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深い井戸の中から
谷崎潤一郎は、耽美的官能的な作家だと一般的には言われている。たしかに彼の作品には、小説であれ戯曲であれ、性を中心とした男女関係の強烈な感覚が漲っている。そういう谷崎作品の芸術的特質に刺激されたところはあるが、しかし私が興味をもちつづけたところは、谷崎の身につけた思考のスタイル、その論理性にある。とくに、日本あるいは日本人というものについて何かを考えようとするとき、谷崎のものの見方や感じ方は無視できないと感じていた。彼が日本人的だからというのではない。むしろ日本人離れしたその論理性に、興味をひかれつづけていたのである。
そういう意味では、谷崎潤一郎が日本や日本人を嫌悪するときの感情や感覚、それに論理的な言葉を与えようとするときの態度に興味をもったと言っていいかもしれない。そして長年にわたってその感情をもちつづけるうちに、彼が芸術家として、以下に引用するような日本人的な自覚にたどりついたところに、共感をおぼえたのである。
「既に日本が西洋文化の線に沿うて歩み出した以上、老人などは置き去りにして勇往邁進するより外に仕方がないが、でもわれわれの皮膚の色が変らない限り、われわれにだけ課せられた損は永久に背負つて行くものと覚悟しなければならぬ。尤も私がかう云ふことを書いた趣意は、何等かの方面、たとへば文学藝術等にその損を補ふ道が残されてゐはしまいかと思ふからである。私は、われわれが既に失ひつゝある陰翳の世界を、せめて文学の領域へでも呼び返してみたい。文学といふ殿堂の檐を深くし、壁を暗くし、見え過ぎるものを闇に押し込め、無用の室内装飾を剥ぎ取つてみたい。それも軒並みとは云はない、一軒ぐらゐさう云ふ家があつてもよからう。まあどう云ふ工合になるか、試しに電燈を消してみることだ。」(『陰翳禮讃』)
グローバリゼーションがもたらした軋轢のために、世界的な規模で正義や大義などということが問題となりつつある昨今である。そして、正義や大義が語られるときには、必ず犯罪というものが論じられざるを得ない。たとえばテロリスト、ビンラディンの論理と、アメリカの大統領ブッシュの論理、どちらを大義あるものとし、どちらを犯罪者とするかは、入射角ひとつでまったく異なった様相をおびてくるのが、われわれが生きている世界である。世界的に起こっているものごとや事件を矮小化するつもりはないが、この二人の立っている基盤は、今回のテクスト『お國と五平』の殺人者友之丞と、同伴者五平をまきこんだ報復者お國の論理的な立場に似ていなくもないのである。男女の性的な関係を扱いながら、奥深く狭い井戸の水面に、世界の真相が映し出されているかのような印象を与えるところが、谷崎の魅力である。
また、戯曲ではないがテクストとして使用した『或る調書の一節』にしても、犯罪者である男の理屈のなかに、親鸞やカソリックの存在理由をも思わせるところがある。「一寸の虫にも五分の魂」という言葉もあるが、屁理屈にも五分の正当性がある、あるいは五分の正当性でも一寸であるかのようにみせられる心情や理屈もある、こんなことをあらためて感じさせられる。むろん、こういう心情や理屈が、世の中を悪くしてきたという見方もあるだろうとは思うが、ここには芸術家というものが、どういう孤独な精神を生きているのかが、犯罪者の姿をかりて描かれている。 二作とも80年以上も前に書かれた作品であるので、今までとは違った演出上の工夫をこらしてみた。谷崎の芸術家としての独自性が、うまく表現されていれば幸いである。
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