SPAC芸術総監督 宮城聰ロングインタビュー

演出家・宮城聰が切り拓く、千年先の演劇史 〜「詩の復権」と「弱い演劇」について〜

SPAC芸術総監督 宮城聰は、2011年の演出作『グリム童話〜少女と悪魔と風車小屋〜』より「詩の復権」を掲げ、自身の演出史における新たな挑戦を始めています。この試みの続編となる『グリム童話〜本物のフィアンセ〜』の初日があけた2012年2月、演出家が「詩の復権」に込めた芸術観と世界観を語りました。“宮城演出の現在”がビビッドに伝わるとともに、新境地に秘められた壮大なスケールが浮かび上がります。
聞き手/テキスト:西川泰功(2012年2月17日)

―『グリム童話〜少女と悪魔と風車小屋〜』(2011)の稽古開始の時期に「詩の復権」という言葉が宮城さんから出てきました。また『グリム童話〜本物のフィアンセ〜』(2012)では「弱い演劇」という新たな概念も生まれています。今日は「詩の復権」と「弱い演劇」を中心にお話をお聞きしたいと思います。
 「詩」と言うとき、一般的に次の2つの意味で使うのではないかと思います。1つは言語芸術のジャンルとしての詩です。2つ目はポエジーだと思います。「詩的だ」というときの「詩」です。詩情と言ってもいい。戯曲という観点からはどちらも含むでしょう。しかし「詩の復権」は、過去に宮城さんのお話を聞いた限りでは、どちらでもあるようで、どちらでもないのではないか、と思えてきます。宮城さんの言う、舞台における「詩」とは何なのでしょうか?

宮城聰(以下、宮城):世の中で流通している言葉の大半は、道具としての言葉だと思います。目的や欲望の道具としての言葉です。法律や契約もそういうものでしょう。ぼくが言っている「詩」は「道具ではない言葉」のことです。人は目的や欲望を持って道具として言葉を使う、そういう言葉ではない言葉です。それは何かと言えば、「天から降ってくる」という言い方ができるでしょう。聖書の言葉で言えば、「神の口から出た」ということ。ぼくが稽古でよく使う例は、「ノアよ、舟をつくれ」という言葉。ノアにとっては、自分に目的や欲望があってこの言葉を思いついたわけではない。これを「欲望だ」と思うのは近代人です。近代人は何でも欲望の奴隷にしてしまう。そうではなく、言葉には人間のコントロールを超えたところで、突然どこかから降ってくるという側面がある。そう考えなければ理解できない言葉があります。「ノアよ、舟をつくれ」という言葉が上から降りてきたときに、ノアはその意味を先に知っているわけではない。意味を知っていて言葉を思いつくわけではなく、言葉そのものが降りてくる。古代人で言えば、字が読める人は少ないですから、「聞こえた」という言い方になります。しかし聞こえた時点でも意味はわからない。もちろん「舟」という言葉の意味は知っているでしょう。ですが「舟をつくれ」という言葉の意味は聞こえた時点ではわかっていない。「ウーウーウーウー(言葉が降りてくる擬音)」と聞こえる。ぼくらにしてみれば、文字が書かれた紙がひらひらと落ちてきて、それを取ると、ローマ字で「NOA YO FUNE WO TSUKURE」と書いてあるようなもの。パッとみても意味が了解できない。そこで声に出して言ってみる。言ってみると、あらためて自分でその言葉を聞く。このとき初めて聞こえた言葉の意味がわかる。そして、初めて言ったときに、もしそこに観客がいれば、彼らも全く同時に聞くわけです。ぼくの頭にある時点では、短冊に書かれた言葉を目で認識したにとどまっている。声に出す時点で、自分と同時に観客が聞くことになる。俳優にとっての「詩」はこういうものです。

 もちろんその言葉はひとまずペンの先で書かれたものかもしれない。例えばシェイクスピアが。とはいえシェイクスピアも、彼の欲望が「ここでおもしろがらせて、ここでがっかりさせて、ここでどんでん返しを…」と、工具を取り替えるように言葉を置いていったわけではないでしょう。その時、彼が「蛇口」になって書いていく。そんなことが起こっているから、彼の戯曲が普遍性を持ったのだろうとぼくは思います。そうでなければ、彼の個人的な事情の枠内に矮小化されていたでしょう。ほとんどの戯曲がそうであるように、その時代を超えて生き延びはしなかったでしょう。その時代の観客がおもしろいと思っても、後の観客や別の国の観客にとってはおもしろくない。シェイクスピアの場合はそうではない。それは、彼が「蛇口」になって、時間や空間の制約を超えた何かを戯曲に記したからだろうと思います。モーセの十戒などもそういうものだろうと思います。

 こういう言葉が今日も書かれ得るのかということについては、色々な考え方があるでしょう。「もう書かれ得ない」と言う人もいるかもしれない。オリヴィエ・ピィのように「書かれ得るかわからないけれども、書いてみたい」と思う人もいる。オリヴィエ・ピィの戯曲には、「人間の奴隷ではなく、自律した生命体としての言葉」がある気がしています。そこで彼の戯曲を演出しているのです。

『グリム童話〜本物のフィアンセ〜』より

 舞台上で俳優がしゃべる言葉も、多くの場合、俳優の何らかの目的や欲望を実現させるための道具として語られています。単純に言えば、「相手を変えたい」「相手に影響を与えたい」という目的です。「観客という相手に対して、自分に対する愛情を持たせたい」といった欲望を持って、その道具としてロミオの台詞を言う。そういうことが大半なのではないか。それはもともとはシェイクスピアが書いた「詩」かもしれませんが、舞台上で語られる時点で、ぼくの分類で言えば「詩」ではなくなっている。人が自分の欲望の奴隷として言葉を使っているからです。もとが聖書であろうが、モーセの十戒であろうが、そのようなものとして口から出している以上は「詩」ではありません。