2017年10月7日

【病は気から】演じる喜び=生きる喜び!? モリエール&シャルパンティエ『病は気から』について(秋山伸子)

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 『病は気から』はモリエール最後の作品である。アルガン役を演じたモリエールは、4回目の公演を終えた後、自宅で息を引き取った。自分は病気だと信じ込む男の役を演じたモリエール自身が病に苦しんでいたという皮肉な状況にあったことが信じがたいほどに、この作品には病を跳ね返すほどの生命力が、生きる喜びがあふれている。
 モリエール作品では、多くの人物が「演じる」喜びに身を委ねる。『町人貴族』においては、貴族に憧れる主人公が自ら貴族の役を演じることで、深い満足感を得る。アルガンもまた、自ら医者に扮し、その役を演じることで病の呪縛から解放される。音楽とダンスの力がみなぎる儀式のうちにアルガンは医者の学位を授けられ、舞台全体が言い知れぬ至福感に包まれて芝居は終わる。
 処方された薬の代金を勘定するアルガンの独白で幕を開けるこの芝居において、薬漬けのアルガンの「病気」のもう一つの治療法、伝統的な医療や薬に頼らない治療法としてまず提案されるのは、芝居を見ること、とりわけ、モリエールの芝居を見ることである。だが、それ以上に効果的な治療法として示されるのが、アルガンを医者にするための音楽とダンスのスペクタクル(一種の音楽療法とでも言えようか)である。即興のこのお芝居でアルガンはじつに自然に生き生きと演じているのだが、その素養の一端は、自らの死を演じてみせる場面にすでに垣間見える。
 妻がどれほど自分を愛してくれているかを再確認するためにアルガンは自らの死を演じてみせる。むろんこれは、アルガンの財産を狙う後妻のたくらみを暴くために小間使いがこの演技に誘い込むのだが、死んだフリをするという演技によって妻の本心を知ることができたことに味をしめたアルガンは、この直後、今度は娘の本心を確かめるため、またしても自らの死を演じてみせる。妻相手の演技に入る前には、「死んだフリなんかして危なくないかな?」とためらっていたことが嘘のように、再び演技の喜びに身を委ねるのである。
 アルガンばかりでなく、小さな子供でさえも、演技の喜びには逆らえない。父親の怒りをかわすため、幼い娘は死んだフリをする。これを見るやアルガンは動転して嘆き悲しみ、自らが素朴で信じやすい観客であることを示すのだが、「ねえパパ、そんなに泣かないで。あたし本当に死んじゃったわけじゃないのよ」という娘の言葉に胸をなでおろす。
 恋の障害に直面した若い恋人たちは即興のオペラに託して互いの想いを伝え合い、その自由奔放な生命力の前に、医者の息子トマ(今回の上演では「トーマス」、以下同様。)の融通のきかない硬直化した言葉は敗れ去る。丸暗記した言葉を機械的に繰り返すことしかできず、アンジェリック(アンジ)への贈り物として医学論文を差し出し、(お芝居にご招待とかではなく)ある女性の死体解剖にご招待しましょうと申し出る珍妙な求婚者トマに対し、クレアント(ケロッグ)は音楽の先生に変装し、アルガンやトマの前で即興オペラをアンジェリックとともに歌ってみせる。「恋するふたりがやむにやまれず、自ら沈黙を破り、その場の気持ちに任せて語り合う様子を歌にした」この即興オペラは、ヒロインの悲愴な決意(意にそまぬ相手と無理やり結婚させられるくらいなら死を選ぶという)を歌い上げ、これを見た観客アルガンの反応を引き出す。「で、これに父親は何と言うんだね?」ナイーヴな観客としてこの「けしからんオペラ」に対して激しい拒否反応を見せたアルガンが、一線を踏み越えて、見る側から演じる側へと身を移し、自らの死を演じてみせるとき、そこに新たな地平が開かれる。
 死は再生につながり、アルガンは自らの演技による象徴的かつ通過儀礼的な死を通して、自分を取り巻く人たちの本心を知り、新たな人生の可能性に目覚める。最後にアルガンを医者にする儀式でコーラスが歌い上げるのはまさに横溢する生への賛歌にほかならない。マルク・ミンコフスキ指揮、レ・ミュジシャン・デュ・ルーヴルによるもの、ウィリアム・クリスティ指揮、レザール・フロリサンによるもの(ともに1990年)、どちらのCDもそれぞれ味のある演奏で、はじけんばかりの生きる喜びをたたえたシャルパンティエの音楽を聞かせてくれる。

【筆者プロフィール】
秋山伸子 AKIYAMA Nobuko
青山学院大学文学部フランス文学科教授。『モリエール全集』全10巻(臨川書店、2000-2003年)の翻訳により、第10回日仏翻訳文学賞受賞(2003年)。著書『フランス演劇の誘惑―愛と死の戯れ』(岩波書店、2014年)等。