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テーバイの王オイディプスは、疫病に襲われた国を守ろうと、アポロンの神託を聞くために后イオカステの弟クレオンをデルポイの神殿に遣わす。国を救うためには先王ライオスの殺害者を追放するか死罪にせよという神託を得て、オイディプスは直ちに殺害者の探索を命じるが、過去を追及するうちに、ライオスを殺したのはオイディプス自身であり、しかも自分はライオスの息子で、母とは知らずにイオカステを后にしていたという事実を知る。絶望のなかでオイディプスは自らの目を突いて盲目となり、放浪の旅に出る。
記憶の不安〜ドイツ版上演までのこと〜
2001年の春、ロシアのモスクワで第三回シアター・オリンピックスが開催された。これはアメリカのロバート・ウィルソン、ドイツのハイナー・ミュラー、ロシアのユーリー・リュビーモフなどと共に私が創設した演劇祭である。第一回はアテネ、第二回は静岡で、第四回は今年イスタンブールで開催された。このモスクワでの演劇祭の期間中にドイツのデュッセルドルフ市立劇場の芸術総監督アンナ・パドラーの訪問を受けた。その用件は、デュッセルドルフの巨大な廃工場を劇場に改装し、4人の演出家によるギリシア悲劇の連続上演をしたいというものであった。パドラーと私以外の二人の演出家はモスクワのメイエルホリド・シアター・センターの芸術総監督ヴァレリイ・フォーキンとシアター・オリンピックス国際委員会の委員長であるテオドロス・テルゾプロスであった。この段階では私はこの申し込みを断り帰国した。ドイツ語の分からない私は、ドイツ人の俳優とスタッフだけでギリシア悲劇を上演する勇気はなかった。
しかし帰国するとすぐ、テルゾプロスとギリシアの当時の文化大臣ヴェニゼロスから、この計画にはギリシア政府も関わっており、あなたの参加は絶対に必要だという手紙が来た。そこには、テーバイの王家にまつわるギリシア悲劇、バッコスの信女、オイディプス王、テーバイ攻めの七将、アンティゴネーの四作品をエピダウロスで一挙に上演することはギリシアにとってたいへん意義深いことだと書かれていた。ドイツの演劇界にはそれほどの義理はないのだが、ギリシアの演劇人や文化関係者にはそれなりに世話になっている。それにアテネのヘロディオンやデルフィの古代競技場では何度も私の作品は上演されているが、古代ギリシアの劇場様式が純粋に維持され、かつ一万人収容の大劇場であるエピダウロスは初めてである。私の冒険心は刺激され、演出を引き受けることになったのである。だから、初演はドイツの劇場であるが、演出はエピダウロスの空間を想定して創られている。ドイツ初演の演出ノートから一部を抜粋しておきたい。
一人の男がキャンバスに描かれた地球の上をさまよっている。人類の経験した過去の記憶が、男に乗り移り動き始める。地球は精神病院か刑務所のようである。
歴史とは記憶の大海である。我々は通常、その表面しか見ることはできないが、時として深海からグロテスクな事実が浮かびあがる。そして、今は亡き我々の祖先が、何に苦しみ、何と戦ったかを我々に指し示す。それはこの事実が示す問題はいまだ解決してはいない、忘れられるべきではない、絶えず確認し、さらに戦えと言っているようである。
過去の記憶を上手に思い出し、そこに現代を生きる我々自身の問題を発見し、二十一世紀を人類が生き延びるために戦え、ギリシア悲劇以来の演劇の歴史はそう語りかけているようにみえる。
この舞台の俳優は常に円に居り、動いていく。それは、オイディプスが真実を求めて、決して解決することのできない葛藤を背負い、生きていることを視覚化するためである。円は永遠、終わりのない時間と苦悩を象徴している。円を描く動き、これは今回の作品の特徴である。
闘う精神の軌跡-オイディプス
日本の古い伝統演劇である能と古代に上演されたギリシャ悲劇とには、類似性があるといわれる。舞台の構成上からみると確かにそのとおりである。両方とも仮面劇で、地謡とコーラスのように集団で動き、言葉を発する役者群がいたり、また多くの登場人物がいても、一人から三人までの役者で演じることを原則としているところなどである。一人の役者が二つ三つの異なった人物を演じることができるのも、仮面劇であるゆえだが、能とギリシャ悲劇が一番似ているところは、歴史上で有名な一族の主人公たちが、非業の最期を遂げていて、その功績を称揚したり、その霊を慰めたり、はたまたその人たちの人生の顛末から、悠久の自然の前にはいかに人間というものがはかなく、小さい存在であるかということを直視し、かつそれを表現しているところにある。
しかし、そうはいっても戯曲作品だけに限れば決定的に異なるところがある。能は悠久の時間や自然の摂理に対して人間の情念の虚しさのほうを描いている趣きがあるが、ギリシャ悲劇のほうは、それと闘う精神力の強さのほうに力点を置いている。むろん闘うといっても、いずれにしろその闘いは敗れることには違いはないのだが、敗れる寸前までその敗れ方をしっかりと見つめようとする意志と知力のようなものが、ギリシャ悲劇の主人公のほうには漲っているのである。過去を回想して思い出に耽ってみたり、自分の不幸を嘆いたりするのではなく、今現在、自分が立たされている危機的な状況をはっきりと自覚し、それにどう対処するかという判断をめぐって心のドラマがおこっている。特にオイディプスは、そのことが大変はっきりとしていて、自分が犯罪者であるかもしれないという不安が生じると、峻厳な検事のようになって、自分自身の過去を追及していくのである。
実際のところ、私たちの日常を振り返ってみても、自分の立っている社会的基盤や自分を取り囲んでいる環境が永続するとは信じることはできない。また、人間関係にしても、親族を含めてさえ平和的調和的な関係が維持され続けるなどと、誰も信じてはいまい。過去をくまなく点検してみれば、おぞましい記憶や、自分の生活が平穏に推移していることへの不思議を感じることもあるだろう。今現在の平穏も、天変地異や自己の過失や他人の裏切りや病気や経済的な不安定によって、いつ変化し、人生の虚しさと無常を思い知らされるかもしれないのである。むろんそういう不安があるから多くの人々は、一時の慰みだけではなく、宗教的熱狂や他人との争いや金銭の獲得に人生の多くの時間を割くのであろうが、ともかく自分の人生や存在は自分だけが決めているのではなく、何か自分を超えたものによって決められつつあるということがわかったとき、人は不安になり、それぞれに行動する。気力に優れたオイディプスは、その不安を解消しようと自分の過去を探索し、その過去をすべて知ったときに、両の眼を針で刺し、盲目になって生きざるをえなかった。ここには、人間の生き方の一つの極限のようなものが描かれているが、それが二千五百年も前に書かれていることには驚く。これは古代ギリシャ国家の文化的な力量を示す以外の何ものでもないが、こういう戯曲に触れると、人間には謙虚で冷静に接しなければならないとあらためて思う。
人知を超えた運命に呪われた一族の没落が、現代の日本人の心にも身近に感じられるものになっていれば幸いである。
2000年6月 野外劇場「有度」 Shizuoka春の芸術祭(日本版)
2005年5月 静岡芸術劇場 Shizuoka春の芸術祭(ドイツ版)
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