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エレクトラの父アガメムノンは、トロイアとの戦争から帰還するが、その妻クリテムネストラと愛人アイギストスに殺害される。クリテムネストラとアイギストスは、息子オレステスを他国へ追放し、娘エレクトラを虐待する。父への復讐の想いを弟オレステスにたくし、その帰りを待ちわびるエレクトラと、オレステスの帰りを怖れ、おびえるクリテムネストラ。一方、エレクトラの妹クリソテミスは、結婚し、子供を生むことを願っている。そして、エレクトラが待ち望んでいた弟オレステスは・・・・・・。それぞれの想いにとりつかれ、狂気におちいっている家族の様相が、病院を舞台に繰り広げられる。
世界は病院である。
世界あるいは地球上は病院で、その中に人間は住んでいるのではないか、私はこの視点から、私のすべての舞台を創ってきた。ということは、すべての戯曲作家は人間は病人であるという視点から、人間を観察し、理解し、それを戯曲という形式の中に表現してきたのだと、私が見なしていることになる。戯曲作家の中には、それは困った考えだという人がいるかもしれないが、優れた劇作家の作品はこういう視点からの解釈やその舞台化を拒まないというのが、私の信念になっている。それゆえ、私の演出作品のいくつかは舞台上のシチュエーションが病院になっている。それも単なる病院ではなく、精神病院である。
このエレクトラの舞台も例外ではない。主人公のエレクトラは家族の絆が崩壊し、病院の中で言葉を失い、孤独のうちに生きている。そして、自分をこういう境遇に陥れた母親への復讐を夢想している。その夢想は、もはや復讐への欲求が実現しないことによって生み出されているから、激しく暗い情念に彩られている。その夢想を、日本の舞台演出の伝統的手法を生かしながら視覚的、聴覚的にしてみたのがこの舞台である。語る人、踊る人、奏でる人、それらがそれぞれの関係を保ちながら一体となる。そして全員が演じる人になって、非日常的な空間を創りだすのが、日本の伝統的舞台芸術のすばらしいところである。この遺産をただ日本の過去として愛でるのではなく、世界の演劇の現在に生かしていくこと、それを試みてみた。
さきほど私は、人間はすべからく病院にいると言った。人は病院である以上、医者や看護婦がいると考えるだろうし、病人の病気は回復の希望があるだろうと考えるだろう。しかし、世界あるいは地球全体が病院だと見なす視点においては、この考えは成り立たない。看護婦も病人そのものであるかもしれないのである。そして病気をなおしてくれる医者という存在は、存在すらしていないかもしれないのである。
では、医者も看護婦もいないとすれば、誰が病人かすら分からないではないか、という疑問が生ずる。まったくその通りである。しかし人間は、医者や看護婦の存在や助けを借りないでも、自ら率先して自分を含めた人間は病人なのではないかという疑いを持ち続けることはできる。私はこの疑いを持つ人達が、優れた芸術家として存在してきたし、なぜその疑いを持ったのかを公に発表したのが作品と呼ばれるものだと考えている。
世界あるいは地球全体が病院である以上、快癒の希望はないかもしれない。しかし、いったい人間はどういう精神上の病気にかかっているのかを解明することは、それが努力として虚しいことになるとしても、やはり現代を芸術家<創造者>として生きる人間に課せられた責務だと信じている。
この舞台のほとんどの登場人物が車椅子にのっているのは、身体的障害をもっているという意味ではなく、以上に述べたように、すべての登場人物が精神的な障害をもっていること、自分自身の精神的な力によって自立して生きることができないことのシンボルである。私は、何年か前にドイツで車椅子にのった身体障害者たちのダンスを目撃したことがある。車椅子を自由に動かし、さまざまな面白い動きを創り出し、楽しんでいる姿に感動した。私も病院で何日か車椅子にのった生活をしたことがあったが、そのときの私には、車椅子はただ歩くことの代用物でしかなかったから、この光景をみてまったく違う世界があるのだということを感じた。その世界の身体感覚を体験してみたいという思いも舞台で車椅子を使用しだしたきっかけである。
2001年5月 野外劇場「有度」 Shizuoka春の芸術祭
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