身体は、時代を映す。演劇がそうであるように、時代の空気と鋭く共振する身体イメージがある。それは、身体性の淵におりていく抽象性の故に、言葉で紡がれる演劇表現よりテーマがより内面化されるケースも多々ある。では、今日の身体イメージとは何かと考えた時、注目したいのが「痛み」と「受苦」のイメージである。時代を覆う不安と恐怖。平穏な日常のなかでも、あたかも通奏低音のように、言葉にできない不安感が張り付いている。「言葉にできない」と申し上げたが、これはテロや暴力といった目に見える事象のもっと深いところで心理的に共有されている感覚である。
新世紀という晴れがましい響きとは裏腹に、いま世界は混迷の様相を深めている。しかも、暴力が日常の底に忍び込み、棲みついてしまっているのだ。ソ連邦の崩壊から旧ユーゴスラヴィア紛争、イラク戦争、パレスチナ問題など、分裂を始めた世界は、差別と憎しみの構図を露にしてきた。ダンスの現場で、作品の核として浮上する身体表象にこの時期からある特徴的な変化が観察される。それは、ユーロクラッシュなど荒々しい身体語彙の登場とともに焦点をあてられてきた暴力性が、内在化し、深化された表現として、身体的な痙攣や震えなど機能不全の身体イメージを浮上させてきたのだ。
そのような変化に注目して身体性を通して生の意味を探った振付家のひとりに、ドイツのコンテンポラリー・ダンスを代表するサシャ・ヴァルツがいる。ヴァルツは、『ケルパー(身体)』『S』『ノーボディ(noBody)』からなる身体三部作のなかで、人間存在の核である「身体」を解剖学的レベルから社会批評的視点までも踏まえて多様な角度から検証している。第三部の『ノーボディ(noBody)』(2002)では、死へと向かう生の本質、その過程での痛みや機能不全、果てには肉体の消滅を、痙攣や震えを多用した神経症的な身体を呈示して描いたが、それは鋭く時代の空気と響きあっていた。
また、ベルギー、フレミッシュ・ウェーヴの最前線に立つアラン・プラテルは、荒々しい表現から神経症的な表現へ、自身の専門分野の精神療法、セラピーの探求を通して獲得された語彙を駆使して、宗教の陶酔から精神的に呪縛されていく人間の姿を<受苦>のイメージを通して衝撃的に描き出している(「聖母マリアの祈り―VSPRS」「憐れみ」)。出口なしの状況に陥った人間を、いかにして救えるのか。そこには、敬虔なカソリック教徒でありながら、教会制度への強い疑念を表明するプラテルのヨーロッパ知識人としての苦悩が垣間見える。
演劇界の注目を集める英国の劇作家、サラ・ケインの作品は、個人的な苦悩を表現しつつ、一方で的確にこの世界の状況と共振している。現実の不条理を生々しく描いた『ブラスティッド』から最後の戯曲『4時48分サイコシス』まで、暴力性から内面的な苦悩へと深化された戯曲の変化には、外部から内部へ、「受苦」が身体的に内在化する過程が読み取れる。それは、繊細な魂が受け止めた現実=痛みから発し、救いなき世界へと放たれた警鐘でもある。
サラ・ケインの戯曲に触れるにつけ、なんと身体的なテキストだろうと常々感じていた筆者にとって、ケインの戯曲『4時48分サイコシス』に触発された今回のスン・シャンチーの作品は、生まれるべくして生まれた創作である。
ヴィデオで観た限りの印象ではあるが、オリジナリティ溢れる空間性と秀逸な身体語彙へと転換された表現の新鮮さには目を瞠らせるものがある。精神の瓦解と錯乱。詩的言語のコラージュによって描かれる痛みの本質が、強靭でよくしなる青竹のようなスン・シャンチーの肉体を通して巧みに視覚化されている。太極拳など東洋的技法で鍛えられたその動きにはしなやかな強度があり、禁欲的ななかに東洋的な色気が立ち上る。
台湾出身のスン・シャンチーは、日本でも人気の高いクラウド・ゲート・ダンス・シアター(雲門舞集2)で研鑽を積み、渡欧、サシャ・ヴァルツ&ゲスツに参加後、現在はドイツを中心にダンサー・振付家として活躍している。2008年にシュツットガルト国際ソロ演劇祭で最優秀振付賞を受賞するなど評価が高まっている。サラ・ケインの戯曲に新境地を拓くスン・シャンチーの代表作「4・48」の本邦初演を期待したい。
立木燁子 舞踊評論家・ジャ―ナリスト。『DANCE MAGAZINE』などの舞踊専門誌のほか、『AERA』など一般誌でも執筆。読売新聞の舞踊評を担当。ドイツの国際的舞踊専門誌『tanz(旧ballet-tanz)』の在日コレスポンデント。訳書に『コンタクトインプロヴィゼーション―交感する身体—』(シンシア・J・ノヴァック著)。『現代ドイツのパフォーミング・アーツ』(共著)など。
この世に「戦場のカメラマン」という生の様態があるならば、サラ・ケインという劇作家には「戦場の劇作家」という呼称がふさわしい。彼女の作品に接したとき、もしかすると人はそんな印象を一度は持つことになるのではなかろうか。現実の戦争が描かれているという意味ではなく――とはいえ、処女作にして出世作である『ブラスティッド』(1995年)には、明らかに1990年代のユーゴ紛争の影が直接的にみてとれるにもせよ――、彼女の作品には、今日、「戦場」という言葉がリアルに喚起してくるものを強烈に投げかけてくる力がある。
1980年代のイギリスやアメリカではじまった「ネオリベラリズム」という残酷な〈経済=戦争〉が、グローバル世界を生きる個人の内面と身体に、たとえば「自己責任」の名のもと、私たちがそれまで知らなかったタイプの「戦場」をピンポイントで出現させてきたことは、すでに多くの人が実感している。サラ・ケインは、その意味で、いかにもこの時代にふさわしい。おそらく1990年代後半から今日に至るまで、彼女の決して数多いとはいえない作品群が、イギリス、フランス、ドイツをはじめとして世界各地で上演されてきたのもそうしたことと無関係ではないし、日本でも、彼女の名前が紹介され、いくつかの実験的な上演が行われるようになってから約10年が経過した。そして何よりも、28歳の若さで自ら命を絶つ、というこの作家自身の身に起こった出来事が、そうした「現実」を最も過酷に体現してしまった者として、彼女の名声を――そういう類のものが「名声」でしかないことを、まさに彼女の作品は厳しく告発しているのだけれど――どこか過剰に伝説化してきたことも、また否定しがたい「現実」だろう。
しかし、だからこそ私たちは、サラ・ケインを、あたかも殉職した戦場カメラマンのように扱うあらゆる言説に対して、たえず疑いの目を向ける必要がある。なぜなら彼女は、「戦場の残虐さ」を報道するために書いたのではなく、「戦場で対話する方法」を探し求めて書いた劇作家だからである。サラ・ケインの戯曲に見られる過剰な性描写や暴力描写を指して嫌悪感をたれ流すだけの人々や、そうした描写をマニアックに愛好するだけの人々、あるいは、遺作となった『4時48分サイコシス』のなかに、脱稿直後に自殺した女性作家の「本音」を掘り起こそうとするだけの人々が一同に見失っているのは、ひとえに彼女のそうした方法の探求に対する真摯な姿勢なのだ。たとえば、1995年に、彼女がロンドンの劇壇にセンセーショナルなデヴューを飾った『ブラスティッド』(直訳すれば“爆破されて”)において、何が、なぜ「爆破されて」いたのかを考えてみればよい。そこでは主人公であるアル中の中年ジャーナリスト(イアン、45歳)と元恋人(ケイト、21歳)の人格が、作品の冒頭からすでに破綻をきたしている。イアンは人種差別、性差別的な発言を繰り返し、ケイトに身勝手なセックスを強要する。ケイトは吃音をもてあましながら激しい発作に襲われて何度も昏倒する。「世界中のどこにでもありそうな高価なホテルの一室」(ト書き)で繰り広げられるそんな二人の関係が小さな「戦場」なら、作品の中盤、突然巨大な爆発音とともにすべてが崩壊するのも「戦場」であり、すべてに絶望した兵士の登場で、それまでのあらゆる関係性が灰燼に帰し(ケイトは逃亡する)、兵士がイアンを犯してその両眼を喰らって自殺し、盲目のイアンは本当にひとりぼっちになる。物語はおろか、演劇という形式そのものが「爆破された」かのような凄惨な状況は、しかし別の見方をすれば、「戦場」における本当の意味での対話を模索するための準備段階にすぎなかったようにもみえるのだ。最終場、自殺した兵士の遺体の傍らで、食糧をもって戻ってきたケイトに「ありがとう」という一言を発してこの作品は終わる。そのとき私たちは、Thank you というこのありふれた一言が、「戦場」で真に意味を持って響くことはありうるのかを探求するためにこそ、あたかもこの戯曲全体が書かれてきたかのような思いに、不意にとらわれるのである。
いいかえれば、『ブラスティッド』に登場する三人の登場人物とは、どことは特定できないが、世界のどこにでも遍在する「戦場」の、いわば三つの「傷口」なのだ。別々の生い立ちと記憶をもった「傷口」のモノローグが、あるとき一瞬重なり合って、そこに「戦場の対話」という別の「対話」が誕生する。悪夢とも、スプラッター・ホラーとも形容されがちな彼女の誇張された暴力性の生々しさは、そのように考えたとき、結局はナラティヴを展開するために必要な狂言まわしのようにさえ見えてくる。事実、あまりにも短い彼女のキャリアのうちの後半における二作(『渇望』、『4時48分サイコシス』)では、こうした暴力描写はもはや不要となり、純粋な「傷口」どうしの対話だけがクローズアップされることになるだろう。
ト書きや登場人物の指定が一切ないという意味でも独特の形式をもった『4時48分サイコシス』について、作者自身は、「現実と夢想の区別が失われた世界」「自己と他者を区別できなくなってしまった精神病患者の世界を描くこと」に力点を置いたと語っていたというが、「戦場」には人称性などもはや存在しえないし、人称性を欠いた存在こそが「傷口」にほかならない。サラ・ケインが敬愛してやまなかった劇作家ベケットの『わたしじゃない』が、暗闇にぽっかり浮かんだ純粋な「口」のモノローグだったように、『4時48分サイコシス』は、それぞれの行、それぞれのパラグラフが、いわば「戦場」にあいた無数の純粋な「傷口」のクローズアップのようである。とはいえ、目を凝らしてみると、バラバラになった言葉のなかに、かすかにひとつの人格(女性の精神病患者?)が浮かび上がってきて、もうひとつの人格(男性の精神科医?)と言葉をかわしたりもする。この「二人」の会話には、『ブラスティッド』におけるイアンとケイトの会話の反響が明らかに聞きとれる部分がある。「君が悪いんじゃない、君は病気なんだ」と繰り返し、ひたすらレッテルをはろうとする二人目の人格に対して、一人目の人格は執拗にそれに抵抗し、まさに自分のリストカットした傷口をみせること自体を拒絶する。けれども、イアンの最後に到達した地点がどんなものであったかを知っている読者/観客にとっては、精神科医と思しき男性の言動もまた第二のイアンとして――いいかえれば、他人の傷を傷と認識する余裕を失ったもうひとつの傷口のあり方に見えてくるのである。「傷口」は他の「傷口」と重なり合い、ときには精神病患者のものと思しき「傷口」に、別の「傷口」が憑依して語ることさえある。「私はユダヤ人をガス室に入れた、私はクルド人を殺した、私はアラブ人を爆撃した、私は命乞いをする小さな子供たちを犯した、虐殺の現場は私のもの・・・」(谷岡健彦訳、『舞台芸術』第8号)。
こうした「傷口」が、それでもなお「私(I)」という人称代名詞を用いて自己を語るとき、「私」という言葉は、まったく聞きなれない不思議な響きをもって私たちに迫ってくる。谷岡健彦は、「この劇において、自己とは、このようにさまざまな他者の言葉がどっと流入し、せめぎ合い、「不安げな不協和音」を鳴り響かせる場所なのである」と言っているが、そのような自己が、まさに「私」と言う具体的な言葉を使って話しているという点がおそらくはとても重要である。なぜなら、たとえ他人の自己の内部、そこにある痛みは想像不可能でも、「私」という単語は誰でも使うことが可能な、開かれた言葉だからである。なぜ、サラ・ケインがほかでもない「演劇」という形式を選んだのか? なぜ彼女はその形式を「爆破」し、死の直前まで新しい書き方を発明しようとしたのか? 『4時48分』のタイポグラフィー(文字組みと余白)は厳密に決められており、たしかに内面の意識の姿を視覚的に想像させる。けれども、重要なのは、舞台芸術においては、そのように書かれた言葉が、無数の「私」によって、「声」として身体的に共有されるということなのだ。「傷口」を、いかなるレッテルの助けも借りずに「傷口」のままで、たんなる「傷口」として多くの人々と共有すること。――彼女の賭けは、ひとえにそこにあったように思われてならない。
※ サラ・ケインの日本における上演のひとつとして、ダニエル・ジャンヌトー演出の『ブラスティッド』が、SPACにより「Shizuoka春の芸術祭2009」で上演されている。また、「Shizuoka春の芸術祭2010」で来日予定の演出家クロード・レジが、2002/03年に、イザベル・ユべールの主演で『4時48分サイコシス』を上演していることも付け加えておきたい。
森山直人 演劇批評家。京都造形芸術大学准教授。同大学舞台芸術研究センター主任研究員。雑誌『舞台芸術』編集委員。論文に「分断と共感—東京国際芸術祭『中東シリーズ』を振り返って」、「<ドキュメンタリー>が切り開く<舞台>」等。