「劇場文化」掲載エッセイ

何も奪わず全てを奪う監視
――『セキュリティー・オブ・ロンドン』観劇の前提として
大澤真幸

『セキュリティー・オブ・ロンドン』は、出自や文化的背景が大きく異なる四人の人物――もっともその中には双子も含まれているが――の思いがけない出会いと友情を、たった一人の役者(ゼナ・エドワーズ)の語りとパフォーマンスによって描く作品である。『セキュリティー』と題されているのは、日本語副題にあるように、彼らの行動が、全て監視カメラの眼にさらされているからである。ここでは、だから、作品鑑賞の前提となる、「監視の現在」の社会学的・哲学的な意味について解説しておこう。

2001年9月11日の悲惨なテロ以降、安全性の確保のための監視の必要性が声高に主張されてきた。だが、まず理解しておかなくてはならないことは、広義の監視は、テロや犯罪のような暴力の防止と直接にはほとんど関係なしに、現代社会の生活の中に浸透してきているという事実である。その過程は、9.11テロよりも前に始まっており、さらに今日、ますます加速しつつある。

第一に、われわれが監視されているのは、繁華街やビルの監視カメラの前に立っているときだけではない。今日の情報・ネット環境の下では、現代人の行動は、ほとんど常に個人情報の痕跡を残していく。それら痕跡はしかるべき技術があれば収集できるため、彼らの行動は事実上、監視されているに等しいことになる。インターネットを使えば、接続の記録はサーバーに残るし、携帯電話を利用することは、移動の軌跡を電話会社に知られていることを意味している。第二に、監視しているのは、今日では、単一の国家権力ではない。一般の個人や民間企業が、ほぼ任意の他者を監視することができる。たとえばインターネットの検索エンジンに特定の個人の名前を入れて検索をかけるだけで、かなりのことはわかってしまう。かつてジョージ・オーウェルは、単一の「ビッグ・ブラザー」が人々を監視している世界を描いたが、今日は、無数の「リトル・ブラザーズ」(東浩紀)が互いに互いを監視している世界に近づきつつある。

さらに重要なことは、現代の人々が、このような広義の監視を必ずしも忌避してはいない――ときに望んでさえいる――という事実である。犯罪抑止のために繁華街に監視カメラの設置を求めているということだけを指して、こう主張しているわけではない。かつて、われわれは、監視されることを恐れ、せいぜい監視を必要悪としてしか受け入れない人間を当然のあり方としてイメージしてきた。しかし、今日われわれが目の当たりにしているのは、監視されていること、他者に見られていることに不気味さを覚えると同時に、そうした恐怖と不即不離の形で、逆に、他者に見られてはいないことに、より強い不安を覚えるような人間類型の蔓延である。

このことは、ツイッターのことを思えば、直ちに理解できるだろう。ツイッターに登録すれば、すぐに何十人、何百人もの人にフォローされることになるし、人はそうなることを積極的に求めている。だが、それは、その何十人・何百人が、その個人の日常の些細な行動を常時監視していることを意味しているのだ。

それならば、このような広義の監視の普及は、とても結構なことで、それによってわれわれは何も失うことはないのか? 一方で、このような監視は、われわれから何も奪わず、それどころか、ときには何かを積極的に与えさえする。しかし、他方では、こうした包括的な監視は、われわれから全てを奪ってもいる。何も奪わない、というのは、われわれは、違法行為にでも着手しようとしない限り、監視されていても特に困らないからである(そして、たいていの重要な自由は認められている現代社会において、法を犯してまで手にいれたい自由はあまりないからである)。それならば、監視が全てを奪う、とはどういうことか?

この点を説明するために、極端な例、スターリン体制下の監視という例を取り上げてみよう。スターリン体制下では、ある日突然、人は反逆者として逮捕された。その人は、クーデタを企てた覚えはないと抗弁する。本当にそんな記憶はないのだ。だが内務省の役人は言う。証拠はある、おまえは外国と始終怪しげな連絡を取っていた、と。実際、逮捕された男は、切手収集の趣味のために外国とやりとりしていたりする。このようにスターリン体制下では、身に覚えのない事由で人は粛清された。逮捕された人が、いくら抗弁しても、官憲に「客観的に見れば、おまえは間違いなく反体制活動に関与したことになる」と言い渡される。しかも、最も驚くべきことは、被疑者は、処刑に先だって、(ときに公開の裁判で)ほんとうに自分が反逆者だったと自ら告白するという事実である。

この例から得られる教訓は、人は「純粋に客観的な条件のみで主体化されうる」ということにある。内面をどう点検しても、自分が裏切り者だと納得させる感覚は見出せない。内的な自律性のかけらもなしに、主体は、客観的に「裏切り者」というアイデンティティーを割り当てられ、結局はそれを受け入れてしまうのだ。

こうした状況を寓話的に表現したのが、カフカである。『審判』の主人公Kは、理由も分からず逮捕された。調査官は「あなたは塗装工ですね」と尋ねる。Kは「いいえ、銀行の副支店長です」と答えるが、聴衆の爆笑を買うだけだ。Kは、主観的には副支店長でも、客観的には塗装工なのだ。

われわれが理解すべきことは、このような「客観的な主体化」は、過去の特定の時代や文学の中に現れる事態ではなく、現代の監視状況の中で不断に生じている、ということである。たとえばインターネットで買い物をする。売主は、あなたの買い物の履歴を「監視」しているので、それを分析し、一種の統計的な推論によって、買い手であるあなたが好みそうなもののリストを推奨してくる。リストの中のどの項目も、あなたはかつて一度も欲したことはなかった。そもそもそういうものがあることも知らなかった。しかし、リストをみた途端に、それこそ「本来私が欲すべきもの」「私がほんとうは欲していたもの」だと感じ、それを受け入れてしまうのだ。このとき、あなたは、客観的に主体化されている。

なぜ、人はかくも容易に客観的に主体化されてしまうのか? 人は、潜在的には「何ものでもありうる」からである。私は、こうした可能性のことを「偶有性contingency(他でもありうること)」と呼んでいる。カフカの主人公がKという記号(数学の変数を暗示する記号)で呼ばれているのは、こうした人間の本来的な偶有性を指し示すためであろう。

さて、もう一度問おう。包括的な監視が奪っているもの、それは何か? 人間の本来的な偶有性だ。ところで、偶有性は、人間が自由であるための根本的な必要条件である。完全に包括的な監視が、人間から「全て」を奪う、というのはこの意味である。

そのような監視に対抗するにはどうしたらよいのか。言うまでもない。偶有性を極大化すること、それぞれの個人が「他でもありうること」「他者でもありうること」を徹底して極大化して提示することである。その意味で、一人の役者が、まったく異なる四人の人物を演じ分ける『セキュリティー・オブ・ロンドン』は、現代の監視への最もラディカルな抵抗と解釈することができる。

大澤真幸 社会学者。SPAC文芸部所属。専門は比較社会学、理論社会学。著書に『行為の代数学—スペンサー=ブラウンから社会システム論へ』(青土社、1988年/増補新版1999年)、『ナショナリズムの由来』(講談社、2007年)、『不可能性の時代』(岩波新書、2008年)、『<自由>の条件』(講談社、2008年)等多数。

「リズムの翻訳」
佐藤雄一

日本語を学びたい、といってきた外国人の友達がいたとする。そしたら、ぼくは、彼に、まずどの日本語から教えるとよいのだろうか。「愛」「友」「自由」…言葉はとりとめもなくうかんでくる。けど、うまく選びとることができない。選ぶ根拠がわからないからだ。中上健次という作家はたしか「勇気」を選んだ。うつくしいと思う。 けれど、うつくしすぎる。

「根拠」などなにも考えず、捨て身で、自分の言葉を、ただ外国人にむけて差し出すこと。その発話のなかで、「勇気」という日本語は、自分の繊細な内向性のうらがえしとして跳躍してしまう。自己愛のうつくしい怯えのネガ。繰り返せば、それは、うつくしすぎる。ぼくは、彼のように詩的になれない。代わりにただ、愚直に、その友達のまえで、なにも教えることなく、日本語の詩を読むところからはじめたい。


そんなことを思ったのは、日本語を母語とするぼくにむけて、舞台からずっと英語で詩を語り続ける女優をみたからだ。ゼナ・エドワース――エボニーの肌をもつ彼女はアントニー・シュラブサル演出の『セキュリティー・オブ・ロンドン』で、ずっと詩をしゃべりつづけていた。

とはいえ、詩を読むといっても、シェイクスピアの戯曲のように「弱強五歩格」で朗々とひとつの定型を読むのではない。彼女の口や躯体からは、さまざまなリズムの詩が刻まれていく。警備カメラにおさめられた、ロンドンの下町で生きる人々を、彼女は、ひとりで演じきる。中東系の中年男、カリブ人の少女、孤独な老人、ジャンキーの若者など、人種、世代を超えて演じ分け、彼らのしゃべる言葉のリズムをそこに出現させてみせる。彼女は叫び、さえずり、つぶやき、うめき、言い淀み、歌い、さらにはラップさえ刻んでしまう。

音楽と朗読のあいだで、巧みに揺れ動き続ける彼女の発声を見て、ぼくがまず思いだしたのは、シェーンベルクの『月に憑かれたピエロ』(1912)だ。語るように歌い、歌うように語るこの歌曲集はSprechgezang(シュプレヒゲザング)という叙唱の様式を、本格的に洗練させた作品として記憶されている。Sprechgezang(シュプレヒゲザング)はドイツ語の動詞sprechen(話す)とsingen(歌う)をあわせてつくられた「語り歌い」とでも訳せる様式で、のちにルイジ・ノーノの『力と光の波のように』(1971 - 72)などに受け継がれている。そこでは、音程すら俳優の裁量にゆだねられ、ただリズムだけが重視される。ラップの先駆けというとイメージしやすいだろうか。

『セキュリティー・オブ・ロンドン』でも、いちばん印象深く記憶に残るのは、そのリズムだ。しかも、ひとつではない。女性、男性、老人、若者あらゆる人々のリズムが観客にせり出してくる。そして、ぼくのような、英語を母国語としない人間には、むしろ、リズムしか残らなかったりするのだ。そもそも、ラップというのは同じ言葉をしゃべる人間にすら、聞き取れなかったりする。まして、日本人のぼくが、そのすべてを聞き取れるわけではない。また、後からテクストで、意味を把握することはできる。それでも、たとえば、カリブ人の少女エイリーンのスラングの多い言葉は、すべて把握しきれない。言葉の意味でなく、印象的な彼女のリズムだけがぼくの頭に残る。

しかし、どうもそのような受け取り方をするのは、非英語圏の人間だけではないようだ。ラッパーのエイリーンの言葉は、同じイギリスに住む人間でも、世代が違えば、そうやすやすと通じるものではないらしい。47歳のマフムードは、わたしはMCなの!と言うエイリーンに対し、MCってなんだ、と聞き返す。そしてそれがHIP HOPのMC(microphone controller)だとわかったマフムードは、ラップをやってみせて、とエイリーンに頼むものの、あなたは古すぎてあたしのリリックはわからない、と彼女に返される。そこには、同じ言葉をしゃべっていても、異なるリズムで生活するもの同士の齟齬がみえるだろう。では、そのように異なるリズムで生きる人間のあいだには、たとえば冒頭で隣室のセックスとテクノのリズムを騒音だ、といって苛立つマフムードのように、不信感と不快感しかうまれないのだろうか。そして、そこには『セキュリティー・オブ・ロンドン』という題の通り、互いが互いをヴィデオで監視しあうようなギスギスした関係しかないのだろうか。

そうではない。エイリーンがラップをマフムードの前で実演してみせると、マフムードは不思議な印象をともなって、強い感慨を受ける。彼女の体や、顔、すべてが消え去り、「ある自然のちから(a force of nature)」がそこに出現したように感じたというのだ。ぼくはさっき、エイリーンの言葉は、意味がわからないけど、リズムだけ残るといった。マフムードは、躯体が消えて、「ある自然のちから」が残っているといっている。なにかが消えて、なにかが強烈に残る。これはどういう事態なのだろうか。

フランスの哲学者ジャック・デリダは、詩の翻訳について触れながら次のように言っている。「(マラルメによる翻訳において)ポーの押韻が保持できないのは、もちろんだが、あらゆる階梯で、あらゆるリズムの鼓動(battement)は、可能な支持体あるいは質料的表面がなんであっても、可能なかぎり保存される」。韻律や言葉遊び、音の質感は、違う言葉に翻訳されると失われてしまう。エドガー・アラン・ポー『鐘』の次のようなうつくしい押韻のリズムも外国語に翻訳されたら消えてしまう。「In a happy Runic rhyme,/To the rolling of the bells,/Of the bells, bells, bells - /To the tolling of the bells,/Of the bells, bells, bells, bells,/Bells, bells, bells -」。しかし、にもかかわらず保存されるリズムの鼓動(battement)とはなんだろう。デリダは、詩がapprendre par couer(心臓で学ぶ=暗記する)ものともいっている。紙がない時代から人に言葉を記憶させてきたのは、言葉で心臓(リズム)の鼓動を刻む詩だ。自身を保存する支持体を自身でつくっているといえる。それは「リズム」が同時に「アルゴリズム」でもあることを示しているだろう。ひとつの言語から切り離された詩が、別の言語のなかで忘却をくいとめる言葉の鼓動を自己生成し、翻訳に耐えたとき、「アルゴリズム」としての「リズム」は保存されているということだ。ポー『鐘』を人の心臓に覚えさせる「bells」のリフレインを、マラルメが英語の外で「le glas」「croches」のリフレインに置きなおし、あたかも鐘が繰り返されるような響きをもって、人の心臓に覚えさせることができたとき、それはポーのアルゴリズムをマラルメが受け取ったということなのだ。

詩の翻訳では、もとの言語で、その言葉たちがもっていたコンテクストの大部分が消える代わりに、その言葉たちを忘却から食い止めるアルゴリズムがより生々しく出現する。エイリーンのラップを聞いたマハムード、そしてゼナ・エドワースの詩を聞いてぼくが感じているのは、このアルゴリズムが自分のあたまに、めきめきと根付いていく生々しい体感なのだろう。そして、一度根付いたそれは、なかなか頭からはなれない。マハムードは、エイリーンのラップを聴いてから、逡巡しながらも、彼女への思いをめぐって言葉を旋回させ続けることになる。それは自分と違う言葉のリズムでありながら、隣室の騒音にように消し去りたいものではすでになくなっている。しかし、同質のリズムを共有する人間になったわけでもない(マハムードはダボダボのズボンが大嫌いだという)。いわば異なったリズムで生きる人間に自分のリズムを保存する「翻訳」がおこなわれているのである。それは、人が、セキュリティー社会の相互不信におちいらず、共に生きるための友愛の技術なのだ。


だから、ぼくは、これから日本語を学びはじめる友人に、まず日本語の詩のリズムを伝えたい。そして、それを読み終わった後、たとえばゼナがぼくに残してくれたリズムを思い出しながら、「リズム」という言葉を日本語ではどのようにいえるのか、彼に、そして自分自身に、ゆっくり伝えていきたいと思うのだ。

佐藤雄一 詩人。2006年第45回現代詩手帖賞受賞。『現代詩手帖』『ユリイカ』『ユリシーズ』『映画芸術』などに執筆。近年、ラップ、詩、短歌、俳句なんでもありの野外オープンマイク朗読会「Bottle/Exercise/Cypher」を主催している。 http://d.hatena.ne.jp/CAMPCYPHER/