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見えないものとの闘い

 イプセンの戯曲を使って、家庭劇をつくってみたいと思っていた。イプセンの中期の代表作といわれるものは、『人形の家』でも『幽霊』でも、一般的には家庭劇とよばれている。むろん家庭劇といっても、最近のテレビドラマに見られるような家族の人間関係のちょっとしたトラブル、それからひきおこされる悲しみや喜びの感情を、人間の大事な真相として描くようなものではない。イプセンの家庭劇は、性というものを基盤として成立する他人である男女の関係としての夫婦、それからまた血縁としての男女である母と息子、そういう人間的結合がどういう見えない制度、ということは歴史的に積み上げられてきた慣習として維持されているのか、その実体と欺瞞性を暴こうとしたものである。

 むろん、性を基盤とした夫婦、あるいは血のつながりをもつ親子を、健全な人間関係の制度として維持させるために、道徳的、倫理的基礎づけを行ったのは宗教であり、イプセンの場合はキリスト教のノルウェー国教会ということになる。個人の感情や生き方を超えて個人を規制する集団的な約束事ともいうべきもの、アルヴィング夫人がいう幽霊、法律や義務をも含んだ制度をいかにとらえ、それとどう闘ったか、それが家庭というシチュエーションのなかで描かれているのである。当然そこには、不幸な家庭生活を味わい、二十数年にわたって諸国を放浪せざるを得なかったイプセンの精神的苦闘が反映されていることは言うまでもない。

 今回の舞台で主要な戯曲として使用した『幽霊』は、発表当時、世間の誹謗中傷を浴び、上演禁止にまでなっている。今読むと、それほどのものかという思いもするが、百年も前の話である。イプセンの思想に共鳴はしないとしても、彼の世間との闘い方がどれほど激しいものであったかは、想像がつかないこともないし、共感するところはある。

 ともかく、イプセンが夫婦あるいは親子という関係のうちに、どんな制度上の歪みを見ていたかということを浮き彫りにするために、横軸として『人形の家』の夫婦、縦軸として『幽霊』の母子、この二つの男女の関係を同時に舞台上に存在させてみた。『幽霊』はほとんど戯曲そのままのセリフを使用したが、『人形の家』の方は若干の書き換えを行った。それは『人形の家』の女主人公が劇作家として『幽霊』を書いているとした構成のためである。『人形の家』の主人公の男女を現代的にしたのは、見えない制度というものとの闘いが、現在の我々にとっても、今いちばん大事なものではないかということを強調したかったからである。闘いに敗れていく女性の姿を借りて、イプセンが伝えたかったものは、現在の我々にも無縁ではない。

 これは前作『別冊谷崎潤一郎』に続く、私の『別冊イプセン』である。

2005年3月 屋内ホール「楕円堂」