|
酒の神ディオニュソスは、アジアの町々を遍歴し、人々を自らの教えに従わせたのち、その宗教をギリシアの地に広めようとテーバイの町にやってくる。だが、テーバイの王ペンテウスは、ディオニュソスを神と認めようとしない。そこでディオニュソスは、ペンテウスの母親をはじめとしてテーバイの女たちを彼の教えに帰依させ、山に集めてしまう。ペンテウスは、ディオニュソスの教えがテーバイの市民全体に浸透することを恐れ、ディオニュソスを捕らえようとするが、逆にその魔力に魅せられ、ついには彼の案内で山中の女を見に出かけ殺される。母親アガウエは、教団の教えに帰依し、息子殺しに加担したことにおののく。そして、狂信から醒め、ディオニュソスの教えに対する恨みの言葉を口にしながら放浪の旅に出る。
この『ディオニュソス』は、エウリピデスのギリシア悲劇『バッコスの信女』に登場する酒の神であるバッコスの別称をタイトルとしたものである。この作品は、鈴木忠志が岩波ホールの芸術監督であった1978年、『バッコスの信女』として、東京神田の神保町にある岩波ホールで初演された。ディオニュソスが能の故観世寿夫、ペンテウスが白石加代子、カドモスが蔦森皓祐という配役であった。1990年にタイトルが『ディオニュソス』と変更されている。
観世寿夫亡き後、ペンテウスの役はスズキ・メソッドを体現し、現在ブロードウェイ等で活躍中のアメリカ人俳優トム・ヒューイット、アガウエは現在ジュリアード音楽院で鈴木の俳優訓練方法を教えているアメリカ人女優エレン・ローレン等によって演じられているが、今回は新しいキャストによる決定版となっている。
この演出で特徴的なことは原作とは違い、ディオニュソスという神そのものが登場せず、六人の僧侶がディオニュソスそのものであるかのように舞台に登場することである。神とは神を信じる人のことであり、その人たちが、テーバイの王ペンテウスを殺害する。つまり宗教戦争とは、神の名における人間の戦争、集団の正当化の争いであったという視点が導入されている。そしてその文化摩擦ともいうべき歴史的事件の渦中で、罪をきせられた不幸な女性アガウエに焦点があてられている。
1991年、ソ連崩壊直前のモスクワのタガンカ劇場、湾岸戦争直後のニューヨーク・リンカーンセンターで上演され、また1994年にはヨーロッパ最初の屋内劇場であるヴィツェンツァ(イタリア)のテアトロ・オリンピコ、1995年には第1回シアター・オリンピックスのオープニング特別公演としてアテネのアクロポリスの丘にある5000人を収容するヘロディオン劇場で上演された。その他カナダ、コロンビア、チリ、アルゼンチン、トルコ、フランス、香港など世界各国で上演され、現代の文化摩擦とも言うべき現象を反映した作品として常に話題を呼んできた。
物語の誕生
今はただ、忌まわしいキタイロンの山の姿の見えぬところ、奉納の霊杖が悲しい思い出を誘うことのないところへゆきたいと願うのみ。そのようなものは他の信女らが、崇めたければ、勝手に崇めるがよい。 アガウエ
経験を物語へとつくりかえる現象は、人類の生活史上、つねに重要な役割を果たしてきた。物語には、神話や伝説、あるいはおとぎ話などのように、集団のなかでその社会的役割が比較的明白に認識されているものがある。一方、宗教の経典やイデオロギー、あるいは歴史のように、より抽象的な形式で存在しているものも、物語の範疇に加えることができる。つまり、集団が集団として存在するための自己正当化のために、ある共同体に存在する情報や感情を集約したものが物語である。
物語には、個人を共同体へ引き寄せ、共同体の精神的な統合をうながす機能がある。また、共同体に反抗しようとする衝動に対して、構造や形式を与えるのも物語であり、集団的抑圧に対処するひとつの手段ともなる。
人類史を通して、物語はつねに宗教と全体主義政府という形式のなかにその最も力強い表現を見いだしてきた。物語が利用されることで、数え切れない人々が救われ、希望を与えられてきたのだが、物語はそれと同様にたやすく抑圧の道具へと転化しうる。物語は、精神的な鎖によって、それを欲しない個人までをも強制的に集団へと束縛しうるからである。物語には、二つの刃がある。われわれは、個人的にも、また人類全体としても、物語が与えてくれる安らぎや、他者との結合には魅力を感じ、結果としてもたらされる抑圧には抵抗する。
物語が、集団を統合する機能をはたすためには、ある犠牲、贖罪の羊(スケープゴート)が存在しなければならない。共同体がエネルギーをひとつに集中させるには、焦点が必要であり、さらにそこで犠牲になる個人あるいは集団の存在が要請される。エウリピデスの「バッコスの信女」では、個人が物語世界の犠牲になる過程が描かれている。自分が手にしている首が息子のものだと発見するその瞬間、アガウエは、息子と自分が宗教集団の犠牲者であったことをはっきりと自覚する。彼女は、それまでいた世界を去り、その対極にむかう旅に出る。
エウリピデスはディオニュソスを舞台上に登場させ、登場人物のひとりとしてことばを話させたが、私の『ディオニュソス』においては、神のことばは僧侶たちのことばにかえられている。ディオニュソス神は、神それ自体として存在していたのではなく、むしろ他者をまき込むことを必要とする集団に存在し、人々を精神的に統制しようという集団の意志が、『ディオニュソス』という“神=物語"を創造したのだというのが、ここでの解釈である。
ディオニュソスとペンテウスの葛藤は、神と人間との争いではない。宗教集団と政治的権威との論争であり、同じ地平に存在する二つの集団的価値体系がくり広げる闘争のドラマである。
|
|
|
|