劇場文化

2015年12月6日

【薔薇の花束の秘密】密室と対話の力(野谷文昭)

カテゴリー: 2015

 現実とはひとつの密室かもしれない。マヌエル・プイグの作品を読むと、そんな気がしてくる。あるいはそのことに気づかされると言った方が正確だろう。彼が舞台とするのは、母胎のような映画館だったり、監獄だったり、病院だったり、マンションの一室だったりと、形を変えながらも密室性において共通している。それらは閉塞的な現実そのもののメタファのようだ。
 戯曲『薔薇の花束の秘密』も一種の密室劇である。どんなに豪華であろうと、外界から隔離された病院とその個室は入れ子状の密室になっている。登場するのは患者と付添婦という、立場の異なる二人の女性だが、両者とも挫折感や失意、悲しみを抱え込んでいる点で共通している。その負の要素は、社会的地位の違いを背景に、一方は傲慢で高圧的な態度、もう一方は控えめと言うよりは卑屈な態度として表れる。その結果、相反する特徴を備えるキャラクターが動き出し、大抵は上位にある患者の方が爆発して小さな事件が生じ、ドラマを推進していく。
 かりに二人の単に平板な会話が続くなら、衝突はあっても時空間は広がらない。だがプイグはそこに夢や願望を注入する。すると、複数の時空間が発生し、その結果、目の前の現実がカレードスコープのように複雑になる。
 彼の代表作で舞台、映画、ミュージカルにもなった小説『蜘蛛女のキス』はこの手法を最も巧みに使った例と言える。刑務所の監房の中でゲイのウインドウデコレーターとマッチョの革命家という対照的キャラクターによる対話を複雑で魅力的にしているのは、映画フリークのゲイが語る実在する映画のストーリーである。だがそれらは語り手の心理を反映し、また欲望によって改変され、表面的な会話の背後ではいわばサブリミナル効果を狙ったもうひとつの会話が行われるのだ。
 『薔薇の花束の秘密』でも患者と付添婦の会話には嘘が混じったり脚色が施されたりして、表面的には平凡な会話も実は重層性を備えていることがわかる。初めは表層的言説を信じていた読者も騙されざるをえない。それをさらに複雑にしているのが、思い出や記憶が突然現れることで、戯曲ではト書きで指示されるその要素は舞台を大きく変化させる。とくに光の変化とともに過去の世界や別の人格が現れるところはきわめて印象的で、それが舞台でどのように表現されるかは、最大の見どころのひとつだ。
 プイグが亡くなったのは、初来日した1990年である。その2年前の1988年に発表されたのが最後の戯曲『薔薇の花束の秘密』だが、同じ年に最後の小説『南国に日は落ちて』も発表されている。性格の異なる80代の老姉妹の会話から始まるこの小説は、二人が身の回りの人物の噂話を盛んにするのだが、妹の死によって姉は対話の相手を失う。すると皮肉屋で頑なだった姉が変化する。妹の性格を吸収するのだ。これは演出家のロバート・アラン・アッカーマンと話したときに確認したことだが、『蜘蛛女のキス』で主人公二人に相互浸透が起こることを引き継いでいる。
 すると『薔薇の花束の秘密』ではどうだろう。主役二人の性格は対照的である。それが対話を通じてどのように変化するのか、あるいはしないのか。患者は対話の相手を失ってしまうのだろうか。もっとも、単純に相互浸透が起こったのでは反復にすぎない。このあたりも見どころと言えそうだ。
 あと、プイグの読者なら、いかにも彼の作品らしい場面にいくつも出くわすのが嬉しいにちがいない。たとえば、料理を巡って交わされる会話はやはり『蜘蛛女のキス』を思い出させ、ユーモラスであると同時に主人公二人の距離を縮める働きをしている。
 ところで登場人物だが、プイグは母親や叔母たちとその会話をしばしばモデルにする。『南国に日は落ちて』などはその典型的例だろう。だが会話の話し手の中にはプイグ自身も含まれているようだ。つまり彼と母親マリアエレナの会話がときに溶かし込まれているらしいのだ。プイグの父親は典型的マッチョで、それこそ高圧的だったという。一方、母親はかつて看護師をしていた。だとすれば、患者は女性だが、そこに父親の要素が混じっていてもおかしくない。また付添婦に母親の影が反映している可能性もある。この患者は本来母性的で、孫を子供のように可愛がっていたのだろう。しかし孫を失ったことで母性が影を潜めたとも考えられる。このように、見えない部分を含め人物も複雑に描かれているのがプイグの作品の特徴なのだ。いずれにせよ、この戯曲は大作ではないが、彼の創作の集大成であり、多くのエッセンスに満ちている。見どころは尽きない。

【筆者プロフィール】
野谷文昭 NOYA Fumiaki
1948年神奈川県生まれ。東大名誉教授・名古屋外大教授。スペイン語文学研究者・翻訳家。訳書にプイグ『赤い唇』『蜘蛛女のキス』『南国に日は落ちて』など多数。