劇場文化

2016年10月29日

【高き彼物】マキノノゾミの類まれなる才能に惚れ込んで(衛紀生)

 マキノノゾミの舞台を初めて観たのは1994年の近鉄小劇場でのことです。『青猫物語』です。昭和8年の築地小劇場のすぐ裏にある「青猫」というカフェを舞台に、真面目な新劇青年八起静男を軸に展開する、彼の得意分野のひとつである疾走感あふれる青春群像劇です。ロビーで現在は私の妻になっている柴田英杞からマキノを紹介されました。180センチはゆうに超える偉丈夫で、演劇人にありがちな不健康さは微塵もない押し出しにいささか気圧された記憶があります。ちなみにその時あわせて紹介されたのが、その後マキノの重要なスタッフに名を連ねる舞台美術家の奥村泰彦で、彼は翌年の第1回OMS戯曲賞受賞作である松田正隆の『坂の上の家』で卓抜な舞台をデザインして、『青猫物語』に引き続きその舞台に接して、いつかは高く評価される美術家に数えられるだろうと予感しました。閑話休題。『青猫物語』での邂逅以後、私はマキノの舞台には、演劇評論家という肩書を外して、かなり熱心な観客の一人になりました。
 その後、宮城大学・大学院の教員を辞して可児市文化創造センターに職場を移してから、可児市民がどのように彼の舞台を受け止めるか分からないが、いつかはマキノノゾミという、人間の心の襞に染み入る舞台を創り上げる類まれな演劇作家を可児市民に紹介したいという思いがありました。そして、館長に就任した翌年に次年度のレパートリーを探っていて俳優座劇場プロデュースの『東京原子核クラブ』が旅に出ることを知って上演交渉を始めました。結果は客席稼働率30%台というガラガラの集客でしたが、休憩時間に小耳にはさんだ可児市民の評価は「結構面白いね」というもので、演劇を観る人口が当時は極端に少なかっただけに、初めて演劇に触れた市民の率直な感想と私は受け止めました。「マキノは可児市民にとって共感の持てる初めての演劇作家になる」と考えました。翌年は青年座の『赤シャツ』(宮田慶子演出)を上演して今度は50%を超える客席稼働率で、その年、私は翌年の4本の演劇系の事業をすべてマキノノゾミ作品と演出舞台で通す「マキノノゾミ・イヤー」とすることを企画しました。
 そして、人口10万人の町で8回公演1765人の未曾有の観客を集めたアーラコレクション・シリーズVOL.5『高き彼物』につながったのです。『高き彼物』は間違いなく彼の代表作であり、傑作であると思っています。むろん1ヶ月半の可児滞在型のアーチスト・イン・レジデンスで創るアーラコレクションの強みが、市民との日常的な交流を生んで「創客」につながったことも影響したでしょうが、リピーターが非常に多かったことをみても「マキノノゾミ」という類まれな才能に可児市民が深く共感した結果の「1765」という数字だろうと私は考えています。アーラコレクションに特徴的な市民サポーターの作品・キャスト・スタッフを支える動きがきわめて活発だったことも『高き彼物』の特筆すべき点で、それだけ市民サポーターたちが「私たちの物語」というひたむきな思いの中で動いたのだろうと思います。それだけ『高き彼物』は人びとの心を衝き動かす力を持った作品です。「普通の人々」の生活にかすかに立った波紋のなかで、いかに良心を持って事に当たるか、いかに正義を貫こうとするかという一人の元教師の人間ドラマです。私は『高き彼物』の客席に起こった共感の波動をいまでも昨日のことのように思い起こせます。この時の『高き彼物』は関西の十三夜会賞を受賞しました。
 そして、あれから4年が過ぎて、多くの国民市民が激しく変化する社会の中で孤立を一層深める今だからこそ、もう一度上演されるべき「必要とされる舞台」なのではないかと思っています。混迷する社会にあって、いま一度立ち止まって「人間」という存在を深く洞察する機会をつくってくれる作品であると、私は強く確信しています。

【筆者プロフィール】
衛紀生 EI Kisei
可児市文化創造センターala 館長兼劇場総監督。演劇評論家。県立宮城大学事業構想学部・大学院研究科教授を経て現職。主著に『芸術文化行政と地域社会』『これからの芸術文化政策』『阪神大震災は演劇を変えるか』『21世紀のアートマネージメント』『地域に生きる劇場』など。