あらすじ
ドン・キホーテは自分を物語に登場する騎士だと思い込んで、無理矢理に敵をでっち上げてはやっつけようとする。何ともはた迷惑なヒーローである。この物語の救いは、ヒーローに自分が思っているほどの腕力がないために、大して血を見ずに済んでいる、ということだろう。おかげで、はじめはあっけにとられた「敵」たちも、気を取り直すとあっという間にドン・キホーテを袋だたきにしてしまう。
ラ・マンチャ地方(スペイン中部)の初老の郷士アロンソ・キハーノは騎士道小説を読みすぎて頭がおかしくなり、自分を「遍歴の騎士」だと思い込んで、この世の悪を倒し、正義を広めるために自らの人生を捧げる決意を固める。本物の「騎士」となるため、アロンソはドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャと名を変え、近所の農夫サンチョ・パンサに、いずれ領主にしてやる、という約束をして従者にし、田舎娘を「思い姫」ドゥルシネーアにでっち上げ、年老いた愛馬ロシナンテにまたがって旅に出て行く。
一見のどかなラ・マンチャにも、騎士ドン・キホーテの行くところ、必ず血湧き肉躍る冒険が待っている。旅に出た途端に数十人の巨人(実は風車)に取り囲まれ、突撃を試みるも巨大な腕に跳ね飛ばされ、道行く男からは伝説の黄金の兜(実は床屋の金だらい)を手に入れ、囚われの姫を救うために追っ手のイスラム教徒ども(実は人形劇の人形)をめった切りにする!
見えないものを視る力、強固な妄想を演劇の力に変えて、いま行動するドン・キホーテが立ち上がる。
ミゲル・デ・セルバンテス・サアベドラ (1547〜1616)
セルバンテスの人生は、ふつう我々が想像する作家の経歴とはほど遠いものである。彼の生涯はスペイン無敵艦隊の栄光と落日とに深く結びついている。零落した下級貴族の家に生まれ、22歳で軍人としてイタリアに渡り、地中海の制海権を巡ってキリスト教世界とイスラム教世界が激突したレパントの海戦(1571)に参加、前線で銃弾を浴びて左腕の自由を失う。スペインへの帰途、トルコの海賊に捕らえられ、北アフリカのアルジェで5年間の捕虜生活を経て帰国。小説や戯曲を発表するが注目されず、再び軍に仕官して食料徴発係となるが、無敵艦隊がイギリスとの海戦に敗れ(1588)、職を失う。
カトリックの最大の守護者として世界に覇権を布いた祖国に理想を託し、苦渋に満ちた幻滅を味わったセルバンテスの経験は、やがて現実を突き破るまでの夢想家を描いた『機知に富んだ郷士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』(1605)に結晶することになる。作者が58歳の時に発表されたこの小説はたちまち版を重ね、スペイン語圏のみならず西欧各国で翻訳されて一大ベストセラーとなった。
ちなみにセルバンテスの命日は1616年4月22日(かつては23日とされた)、シェイクスピアの命日は同年同月23日だが、一方がグレゴリオ暦、他方がユリウス暦のため、シェイクスピアの方が12日ほど後に亡くなったことになる。この4月23日はシェイクスピアの誕生日ともされており、それにちなんで「世界本の日」、あるいは愛する人に本を贈る「サン・ジョルディの日」ということになっている。
騎士道物語とドン・キホーテ
「騎士道物語」というのは『アーサー王物語』に代表される中世のヨーロッパで流行したジャンルで、いってみれば『ドラゴンクエスト』の世界である。主人公の騎士は遍歴の旅をしながら、自分が思いをかける美女のために、悪い魔法使いや巨人、ドラゴンに立ち向かっていく。『ドン・キホーテ』はそのパロディーで、序文によれば「これまでの騎士道物語に対する攻撃」のために書かれたという。つまり、この作品は、ヨーロッパがその長い中世に対して決別を告げた書なのである。
中世のヒーローはハムレットのように相手を倒すべきかどうかで延々と悩んだりはしない。騎士が活躍するには明らかな悪者が必要なのである。魔法使いや巨人が出てこない場合には、この敵役はイスラム教徒だったりもする。
この背景には十字軍の歴史がある。本来騎士が果たすべき最大の任務は、美女のハートをつかむことではなく、キリスト教を擁護することであった。これは、レコンキスタ(8世紀から15世紀まで続いたキリスト教徒によるイスラム教徒に対する再征服運動)を通じて常にイスラム教勢力との戦いの最前線にあったスペイン人にとって、非常に馴染みのあるテーマだった。セルバンテス自身も、レパントの海戦でオスマン帝国の海軍と激戦を交わしている。
だが、騎士たちが活躍した十字軍時代(11世紀〜13世紀)と、ドン・キホーテが生きる大航海時代とでは、大きな違いが2つある。火器の普及と海戦の重要性である。ドン・キホーテがスペインの艦船を見学していると、突然アフリカから来た海賊船と戦闘になり、銃撃戦が始まる。だがもちろん大航海時代に主流になっていたこの種の戦いでは、甲冑に身を包んだ騎士など、無用の長物でしかない。
セルバンテスはここで、騎士道物語の世界と16世紀の現実との距離を示す、さらなる「落ち」を用意している。海賊船を率いていたのは、実はスペインを追われたモリスコ(キリスト教に改宗したイスラム教徒)であり、しかも男装した絶世の美女であった、というのである。これはモリスコ追放を進める当時の国家政策に対するセルバンテス一流の皮肉に他ならない。こうして、「名高き騎士」ドン・キホーテは、ようやく本物の美女に出会えても、ただ呆然とたたずむほかないのである。