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病院長屋を経営する医者は、女心と故郷を唄った流行歌を巧みに使い、患者たちをまとめていた。しかし、その業務にも退屈しだした医者は、芝居にも興味を持ち始める。彼は、江戸文化爛熟期の世相をどぎつく描いた鶴屋南北に人間精神の深淵をみいだし、南北の代表作「桜姫東文章」の分析を始めだす。医者はまず、自らの愛人アケミをつかって、6号室の男女に「桜姫東文章」の一場、岩淵庵室の場を演じさせることを思いつく。しかし、稽古を始めてみると、看護婦や他の患者たちにその時間を間断なく中断されるのである。
看護婦たちは、アケミへの嫉妬と、流行歌をつかった医療行為への疑問のために、医者と疎遠になっていく。
医者は自分が人間以外の存在になっていくのではないかと恐怖する。すべての人が寝静まった朝、医者は人間をやめようとしている患者の幻影をみる。そして、その幻影と真面目な日本人になろうと話をするのである。
場面だけの演劇
情報網の進化と整備によって、現代人はさまざまな欲望を刺激されている。というより、次々と新しい欲望を開発されていると言った方がよいかもしれない。この欲望の刺激あるいは生産によって、高度資本主義社会は経済的に活性化する。性産業から外食産業、レジャーからギャンブル、そして数限りない所有することの欲望への刺激。そこには、いままで人類が形づくってきた価値観から見れば、相反する欲望が同在してもいる。生きることと死ぬことへの欲望を、同時に刺激されるように。これらの刺激にいちいち反応するとすれば、われわれの行動は支離滅裂で脈絡もなく、欲望を充足させる場面場面を断片的に生きることになる。これらの行動を必然性あるものとして統一する価値観や倫理観は、すでに失われているからである。昔ながらの価値観や倫理観でこの現代の人間の在り方を分析すれば、われわれは多重人格性とでもいうべき生を送っていることになろう。もしこの多重人格性あるいは欲望の断片化という感覚を嫌悪し、統一感のある人生を送りたいということになれば、身体とそれが行う習慣となった生活行為に依存し、価値を見つける以外に仕方がない。習慣となった生活行為だけは、退屈ながらも、われわれに持続性の感覚を保障してくれるのである。
サミュエル・ベケットは言う。「いずれにしろ確かなことは、こうした状況では時間のたつのがまことに長く、したがって、われわれは暇をつぶすのに、一見合理的に見えるがすでに習慣となっている挙動を行わざるをえない。それは、われわれの理性が沈没するのを妨げるためだと言うかも知れない。しかし、すでに理性は大海原の底深く、永劫の闇の内をさまよっているのではなかろうか。」
鶴屋南北の「桜姫東文章」は、身体のうちに生起する欲望が、生活の場面場面で暴走する姿を描いている。すべての登場人物は多重人格性というものをもっている。桜姫を例にとれば、貴族であり女郎、幼児性と娼婦性という二つの場面が、あたかも自然であるかのように同時に身体で生きられている。もはや「自然とそうなっちゃう」のである。
われわれが現代を生きているときに感ずる生活場面の多様性、それに対応する欲望の断片化は、宗教的信念や国家的目標の設定によって形成されるような価値観や倫理観からみれば、数限りない理解不能な行為を生み出す。各人の生きた場面が共有されていなければ、隣人でも理解不能な人間として立ち現れる。そして他人の行為はすべて、病人か犯罪者のものであるかもしれないという予断すら引き起こす。
わたしはかねがね生活世界のささやかな欲望や観念=幻想が、物語として完結するのではなく、場面場面に断片化して舞い狂うだけの舞台をつくってみたいと考えていた。そこに時代の感性のようなものが反映されると思ったからである。それが上手くいっているかどうか、忌憚のないご意見をきかせていただければ幸いである。
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