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鈴木忠志の『リア王』上演の歴史


 初演は劇団SCOTで、1984年12月、富山県利賀村の合掌造りの劇場「利賀山房」である。この時の公演は、豪雪の中で行われ、来日中の米仏のジャーナリストによって「荒野のリア王」をもじって「吹雪の中のリア王」として欧米にも紹介された。最後の場面で「利賀山房」の奥の扉が開け放たれ、リア王がコーディーリアをかかえて吹雪の中から本舞台まで登場したからである。

 翌年この『リア王』は、夏の利賀フェスティバルで上演されたが、この公演をみたアメリカのプロデューサーが、アメリカで上演することを鈴木忠志に申し込み、88年現行の『リア王』の原型ともいうべき作品が誕生した。このアメリカ版『リア王』は4つの劇団から12人の男優を選抜し、全米各地で147回上演し、8万人に及ぶ観客を動員した。この舞台は、家族の崩壊とそれによって引き起こされる老人の精神的崩壊を浮き彫りにし、当時のアメリカ社会の病原のひとつを鋭くえぐった作品として評価を確立した。

 それ以後演出は細部にいたるまで練り上げられ、毎年日本のみならず、世界各国で鈴木忠志の代表作として上演されている。94年にはロイヤル・シェイクスピア・カンパニーの本拠地ロンドンのバービカン・センターでのシェイクスピア世界演劇祭で上演。また97年には静岡県舞台芸術センターの創立記念の演目として静岡県舞台芸術公園でも上演された。98年4月には、この『リア王』をもとにした細川俊夫作曲、鈴木忠志演出による新作オペラ『リアの物語』が、世界各国から選ばれた歌手たちによってドイツの現代音楽フェスティバル、第6回ミュンヘン・ビエンナーレの初日に上演され、日本のナショナル・オペラの誕生と評された。このオペラ『リアの物語』は、99年第2回シアター・オリンピックス静岡大会で日本初演となった。

 2004年にはチェーホフ記念モスクワ芸術座の定期公演演目に決定した。スズキ・メソッドの訓練を経たロシア人俳優たちが出演し、10月に静岡芸術劇場で初演を向かえ、その後ロシアで定期的に上演されている。

世界は病院である

 世界あるいは地球上は病院で、その中に人間は住んでいるのではないか、私は、この視点から、多くの舞台を作ってきた。ということは、多くの戯曲作家は人間は病人であるという視点から、人間を観察し、理解し、それを戯曲という形式の中に表現してきたのだ、と私がみなしていることになる。戯曲作家の中には、それは困った考えだという人もいるかもしれないが、優れた劇作家の作品はこういう視点からの解釈やその舞台化を拒まないというのが、私の信念になっている。それゆえ、ここ数年の私の演出作品は舞台上のシチュエーションがほとんど病院になっている。それも単なる病院ではなく、精神病院である。

 このシェイクスピアの「リア王」を素材にして演出した舞台も例外ではない。主人公は家族の絆が崩壊し、病院の中で孤独のうちに死を待つしかない男である。その男がどのような過去を生きたのか、その男の回想と幻想という形式をかりて、シェイクスピアの「リア王」を舞台化したのがこの作品である。舞台の進行、あるいは物語の展開をこういう形式にしたのは理由がある。シェイクスピアの描いた作品「リア王」の中から、権力者の孤独感とそれゆえに精神的な平衡、あるいは平静さを失う人間の弱さや、惨めさに焦点をあて、それは時代や民族の生活習慣を越えて普遍的な事実なのだということを強く主張しようとしたためである。つまり、イングランドの王リアという時代と空間において特殊に規定された人がすさまじい孤独と狂気を生きたのではなく、権力者というものが、いつの時代でも、どこの国でも、リア王と同じような孤独と狂気の人生を生きる可能性があることを示そうとした私の演出上の作戦である。そのために、シェイクスピアの原作そのものの一面だけが極度に強調され、私流に編集されている。そのことをして、これはシェイクスピアではないと言われればその通りだが、優れた文学作品がいつもそうであるように、時代や民族のちがいを越えて、人に人生を考えるための糧をあたえつづけたという意味では、その偉大さは十分に敬意が払われたと了解してもらう以外にはないだろう。

 さきほど私は、人間はすべからく病院にいると言った。人は病院である以上、医者や看護婦がいると考えるだろうし、病人の病気は恢復の希望があるだろうと考えるだろう。しかし、世界あるいは地球全体が病院だと見なす視点においては、この考えは成り立たない。看護婦も病人そのものであるかもしれないのである。そして病気をなおしてくれる医者という存在は、存在すらしていないのかもしれない。

 では、医者も看護婦もいないとすれば、だれが病人かすら分からないではないか、という疑問が生ずる。まったくその通りである。しかし、人間は医者や看護婦の存在や助けを借りないでも、自ら率先して自分を含めた人間は病人なのではないかという疑いを持ち続けることはできる。私はこの疑いを持つ人達が、優れた芸術家として存在してきたし、なぜその疑いを持ったのかを公に発表したのが作品と呼ばれるものだと考えている。

 私も私自身が病人ではないかと疑っている。そして、その原因はなにに起因しているかを絶えず考え続けている。その考察あるいは分析の結果のひとつが、シェイクスピアの「リア王」に刺激を受けて作ったこの『リア王』である。

 世界あるいは地球全体が病院である以上、快癒の希望はないかもしれない。しかし、いったい人間はどういう精神上の病気にかかっているのかを解明することは、それが努力として虚しいことになるとしても、やはり現代を芸術家=創造者として生きる人間に課せられた責務だと信じている。

モスクワ芸術座公演『リア王』実現までのこと

 1997年の春、モスクワ芸術座から創立100周年記念式典に出席してスピーチをするようにとの手紙がきた。そこには世界の著名な演出家、その中には欧米のわたしの友人たちもずらりと並んでいたが、かなりの数の人たちを招待していると書かれていた。あまりの意外さに驚いたことを思い出す。モスクワ芸術座は、日常生活世界の人間の心理や感情に演劇性を見るリアリズム演劇の本山であり、わたしが演劇活動を始めた一時期に、全エネルギーをかけて批判してやまなかった日本の現代劇、新劇の規範あるいは先生のような劇団である。それだけではなく、わたしのロシアの友人たちはそのほとんどが、反モスクワ芸術座だった。退屈なリアリズム演劇の本山、国家権力の庇護の下での官僚的な劇場運営、これがわたしの友人たちが等しく口にする評であった。だから、わたしはそれまでに、どんな類いの関係をももっていなかったのである。

 なぜ招待状がわたしにきたのか、はっきりした理由はきかなかったが、ソ連邦崩壊のイメージを乗り越えて、その健在ぶりを世界に喧伝したいのか、あるいはグローバリゼーションの時代の変化にすばやく対応しようとしたためなのか、そんなことを漠然と思いながら出かけてみた。それにわたしは、チェーホフの小説やその生き方に感動し、また彼の戯曲はどんな舞台になるのか、そのプロセスはどのようなものであるのかに強い興味をもち、演劇の世界に足を踏み入れた人間である。そのわたしに、最初に俳優への関心をかきたててくれた書もスタニスラフスキーの「俳優修行」であり、芸術座はこの二人によって世界的になった劇団・劇場であったから、いたずらっぽい里帰りの気分もないではなかった。

 100周年の当日、チェーホフ記念モスクワ芸術座の客席は満席、舞台上には二脚の椅子が置かれていた。それは、もう一人の芸術座の共同創立者ダンチェンコとスタニスラフスキーの二人が、芸術座創立を話し合ったときに座った喫茶店の椅子であった。その椅子に座ったり、その前に立ったりして、世界中から集まった演劇人が朝から夜まで、わたしを含めてそれぞれ勝手なことを喋った。翌日はチェーホフの墓参りをし、その足で郊外のスタニスラフスキーの家に行き、庭に桜の苗木を植えて、それぞれの名札を地面に打ち込み解散した。新しく未来の「桜の園」を造るためだそうである。演劇において世界的だとする自負は、外国人にまでこんなことを当然のことのようにさせるのかと、芸術座にそれほどの好意をもたなかった当時のわたしは、楽しみながらもいささか呆れたのを思い出す。それからまた数年、モスクワ芸術座とはなんの縁もなかった。

 2000年になって、モスクワ芸術座の芸術総監督にタバコフが就任した。彼とは年来の友人であるが、ロシア人ならだれでも知っているこの名優は、ロシアでの公演はもちろんのこと、日本に来たときにも、水戸芸術館や静岡芸術劇場でのわたしの舞台作品はからなず見に来た。その彼が突然わたしに、芸術座で演出してほしいと言ったときには驚いたし、しばらくのあいだ言を左右にして返事はしなかった。前述したとおり、わたしの演劇観が芸術座の人たちに受け入れられるとは思っていなかったし、ロシアの友人たちへの気兼ねもあったのである。

 昨年の春、ロシアが誇る世界演劇祭、チェーホフ祭で日露二ヵ国の俳優による『シラノ・ド・ベルジュラック』を上演した。その折に、再度タバコフから演出の依頼をされたので、わたしは幾つかの条件を出し、彼がそれを全面的に受け入れてくれたので、この『リア王』が実現したのである。

 わたしが申し込んだ芸術上の条件は、タバコフが推薦する芸術座の俳優50名をモスクワでオーディションし、そこから15人の俳優を選抜する。その俳優は日本でわたしの訓練、いわゆるスズキ・メソッドの訓練を2週間行う。そのうえで12名の配役を決定し、6週間にわたり日露双方で稽古をする。その期間中には、俳優にテレビや映画の仕事をさせないこと、また、いったん決定した配役も、12名の枠のなかで稽古途中でも変更を可能とする、というものである。そしてわたしは、これは傍から見ると、モスクワ芸術座内に鈴木派という芸術上のグループが成立することになるかもしれないが、それでもいいのかと言った。タバコフは、それで結構だ、俳優たちに良い刺激になるだろうと言ったのである。芸術座へ新しい風を吹き込みたいというタバコフの決意がうかがえる答えで、わたしは感動した。実際のところ、彼は芸術総監督への就任以来、ソ連邦時代から在籍する怠惰な俳優たちを解雇し、多くの若手演出家に発表の機会を与え、かつ財政的にも新しい時代環境に対応するシステムを整えつつあり、芸術座変革に対するそれなりの自信をもちつつあった。

 今回の『リア王』には、できるだけ若い俳優たちを起用した。ロシア国内で有名な俳優でもずいぶんと落としている。営業的な観点にはとらわれず、新しいことへ挑戦する意欲とエネルギーを感じさせる俳優を選んだ。それがタバコフのわたしへの期待に応える道でもあると思ったからである。もちろん若干の芸術上の心配をしないわけではなかったし、いまだ未熟なところもあるが、この短期間の稽古を思えば、満足を通り越して驚いている。どんなに若い俳優でも、十分な教育がなされていて、足袋をはくようなまったく新しい演技であるにもかかわらず、見事な柔軟性を発揮し、近年こんなに気持ちのよい舞台づくりをしたことがないと思えるほどである。日本では出会えない経験をさせてもらった。

 このすばらしい出会いのために、さまざまな角度からご協力いただいた皆様に、心からお礼を申し上げたい。

■SPAC初演
1997年8月 屋内ホール「楕円堂」 創立記念公演

■モスクワ芸術座初演
2004年10月 静岡芸術劇場