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 鼻の大きなシラノは、従妹のロクサアヌを愛していたが、彼女は美貌のクリスチャンを愛していた。シラノは自分の想いをロクサアヌに伝えるため、クリスチャンの恋文を代わりに書き、ロクサアヌは、その恋文の素晴らしさにクリスチャンを深く愛するようになる。やがてクリスチャンは、ロクサアヌが愛するのが自分ではなく、シラノの書く恋文であると知り、自ら望んで戦死する。クリスチャンが死んだために、ロクサアヌは尼寺に入る。シラノはロクサアヌを訪ねるが、その際にシラノがクリスチャンの最後の手紙をそらんじているのがわかり、ロクサアヌは自分が愛していたのはシラノだったことを知るのだが……。

かけがえのないミスマッチへの試み

   『シラノ・ド・ベルジュラック』と『椿姫』は、舞台芸術の世界で、日本人に親しまれたフランスが生んだ二大純愛物語と言ってよい。むろん『椿姫』の方は、イタリア人作曲家ヴェルディの手によって、オペラとして広く愛されるようになったものだが、この二つの物語に共通なことは、主人公が普通の社会人とはひと味ちがった境遇を生きていて、その純愛がついに成就されないまま終わることにある。一人は、文武両道に優れながら、醜い顔かたちからくる劣等感の故に、もう一人は、知性と美貌に恵まれながら、娼婦という職業からくる人間関係の故に、共に自由を生きることができなかったところにある。この物語の二人の主人公を、日本人はフランス人と同じように愛しつづけてきた。それは一時代前の日本人が、人間関係において精神的な不自由を感じ、あるいは劣等感に悩まされながら生きていた証なのかもしれない。しかし、実在の人物をモデルにしたと言われるこの物語は、たわいのないおとぎ話のようなところもある。こういう純愛物語を想像し、創造する人間はどういう人であるのか、はたまたその想像し、創造された物語に、想いを寄せる心情とはどんなものであったのか、そんなことを考えながら、今回の『シラノ・ド・ベルジュラック』を演出してみた。

 私は、眼に触れた戯曲作品に感動したとき、それを舞台化してみようと思うことはない。たいていの演出家はそうかもしれないが、私の場合はいささか異なる。なぜこんな作品が書かれたのかという疑問を前提として、その作家の精神状態に想いを誘われたとき、その戯曲作品を舞台化しようという衝動がおこってくるのである。感動ではなく、疑問を前提とすること、その疑問の解明の道筋が、私の演出行為だと言ってよい。だから、今回の舞台では、この『シラノ・ド・ベルジュラック』という作品は、どこまでが作家エドモン・ロスタンの体験であり、どこからが想像であるのか、あるいはどれくらいモデルとした実在の人物が演劇的形式の裡で変形されているのか、あれこれと考えて稽古をしているうちに、ロクサアヌとクリスチャンを実在の人物にするのではなく、主人公シラノの幻想として舞台化するのが良いという結論にいたった。そうすれば当然のことながら、この二人の人物と奇妙な三角関係を構成するシラノという人物も、もう一人のシラノという人物の幻想になる。そして、この三角関係を幻想するもう一人のシラノを日本人とするということにしたのである。それがこの舞台の主人公喬三である。そして、物語はフランス的、音楽はイタリア的、背景や演技は日本的といった組み合わせによって、舞台化を試みてみた。思えば日本人は明治維新以来、西洋文化に憧れすぎたために自らの居場所を見失い、虚しいミスマッチともいうべき文化活動をつづけてきた。そのミスマッチを、もうそろそろ偉大でかけがえのないミスマッチにして、世界共通の財産にしなければならないというのが、舞台芸術家としての私の仕事でもあると思っている。

1999年4月 野外劇場 「有度」第2回シアター・オリンピックス