲』や『蜂』がある。悲劇詩人も一種の教育者であった以上、悲劇批評的な内容を持つ『テスモフォリア祭を祝う女たち』や『蛙』も教育的な主題を扱っていると言える。
 ところで、アリストパネスの喜劇が、悲劇詩人たちの悲劇と並んで、演劇競技会の出品作品として上演されていたのは、古代アテナイの宗教的祭典(ディオニュソスの祭り)の主要な行事としてだったのだが、この演劇競技会は国家が国民に対して行なっていた公共サービスの一部だった。演劇競技会の運営に必要な経費は全て、国庫及び選ばれた富裕市民によって賄われていた。観客である普通の市民たちは観劇料など払わなくて良かった。それどころか、日々の仕事のために演劇祭に参加出来ない人たちのために、観劇手当なるものまでが支給されていた。国家が費用を支出してまでも、また、富裕層から経費を拠出させてまでも、アリストパネス等の喜劇詩人たちに自由奔放な、すなわち権力者や富裕市民たちに噛みつくような、批判的言論を行使することを許していたことになる。どうして喜劇詩人たちにはこうした「言論の自由」が与えられていたのかは良く分からないが、こうした犠牲と対価を払ってまでも自由な言論が許されていたからこそ、古代アテナイは民主制(デモクラシー)発祥の地と呼ばれるべきなのかもしれない。だとすれば、アリストパネスの喜劇は「言論の自由」のみならず、生きたデモクラシーのシンボルなのだ。確かに、アリストパネスの喜劇はこのように自由奔放な側面を持っていた。
 しかし、その反面、彼は厳格な側面も有していた。ここで彼の厳格さとは、喜劇詩人の伝統的な演劇詩の技術のことである。というのも、ギリシア語の原典で韻律を分析しながら読んでみると分かるが、アリストパネスの喜劇はすべて「詩」として、厳格な韻律と厳密な形式に則って、細部と細部が照応し合うように書かれており、幾何学的に構成された音楽やダンスの形跡としてしか説明できないような、複雑な構造と形式を有しているのである。アリストパネスは、こうした複雑な構造と形式を持った作品を上演するにあたり、俳優や音楽家や素人の合唱隊(コロス)メンバーに根気づよく指導と訓練を行い、それによって観客を魅了し、楽しませていたに違いない。アリストパネスは全然「ユル」くない。自由は厳格さに裏打ちされたものだったと考えられる。
 このようなアリストパネスをギリシア語原文の綿密な読解によらずして、どうして理解できるだろうか?実際、これまで日本人の演劇家たちがアリストパネスを本気で上演することはほとんど無かった。このたび、おそらく日本人としては初めて『鳥』の本格的な上演にこぎ着けた静岡県舞台芸術センターと演出家、音楽家、出演者の皆さんには、最大の敬意を表する。そもそも、古代の演劇テキストをそのまま現代の観客にむけて上演することは非常に困難だ。現代日本の演出家、音楽家、俳優の方々が一体どうやって、死んでしまった「アリストパネス」を現代に蘇らせてくれるのだろうか?実に興味深い。

【筆者プロフィール】
野津 寛 NOTSU Hiroshi
西洋古典学者。信州大学教授。『ギリシア喜劇全集 1, 4, 8, 別巻』(岩波書店、2008~2011、共訳・共著)、『羅和辞典 改訂版』「和羅語彙集」(研究社、2009)、『ラテン語名句小辞典』(研究社、2010)執筆。