「劇場文化」掲載エッセイ

ペール・ギュントはエヴリマンか
毛利三彌

ヘンリック・イプセン(1828-1906)は近代リアリズム劇の父、社会問題劇の確立者。今も世界中で、シェクスピアについで多く上演されるといわれる。代表作は?と問えば、一昔前の演劇愛好者なら、即座に『人形の家』『ゆうれい』『ヘッダ・ガブラー』と、あがったものだ。だが、イプセンの祖国ノルウェーで、彼が書いた25の劇作品のうち、どれがいちばん好きかと問えば、おそらく10人のうち8人は、『ペール・ギュント』と答えるだろう。これは社会問題劇を書き出すよりずっと前、1867年に書かれた厖大な劇詩。わたしもノルウェーで同じ答えをしたら、へえ、日本人に『ペール・ギュント』が分かる?という顔をされた。これは典型的にノルウェー的な劇だと、彼らは思っている。

ペールは、ノルウェーのど真ん中とされる中央山岳地帯の伝説上の人物。それをイプセンは、大言壮語だが日和見的、無鉄砲だが自分本位の、憎めないペール像に仕立てた。ペールは、山にひそむトロルの王国に乗り込む。トロルは、ノルウェーお伽噺でよくみる妖怪、妖精、魔物をいっしょくたにしたような、みにくい間抜け。これはノルウェー人の独善性の象徴だ。

イプセンは一級の詩人と目されるが、この劇詩には近代ノルウェー語の複雑な状況もからむ。それには、これまた複雑な近代の歴史がからんでいる。ノルウェーは、19世紀初めのナポレオン戦争でナポレオン方について敗戦国となったデンマークの属国だった。だから、戦勝国スウェーデンに割譲され、それまでの支配的なデンマーク語文化から脱却しようと、地域に根ざした伝統的な言葉から、新しいノルウェー語を作り出す試みがなされた。てんやわんやの言語紛争の結果、1905年の完全独立のあと、デンマーク語系と新ノルウェー語の両方が国語と認められた。イプセンはこの劇で、混乱した国語事情をとことん皮肉っている。

世界でも最前線の福祉国ノルウェーは、いまは北海油田で大いに潤っているが、『ペール・ギュント』が書かれた頃は、まだまだ発展途上の貧しい農業国。多くの農民が飢えてアメリカに移民した。ペールのように、世界を股にかけ大金を儲けるのを夢に見て。かつては、といっても、はるかはるかの昔だが、あの有名な北欧ヴァイキングこそノルウェー人の先祖。無人のアイスランドに植民し、ヨーロッパ人で最初にアメリカ大陸を発見した。南はシチリア島まで荒らしまわったが、その最大の成果は、ノルウェー(北欧)のキリスト教化。改宗したヴァイキングたちが戻ってきてキリスト教を国教にしたのだ。だが、土着宗教、土着文化との軋轢は現代までつづく。イプセンは国教会に批判的だったというが、『ペール・ギュント』はもっともキリスト教的な作品とされる。

ところが、フランシス・ブルというノルウェーの著名な批評家は、戦後、オックスフォード大学で講演をしたとき、ある日本の研究者がペール・ギュントを典型的な日本人だといったという話をした。俄然、1970年頃から、世界の最先端に立つ演出家が、好んでこの劇を舞台にのせ始めた。ドイツのペーター・シュタインは、体育館のような劇場で二晩がかりで上演。第四幕では、巨大なスフィンクスを出現させ、カイロの病院では、全裸の男が首を吊って観客の度肝を抜いた。破天荒なスペクタクル、ユニヴァーサルな喜劇、ペール・ギュントはエヴリマン。初演のときにグリーグが作曲した劇音楽は、『ペール・ギュント組曲』となって世界を巡ってもいる。

だが、ちょっと待って、とフェミニストたちはいうかもしれない。エヴリ・マンかもしれないがエヴリ・ウーマンではない。女をほったらかして世界中を飛び回り、したい放題のあげく、死に際になって、慰めを求めて女のところに舞い戻ってくるペールを、文句一つ言わずに優しく抱きしめるソールヴェイ。これは女を侮辱している、と、当時も「新しい女」から非難された。しょせん、ペール・ギュントはエヴリ・マンか。今日この劇詩を舞台化するときの、これが最大の問題点。ペーター・シュタインは、ペールを抱くソールヴェイをピエタ像になぞらえた。しかもそれを、写真屋がフラッシュをたいて写真におさめるのである!

毛利三彌 成城大学名誉教授。専門分野は演劇学。またイプセン研究で知られる。主著に『イプセンのリアリズム-中期問題劇の研究』(白鳳社、1984)、『イプセンの世紀末-後期作品の研究』(白鳳社、1995)、『演劇の詩学-劇上演の構造分析』(相田書房、2007)。

「ペール・ギュント」、戯曲と音楽のあいだ。
小林旬

ノルウェーの国民的文豪ヘンリック・イプセン(1828-1906)の戯曲『ペール・ギュント』(1867)は、戯曲のかたちをしてはいるものの、舞台的な制約をほとんど無視している。なにしろペール・ギュントという人間は、端的に言えば、どうしようもない男、荒唐無稽、場あたり的で自己欺瞞に充ちている。物語の時間は40年ちかくにわたり、ノルウェーの大渓谷の村から山の魔王の宮殿、暗闇、モロッコの海辺にサハラ砂漠、カイロの精神病院、嵐の海、墓地、荒野など、おそよ舞台に表現づらい情景が連続する。破天荒な冒険譚、壮大なファンタジー。物語はどんどん肥大化してゆくが、主題はむしろ自己という中心へと加速度的に展開、いや、回転する、と言おうか。「ギュント的おのれ、それはそもそも/希望、願望、欲望の山、/ギュント的おのれ、それはそもそも/機智、欲求、追求の海」。第4幕でペールはそう豪語するが、第5幕、死神の使者であるボタン職人が宣告する。「おのれに徹するとは、おのれを殺すこと」。ノルウェーのノーベル賞文学者でイプセンとも親交のあった大詩人B.ビョルンソン(1832-1910)の評、『ペール・ギュント』という戯曲は、「ノルウェー人の利己主義、狭量、うぬぼれに対する風刺」である。

1874年、エドヴァルド・グリーグ(1843-1907)は31歳のとき、ドレスデンにいたイプセンから長い手紙を受け取った。『ペール・ギュント』を舞台で上演するための音楽を依頼するものだった。25歳のとき、あの劇的なピアノ協奏曲 イ短調 op.16(1868/1906-07)で喝采を浴び、作曲家として世に認められることになったグリーグだが、彼は自らの音楽を抒情的でさりげないものであると感じていた。たとえばグリーグの音楽的な小宇宙をかたちづくるピアノのための小品のかずかず《抒情小曲集》(1867-1901)。彼にとって、どぎつい『ペール・ギュント』は「手に負えない主題」だった。彼は『ペール・ギュント』の文学的価値はおおいに認めてはいたが、それは自身の音楽性とはほとんど相容れないし、そもそもこの戯曲に音楽的なところがあるだろうか―。こんにちグリーグの作品でもっとも知られているのがピアノ協奏曲と《ペール・ギュント》なわけだが、それらはむしろ彼には“らしくない”音楽なのかもしれない。いったん断りはしたものの、結局グリーグがイプセンの依頼に応じたのは、やはり祖国ノルウェーを愛していたからだ。

グリーグの音楽にノルウェーの心がはっきり宿っていると高らかに宣言したのは巨匠F.リスト(1811-86)だ。かつて「ピアノの魔術師」とよばれて華々しく活躍したが、いまやもう晩年の域、ローマで僧籍の身にあった。彼はあるとき楽譜店でグリーグの楽譜に眼を留める。そこにこの若い作曲家の才能を認め、翌日、賞讃と招待の手紙を書き送った。グリーグはローマのリストのもとを訪れる。リストはあのピアノ協奏曲を初見で、しかし圧倒的にドラマティックに奏(ひ)きながら、「これがほんとうの北欧だ!」と叫んだ。

『ペール・ギュント』を舞台化することは、イプセンにしたところで、それがそうとう困難なことであることは判っていた。彼は、こんな規格外な戯曲を舞台化するには、音楽は「口あたりのよいもの」でなくてはならないと考えていた。その点、グリーグは最善の選択だった。グリーグにしても、この《ペール・ギュント》op.23(1874-75)の音楽を「観客が呑みやすいように丸薬にかけた糖衣」にたとえている。

1876年、グリーグの音楽を附した詩劇《ペール・ギュント》は初演された。イプセンとグリーグのもくろみはとりあえずは成功したが、「それは多分に甘ったるい音楽のせいで、作品そのものが理解されたわけではなかった」(原千代海)。「砂糖がむしろつきすぎているように思われる」(P.ワッツ)。劇作家・評論家G.B.ショー(1856-1950)はその音楽について、「この作品の表面的な問題をわずかに捉えているだけで、その本質までには及んでいない」と厳しい。しかしグリーグは判っていたのだろう。「いま、オスロで《ペール・ギュント》を上演するのは、なかなか効果的だ。なにしろ、オスロでは物質主義が昂まり、我々が高尚で神聖だと考えているものをみな押し殺そうとしているのだから。エゴイズムを映しだすもうひとつの鏡が必要だと私は思う。《ペール・ギュント》はそういう鏡なのだ」(ビョルンソンへの手紙)。―第2幕、魔王がペールに言う。「お前たち人間はみな同じだ。口では魂だの何だのと言っているが、握りこぶしでつかめるものでしか、ありがたがらない」(★)。

グリーグはひじょうに個人的な、プライヴェートな作曲家だといえるだろう。愛する国ノルウェーが独立しようとする気運が昂まるなか、彼はフィヨルドの寒村で、《抒情小品集》をこつこつと、まるで日記のようにつづっていた。やがてグリーグは国民的な作曲家となったが、音楽によって革命をおこそう、というのではない。彼は彼の在りかたで、あくまで抒情的でさりげない音楽によってノルウェーの音楽を築きあげた。グリーグがイプセンの詩劇を充全に理解していたとしても、それを本質的に音楽に表現するのは、彼の音楽性、というか、彼の生きかたには、どうもしっくりとはこなかったのだろう。しかし、民族的な主題に情熱を注ぎ、グリーグにとってもっとも劇的で、聴くものの心に物語の情景をありありと描かせる音楽となったのである。

《ペール・ギュント》の初演は音楽を含め、好意的に迎えられた。ぜんぶで26曲のなかから、4曲の第1組曲 op.46(1888)、また別の4曲の第2組曲 op.55(1891)が編まれた。グリーグの《ペール・ギュント》が愛されているのは、劇音楽としてではなく、これらの組曲によってであり、また、イプセンの戯曲『ペール・ギュント』はこの音楽によって世に知られているといってもいい。

現在、イプセンの『ペール・ギュント』を上演するにあたって、グリーグの音楽はそぐわないと考えられている。そもそもこの戯曲が上演されることもあまり多くはないが、それだけに、この音楽の全曲を聴く機会はなおさらない。にもかかわらず、誰もが〈朝〉や〈ソルヴェイグの歌〉を耳にしたことのあるのは2つの組曲があるからだが、それがこれほどまでに世に膾炙されているのは、やはり音楽がすてきだからだ。その音楽には印象的な旋律やリズムがふんだんに、ぜいたくに用いられている。戯曲を離れて、自律した音楽、2つの組曲として聴かれるのは、むしろ作品にとっては幸せなことだったのかもしれない。これだけすてきな音楽を生みだすのは、たやすいことではない。ただ、それだけに、《ペール・ギュント》はグリーグにとって超えようにも超えることのできない最大の壁となっただろう。その後の彼の音楽は、もっとひっそりとした小径へと歩んでいったから―。


『ペール・ギュント』からの引用は基本的に毛利三彌訳(論創社、2006)により、★は毛利訳で省略されているため『イプセン戯曲全集』第2巻(原千代海訳、未來社、1989)による。

小林旬 静岡音楽館AOI学芸員。これまで約500曲の曲目解説を執筆。また静岡他の民俗芸能を調査・研究。D.マッケヴィット:《トランスルーセンス》(静岡、東京。2002)、M.ラヴェル:《ボレロ》(熊本。2003)、志田笙子:《四季》(ケルン。2004)、F.ガスパリーニ:歌劇《ハムレット》(静岡。2007)など演出。

〈自分自身であること〉への旅
――イプセン『ペール・ギュント』をめぐって
木村直恵

〈ペール・ギュント〉とは、イプセン自身の紹介によると「近代のノルウェー民話に登場する半ば伝説的、半ば架空的人物」1 である。この人物は一八六七年、イプセンの手によって新たに生まれ変わった。といっても、イプセンの書いた戯曲によれば、この年はペール・ギュントが年老いて死んだ年でもあるらしいので、彼はこの時、一つの生命を終えるとともに、新たな生命を獲得したということになるのだろう。

ペール・ギュントの物語は、もとの民話と、イプセンの戯曲とではずいぶん異なっている。民話のペールはふてぶてしく、小知恵のまわる男だ。猟師のペールはある日、山のなかで日が暮れてしまい、奇妙なものと遭遇する。ふいに足にぶつかったそれは、「冷たくて大きくてつるつるした」なんとも得体の知れないものである。「こいつ、誰だ」と、思わず尋ねるペールに、それは「おれは、まがりさ」と名乗る。それはじつにへんてこな物体で、ペールがそれをよけるために歩き過ぎようとしても、どこまでいってもそれにぶちあたってしまう。どうにかペールが目的の小屋のなかにたどり着くと、そこにも冷たい大きなつるつるとしたものが浸入していた。「まがり」にすっかり包囲されていることに気付いたペールは、機転をきかせて退治することに成功する。さらにペールは、人間に災いをもたらそうと意地悪くうかがうトロルたちをつぎつぎと巧みにかわし、退治していく。 2民話のなかで、ペールはちょっとした英雄である。

では、イプセンが生み出した戯曲『ペール・ギュント』はどうだろうか。この作品においてイプセンは、民話を素材としつつも、物語に大きく手を加えて膨らませていった。その結果、もとの民話とはほとんど別物といってよいほど、『ペール・ギュント』は完全にイプセンの創作と化した。その変貌のありさまは、われわれがこの過激にして過剰な作品を体験するためのひとつの手がかりとなる。

イプセン版『ペール・ギュント』の物語は、それに出会う者に、なにより一人の男の流寓の生涯を印象づけるはずだ。ノルウェーの田舎村に生れ育ったペールは、はるばるモロッコの海岸に、次いで砂漠に、さらにエジプトのスフィンクスの傍らに姿を現す。ペール自身によれば、彼はそれまでに貿易商として世界中を駆け回ったこともあるというのだ。そして年老いたペールは帰るべき場所も失ってノルウェーに戻り、さすらい続ける。ペール・ギュントの生涯とは、生れ故郷を立ち去って以来、ずっと根を下ろすことのない流浪の連続であった。ところで意外なことに、このような流浪はもとの民話には存在しない要素である。イプセンは、戯曲『ペール・ギュント』の物語の骨格をなす要素として、〈旅〉を与えた。この旅は物語のなかでどのように展開され、またどのような機能を持ったものだっただろう。

物語は二十歳のペールとともに始まる。ペールに与えられた属性は、嘘つきのほら吹き、粗暴で高慢で生意気なのらくら者、村中の鼻つまみのろくでなしである。ペールはいつも自分がなにか「でっかいこと」をしでかして、周囲の鼻を明かしてやることを夢想している。だがその「でっかいこと」が何であるのか、ペールに具体的な心当たりがあるわけではない。ただお伽話に出てくるような王さまや皇帝の漠然としたイメージが去来するばかりである。

ある若者が、その一身にはまったく分不相応に思われる欲望や野望への衝動を抱いていて、それゆえに時に人の顰蹙を買い、時にその未知数の将来を期待させるといった話には、ある普遍性がある。そのようにして野心ある若者が旅立つ物語は、いかにも伝説や民話の類にふさわしい題材だ。だが、ペール・ギュントは十九世紀の近代人である。正しく言えば、イプセンはペール・ギュントに十九世紀という同時代を生きさせることを選択した。もしペールが故郷の村から出奔せずに終ったなら、彼の野望はせいぜい村人の物笑いの種にしかならなかっただろう。そしてやがては若気の至りという解釈のもとに、無害な村の語り草に追加されるにとどまっていたかもしれない。だがペールの形なき野望のドライブは、村の共同体を飛び出して、近代の世界のなかで形をとることになった。ペールの旅とは、その欲望の展開過程にほかならない。

帝国主義の雰囲気を背景として、十九世紀的現実に相応するかたちで解放されたペールの欲望は、三つの形をとって示される。ひたすら富を求める実業家ペール、恋する予言者ペール、そして歴史学者ペールだ。失敗を繰り返しながら流浪と変転を繰り返すペールであるが、彼はつねにひとつの命題に支配されている。それは〈自分自身であること〉だ。中年の成功した実業家ペールは、得々として自分の人生訓を語る、「男子なんたるべきか、おのれ自ら。これがわが輩の単純なる答え」。恋に溺れる予言者ペールは、エキゾチックな娘アニトラに語りかける、「生きるとはどういうことか知っているか?/それは足を濡らさずに流れに漂い時代の河を下ること、完全におのれ自らを保ちながら」。学者ペールはスフィンクスの傍らで知り合った男にこう自己紹介する、「わたしはずっと努めてきました。わたし自身であろうとね」(★)。そして死の間際まで〈自分自身であること〉がペールを引きずり回す。

だが、そのペールの〈自分自身〉とはいったい何なのか。富、恋、知…、近代の凡庸な欲望の対象を次から次へと節操なく追い求めるペール・ギュントが何者であるのかは、傍で見ているわれわれにもよく分からないことだ。ところで、この問題についてはペール自身が得意気にこう述べている。「ギュント的おのれ、それはそもそも希望、願望、欲望の山、ギュント的おのれ、それはそもそも機知、欲求、追求の海。」

つまるところペール・ギュントは何者でもないのだ。それはオポチュニスティックに発現される非定形の欲望が、自己を騙っているという事態にすぎないのだ。

イプセンは、近代人における〈自分自身であること〉の病いにきわめて意識的な作家だった。『ペール・ギュント』以降の作品には、〈自分自身であること〉をリゴリスティックに追及し、強迫することが引き起こす悲劇が何度も現われる。例えば『人形の家』におけるノラの出奔は、署名という〈自分自身であること〉を象徴する行為が契機となっている。だがこの問題に関して言うと、『ペール』以後の作品は、よりいっそう深刻であるがゆえに、むしろ一面的である。言い換えると、のちの作品群に比べると、はるかに非現実的に見える『ペール』のほうが、人間の現実のありようにずっと肉薄しているように思われるのである。

〈自分自身であること〉という言葉は二度、若くて向こう見ずだったペールに投げかけられた。まずはトロルの国のドヴレ王によって。「山の外、照り輝く大空の下ではこう言う、『人間よ、おのれ自らに徹せよ!』/ここ、われらトロルの間ではこう言う、『トロルよ、おのれ自らに満足せよ!』」ついでトロルの国を脱出したペールは、奇妙な体験をする。闇のなかで茫洋とした得体の知れないものに包囲されてしまうのだ。「答えろ!何ものだ?」「おのれ自ら」。「おのれ自ら」を名乗るこの不気味なものはボェイグ――すなわち民話の「まがり」である。これこそイプセンがペール民話からつかみ出した物語の核だった。ペール・ギュントはこのとき、「おのれ自ら」なるものにどこからどこまでも取り巻かれてしまったのだ。だが民話と違い、それは切り抜けることも打ち倒すこともできない。そしてそれは「回り道しろ、ペール!」と命令しつづける。

ペールの旅は、この命令に導かれて始まったのだった。それゆえ、大いなる回り道に終わることが最初から運命付けられている。しかもそこにはドヴレ王の言葉が深く刻みつけられている――ただし〈満足〉という言葉が含まれていたことを、すっかり意識の外に追い払ってのことだったが。かくしてペールの旅はある構図によって規定されることとなった。すなわち<自分自身であること>というテーマが、〈欲望〉と〈満足〉という相対する二極から引っ張られているような構図だ。

だからペールは、いつでも日和(ひよ)る。「大胆不敵さのコツとはそも何か?行動する勇気を持つためのコツとは何か?それは落し穴に落ちた人生の荒野に絶えず可能性を残して立っていること。…いつでも引き退ることができるように常にうしろに橋を作っておくこと」。「傍観者として、安全な距離から」(★)というのが彼のモットーだ。そして流行を追うこと、順応すること、なんにでも慣れてしまうこと。自分自身であろうとする欲望を追いかける道程には、最初から満足が織り込まれている。それゆえ〈自分自身であること〉は、その本人の主観的意識に反して、いつだって中途半端な試みにならざるを得ないのである。四十年の長い放浪を経ながらあまりに成長も成熟もしない主人公をつうじて、欲望が形をとるおぞましさと、形にすらならないことの空しさとを二つながら描いてみせるこの物語は、りっぱなアンチ教養(ビルドゥングス)小説(ロマン)の様相を呈している。

だが、〈自分自身であること〉を貫いて成熟していけることなど、この近代の世界のなかでありうることなのだろうか。エジプトの精神病院で狂人たちの皇帝(ペールの野望はここで叶う!)となったペールは、彼自身も狂人である病院長から、狂人とは徹底的に自分自身であるような人間たちだと説明を受ける。また、年老いたペールは、「おのれ自らだったことなんて一度もない」凡庸な魂として、ボタン作りから魂を回収されそうになる。老ペールはボタン作りから逃れるため、悪魔にすがり付いて地獄に行くための条件を聞き出す。悪魔が示した条件とは、夜も昼も、自分自身であり続けること――であった。〈自分自身であること〉の貫徹は、近代の世界においては、狂気か、地獄に通じる道なのである。

それでは〈自分自身であること〉の不可能がこの物語の結論であったのか。イプセンは『ペール・ギュント』の結末をたんなるシニシズムのうちに閉じてはいない。むしろこの作品の最大の魅力は、〈自分自身であること〉という問題をめぐる深い洞察を構成している点にこそある。われわれはここで民話には存在せず、イプセンが創造し、付け加えたもうひとつの重要な要素――女たちが、この作品に配置された意味を問うてみなければならない。

この物語はペールの母オーセに始まり、ソールヴェイに終る――二人の女に支えられた物語世界という構造をとっている。この二人の女において、まぎれもなく〈愛〉が形象化されている。彼女たちは、ろくでなしペールをただひたすら深く愛さずにはいられない。オーセは、息子にさんざん迷惑をかけられつつも「あの子を失くすわけにはいかないんだ!」と叫ぶ。これはほかならぬ彼自身を、そのあるがままの存在において承認し求める者だけが発することのできる、究極的な愛の言葉である。ソールヴェイはそれを分かち合い、受け継ぐ関係にある。この際、ソールヴェイに「あんな男をなぜ」と尋ねることに意味はない。なぜなら愛は出来事であり、究極的にいかなる理由付けも動機も拒むからである。それはただ、近代的欲望や満足から完全に離れたところで屹立している、まったく手段的ならざる何かなのである。だがそれゆえに、近代的世界において〈愛〉は居場所を失う。イプセンはそのことについても意識的だった。

のちの『人形の家』でも、『野鴨』でも、イプセンは、同一性と真正性の証明を求める強烈な光のもとに、剥き出しに暴き立てられ、追い立てられることにいたたまれなくなる愛の姿を描いた。興味深いことにこのような愛の荒廃を、イプセンは〈自分自身であること〉の追及と表裏する問題として取り出した。ペールもまた、〈愛〉の手前でそれを迂回して以来、〈自分自身であること〉を求めて愛なき世界をさまよいつづけてきた。だがこの作品においては、これ以後の作品とは異なり、〈愛〉の居場所は世界の背景に保持されつづけていた。

ペールのまわり道は、それがソールヴェイの前から始まったのである以上、当然、再びソールヴェイのもとへたどり着くことによって閉じられる円環でなければならない。年老いて盲目になったソールヴェイは、若き日に待っていてくれと言い置いて去ったきり帰って来なかった男のすべてを抱擁する。われわれはそこで初めてペールがペール自身であった場所の在り処を知るのである。「じゃ、言ってくれ、おれの全身、おれの真実、おのれ自らとして、おれはどこにいたか?」「わたしの信仰の中、希望の中、愛の中。」――これこそ、この物語のすべてが収斂していく場所である。〈自分自身であること〉をめぐるペールの不毛なあがきと、棄てた故郷の〈愛〉のなかで、すでに、つねに成就していた彼自身とのこの対照は、きわめて印象的である。

〈自分自身〉とはいったいどこにあるのか――他者による深い承認のうちに。このことをイプセンは演劇的(ドラマチック)な仕組みのうちに見事に明かしてみせた。ペールのさまよった世界は広大だが平板なものであった。だがイプセンは、結末でオーセとソールヴェイによって支えられた枠(フレーム)を浮き立たせることで、世界を一挙に重層化してみせる。身勝手に傲慢に世界を駆けめぐってきた十九世紀の主人公ペールは、その瞬間、主人公の座を〈愛〉に譲る。それは〈自分自身であること〉について、演劇が与えたひとつの歴史的回答である。

ただしイプセンは『ペール・ギュント』を、上演を想定しない戯曲として書いた。このスペクタクルを舞台のうえでいかに立ち上げて見せるか、それは近代という長い時代が続いている限り、後世に託された挑戦でありつづけている。


*テキスト日本語訳の引用は、基本的に毛利三彌訳により、★は毛利訳で省略されているため原千代海訳を用いた。

1 一八六七年一月五日付フレデリック・ヘーゲル宛書簡
2 「ペール・ギュント」『世界の民話3・北欧』、ぎょうせい、1976

木村直恵 学習院女子大学専任講師。専門分野は日本近代史・文化史。主著に『<青年>の誕生 明治日本における政治的実践の転換』(新曜社、1998年)。