「劇場文化」掲載エッセイ

だから女というやつは
小二田誠二

フェミニストが必ずしも女好きではないように、女嫌い(ミソジニスト)が女を解っていないと言い切れるものではありません。好きに理由は要らぬとか。そう、理解できないから好き、と言う人もいますよね。猫好き? さてそも「理解」とはなんぞや。

「女の論理、在りや無しや」、と言うのは男どもの、否、女どもにとっても、恰好の酒飲み話の種かも知れません。曰く、男は観念的論理的、女は感覚的身体的云々。いやいや、そもそも女に論理なんて無いよ云々。この議論、興味深くはありますが、出発点で何か「ボタンの掛け違い」をしている気がしてなりません。「論理」とは即、「男」そのものではなかったか。

いや、暴論過言? でも、暴論だろうが正論だろうが、「論理」は嘗て男だけが持ち得た方法だったし、女はそれに従うことで男とは異なる存在、女になったのだというのは否定しようがありません。「女の論理」が最初っからあったなんてことはないのです。もちろん、「非女としての男」の論理もない。ただただ、「論理」は男だった。

「メデイア」の話をしましょう。メデイアは、東方の女です。ロゴスの幸(さきわ)う国ギリシャの男に連れられてコリントスまで来ました。どうやら愛と魔法の力によって、親族を裏切ってまでその男、イアソンを助けて一緒に逃げて来たらしい。賢い女だそうで、まぁ、かなり戦略的ですね。主体的選択によって故国よりも勇敢なギリシア人を取り、そこで子供まで成したのに夫は出世のために土地の王の娘と結婚してしまう。ひどい!そこで、メデイアはとんでもない方法で復讐をします。

東方の野蛮な国の女メデイアは、数年間でかなりの学問を身につけ、文明国でも尊敬を集めたようです。だから、クレオンやイアソンとも言葉で渡り合います。しかし、クレオンはハナっからメデイアの言葉なぞ信じてはいません。メデイアは東方の女で魔法使い。裏があるはずだから追放しなければ、と決めてかかっているのです。実際メデイアはメデイアで、言葉で言いくるめて腹の中では既に「計画」を練っている。

メデイアにとって教養や言語は「男の論理」、行動は「女の論理」なのでしょうか。女はみんなそんなもの? 或いは、東方の蛮族だから?

女嫌いの総本山と呼ばれたエウリピデスは、本当にそう考えたのかも知れません。

しかし、この話の中には、そう、例えばクレオンがかかえる不安の中には、自分たちの、文明国の言葉でも理解できない何かが存在しているのではないか、と言う感覚があります。それは多分、女性恐怖とか、自然への恐れとか以前に、自分たちの論理認識そのものが完全ではないのかも知れないという……。

ク・ナウカの「王女メデイア」は衝撃でした。メデイアもクレオンもイアソンも、それぞれ女性が演じます。「演じる」のですが、言葉は男性が発します。どうやら男性達は法曹家。宴席の余興に文楽の太夫よろしく戯曲を読んで女達を遣おうというのです。そして、この女中達は、半島から連れてこられたらしい。文明国、近代日本の男と、未開の国朝鮮の女。言葉は男、身体は女。終盤、無言のまま大逆転を起します。

この演出でなければなしえない、「メデイア」のテクストを超えて「メデイアじゃない」ところまで手が届く瞬間。予め喪われていたモノたちの「非・論理」が実現する。文明が「無かったこと」にしてきたオルタナティブの逆襲。我々は、古代ギリシャでも、近代日本でもなく、いま、ここで、自分たちの問題として、自分たちのロゴスが崩れ落ちるのを目撃します。強靱な古典と明解な演出、打楽器の響き、そして阿部一徳の圧倒的な声、美加理のこの世の物とは思われぬ身体。演劇という形式だからこそ出来ること。

この解釈が唯一の正解だとは思いません。そして、こうやって言葉で解ったような事を書き連ねる愚かさも承知。承知の上で、私たちは、「論理」を超えて行く何かを持たなければ、先へ進めないところに来ている事を認めましょう。

ちなみに、メデイアって、このあと逃げ延びた先で再婚して、最後は不死の命を得るんだそうですよ。強いなぁ。

小二田誠二 静岡大学教員、鞠水書屋主人。専門は日本の近世文学。著書に『駿府・静岡の芸能文化』第1巻〜第4巻(共著、2003年、2004年、2005年、2006年)、ほか論文多数。

明解「王女メデイア」
北野雅弘

宮城聰の『王女メデイア』が再演される。

1999年に、彼が率いていた劇団ク・ナウカの作品として初演されて以来、『メデイア』は彼らの代表作の一つになり、海外でも高い評価を得た。彼らの『メデイア』は、鈴木忠志と蜷川幸雄のギリシア悲劇上演と並んで、日本におけるギリシア悲劇上演を代表するものとして国際的に認知されている。

エウリピデスの『メデイア』

エウリピデスの『メデイア』は、紀元前431年、アテネのディオニュソス劇場で上演された。初演時の評判は芳しいものではなかった。当時アテネでは悲劇上演は三人の作家による競演形式だったが、『メデイア』は最下位に甘んじている。

エウリピデスが伝説に加えた改変が観客の支持を得られなかったのかもしれない。メデイアは黒海沿岸の国コルキス(現代ではグルジアの一地方)の王女で、金羊毛を奪いにやってきたギリシア・イオルコスの王子イアソンと恋におち、その手助けをする。故国を捨ててイアソンと駆け落ちするが、そのとき自分の弟を殺してイアソンの逃亡を助ける。今はコリントスに亡命中の身だが、イアソンはメデイアを捨ててコリントス王クレオンの娘と結婚しようとする。メデイアはクレオンとその娘を毒殺し、夫への復讐のため自分の子供をも殺してしまう。今日、メデイアと子殺しは分かちがたい関係にあるように見られているが、実はメデイアをめぐるエウリピデス以前の伝承には存在せず、おそらくは彼の創作だ。

子殺しと並ぶエウリピデス版メデイアのもう一つの特徴はその苦悩である。夫の裏切りへの嘆き、子供たちの殺害をめぐる逡巡は、メデイアを、伝説における魔女のイメージからより人間へと近づけている。エウリピデスの独創は、さらに、この新しいメデイア像を、見捨てられた「異邦の女」という、芝居の観客であるアテネ市民にとって二重に外側にある存在と結びつけたことにある。古代アテネは民主主義の原点として知られ美化されてきた。しかしその「民主主義」が男性市民の平等を誇る一方で、ギリシアの中でもアテネが女性を最も抑圧していた国の一つ、いわば「ファロスの帝国」だったこと、また、ペルシア戦争後の繁栄の中で外国人への侮蔑的な姿勢を強めていったこともしばしば指摘されている。『メデイア』のなかで、「蛮族の土地ではなくギリシアの地に住み、正義と、暴力に頼らずに法を用いることとを学んだ」ことによってメデイアが自分の恩恵を受けていると語り、また、「人が何か他の仕方で子供をうみ、女の種族がいなければ良い。そうすれば人間にはどんな禍いもないだろう」と言い放つイアソンの言葉は私たちにはとても恥知らずに聞こえるが、ここにはアテネ市民の傲慢と女性嫌悪が典型的に表現されている。エウリピデスはしばしば彼の同時代の問題を悲劇の中に持ち込んだ作家だった。

こうした方法が当時の観客の反感を買ったのだとしても、それらはこの作品を傑作にしている要素でもある。『メデイア』は最初の上演から一世紀を経てようやく観客に受け入れられ、エウリピデスの代表作の一つと見なされるようになった。こうして、自分の運命を嘆き、子供を愛しながらも激しい怒りの感情を抑えきれずに手を下すメデイアという新しい伝説を彼は生みだした。ポンペイには、子供を殺そうとするメデイアが描かれたフレスコ画が残されているが、エウリピデスの創り出した物語が本来の伝説を置き換える力を持っていたことがうかがわれる。

上演

ルネサンス以後のヨーロッパにおいても、メデイアは人気を保ち続けた。今日に至るまで、『メデイア』はギリシア悲劇の中で最も多く上演される作品の一つでありつづけている。しかし、人気作品であるが故に、ギリシア悲劇を近代的な舞台で演じることの難しさが上演に際して露呈することもしばしばある。エウリピデスは主人公の心理を近代劇のように描写してはくれないからである。苦しみの果てに我が子の殺害を決断するときですら、エウリピデスの言葉は感情の表出であるよりはむしろその提示なのである。「自分がどんな恐ろしいことをしようとしているのかは分かっている。だが怒りは私の分別よりも強いのだ。怒りこそ人にとって最大の悪の原因なのだが」と。

こうした、私たちには醒めた響きを持つ台詞はこの作品の中にかなりあるのだが、特に主演女優に大きな負荷をかけるのだろう。ジュール・ダッシン監督の「女の叫び」はメデイアを演じる女優(メリナ・メルクーリ)を描いた映画で、そこで彼女はメデイアの情念を適切に表現できずに苦しむ。彼女は、自分の子供を殺し「現代のメデイア」と呼ばれた一人の女囚と知り合い、その絶望と孤独を通じてメデイアを理解し、内面化しようとする。最後に演じられたメデイアは全ての感情が表面化する直前に抑えられた、激しさを秘めた静けさによって際立っていた。最近では、イザベル・ユペール主演のアヴィニョン演劇祭での上演(2000年)が、孤立した海岸の洞窟に舞台を置き、コロスを一人にして、メデイアの孤独と絶望を見事に描き出している。

他方、クレオンやイアソンが未知の力を持ったアウトサイダーへの恐怖を露骨に口にし、メデイアの怒りが周縁に追いやられた異邦の女性の怒りである以上、特に1980年代以降のフェミニズムの高まりの中で、抑圧された女性やマイノリティの声を彼女に代弁させる優れた上演が数多く現れてくるのも現代の『メデイア』の大きな特徴だ。アパルトヘイト終焉後の南アフリカの状況を反映し、ジェンダーと民族問題を結びつけたフライシュマン-レズネク共同演出の『メデイア』(1994年)の多言語での上演はその代表的なものである。

スペクタクル

『メデイア』で、彼女は最後に、自分の力でコリントスを去り、アテネに向かわねばならない。復讐が成就して舞台上にイアソンが駆け込んでくると、観客の関心は、彼女がどうやって苦境を脱するのかに向かう。エウリピデスはここでも新しい仕掛けを持ち込んでいる。それは「機械仕掛けの神(デウス・エクス・マーキナー)」と呼ばれる宙吊りのゴンドラで、エウリピデスは、それに乗って上空から語りかける神様によって悲劇に決着をつけることを好んでいた。『メデイア』は現存する悲劇の中でこの装置が用いられる最も古い作品だ。しかしここでは、「機械仕掛けの神」で登場するのはメデイア自身であり、彼女は、太陽神の贈り物である「空飛ぶ龍車」に乗って現れ、イアソンの悲惨な末路を予言し、アテネへと飛び去ってゆく。このスペクタクルも『メデイア』上演の醍醐味の一つだ。

蜷川幸雄による『王女メディア』(1978年)は、メデイア役に女優ではなく平幹二朗を配し、辻村ジュザブローによる豪華でエキゾチックな衣裳、苦悩するメデイアに口から赤い布を吐き出させるなどの様式美の追求で記憶に残るが、最後に「機械仕掛けの神」を舞台に持ち込み、スペクタクルな蜷川ギリシア劇の原点とも言えるものになった。ラストシーンに関して印象的だったのはペーター・シュタインがイタリアとギリシアの古代劇場遺跡で演出した『メデイア』(2004年)で、龍車は輝く大きな光球で表現され、メデイアを遥か上空へと連れ去って行った。この場面は、彼女の圧倒的な力が苦しみを経て初めて解放されたことを伝え、観客を畏怖の念で満たした。

宮城聰の『王女メデイア』

宮城の『王女メデイア』は、舞台を明治時代の日本に置き、茶屋遊びに興じる男たちが娼妓に『メデイア』を演じさせるという趣向を用いている。男たちが語り女たちが演じる『メデイア』は、近代的な心理劇の限界に縛られず、言葉の力を充分に感じさせるものになった。とりわけスリリングなのは、男たちの慰みとして始まった劇中劇の『メデイア』が、枠芝居の世界を侵犯し、凍結させ、破壊してゆく瞬間だ。そこでは現代的な問題意識と、ギリシア悲劇を生みだした原初的な力とが見事に融合している。お楽しみあれ。

北野雅弘 群馬県立女子大学教授。専門は美学。論文に「日本におけるギリシア悲劇」(『劇・ドラマ』第38号、2007年)、「ギリシア悲劇—現代の上演の研究」(2008年)等多数。