SPAC芸術総監督 宮城聰ロングインタビュー

「弱い演劇」とは

―実際に、俳優に「詩」として話さなければならないという制約を課して演出されているということでしょうか?

宮城:どういう方法をとるかを考えたときに、「弱い演劇」が出てきました。欲望の奴隷にするのは、言葉ばかりのことではない。俳優はまた肉体も、欲望を実現させるための道具として使っています。例えば、相手を殺そうと思って刀を振る。正宗の刀がいくら欲望とは何の関係もなく美を主張する自律した存在であっても、人を殺すための道具として使えば、ぼくの言う「詩」ではなくなる。正宗の刀はただ置かれていれば、ある意味で「詩」かもしれない。けれども人間の奴隷になった途端に「詩」ではなくなる。同じように、俳優は言葉と肉体を欲望の奴隷として使っています。「いかに道具として上手に使いこなせるか」を競っていると言ってもいい。俳優のテクニックは、自分の体と言葉を、いかに自分の欲望の奴隷にできるか、完璧に奴隷化しているかにあります。

 これは、ぼくが考えるところの「男の演劇」です。一言で言えば、相手への影響を極大化するための方法です。相手にどれだけ大きい影響を与えうるかを極大化するために磨かれてきたものです。それは、より確実に相手を殺そうとしたために、剣道が研ぎ澄まされたのと似ています。確かに剣道には、技芸として人間の体に対する深い洞察が含まれています。しかし根本的に、いかに確実に相手を殺すか、その目的のもとに発達したのが剣道です。人を殺すために、自分の体の普通はみえないところまで、深くみていった。深さはありますが、相手を殺すという影響を極大化したいという欲望のもとに発達してきた技芸だと言える。剣道ばかりではなく、多くの演劇もそういった発達をしています。相手に対してより影響を与える確実さ、その度合いを、なるべく増やすように、その技芸が発達してきたのです。

 「相手に対してどれだけ影響を与えられるか」という欲望は、他者や世界を完全に把握したいという男性的な欲望だと思います。もちろん女性だって「自分を愛してもらいたい」といった欲望を持つでしょう。しかし女性の場合は、体に子どもを産む機構を持っているために、完全にコントロールしきれない自然の手強さに気づきやすい面があると思います。自分の体が自分のコントロールの外にあるという自覚を持ちやすい。男性の場合は、体を鍛えたり、修行したりすれば、自分の体も完璧にコントロールできるのではないかという幻想をなかなか捨てられない。人間の体は、自然が45億年もかけてつくったものです。これを完璧にコントロールできるという虚妄は、自然を完璧にコントロールできるという虚妄とぴったりくっつく。雨を降らしたければ降らせられるし、雲を消したければ消すことができる、となってくる。オリンピックの開会式で雨が降ると困るから、ロケットを打ち込んで雲を蹴散らしておこうと考えたりする。これを「男性的な欲望」と言うなら、演劇は「男性的な欲望」のもとに発達してきた。「自然、他者を完璧にコントロールしたい、支配下に置きたい」という欲望のもとに研ぎ澄まされてきたのが、2500年間の演劇の歴史だろうと思います。

 民俗芸能で演劇とされているもの、例えばバリ島の儀礼のなかには、むしろ自然への畏れ、自然がいかにコントロール不能かということを感じるためのものもあると思います。通常は、そういうものが洗練されていき、みる者に確実にこういう感興を与えるようにと発達する。アジアの民俗芸能も、そこで使われている身体コントロールの技術の方が着目されて、テクニックが抽出されます。ヨーロッパにはあまりこういう技術の蓄積がなかったということで、アジアの演劇がその身体テクニックにおいて注目されたりしました。こういう意味で言えば、日本の能も間違いなく男性的な演劇でしょう。実際に男がやっていたわけですが、「完璧に自分の体をコントロールし得るはずだ」と考えられています。「これが完璧になれば、自分が目指した影響を観客に着実に与えられるはずだ」と。一生涯そこには行かないかもしれないけれど、「あり得るはずだ」というゴールとして設定されています。

 これをそろそろ卒業したいというのがぼくの気持ちです。それでは何ができるのか。それは「言葉に徹底的に謙虚になること」と「自然はコントロール可能だという虚妄を捨てること」です。この2つがぼくのなかではくっついています。自分の欲望や目的の道具として、いかに巧みに言葉を使うかという観点から脱却して、言葉を自分が抗うことのできないものと捉える。まさに「雨」です。言った途端に、俳優と観客を濡らしてしまう「雨」です。それは意図して濡れるわけではない。「こういう気分になりたい」とか「観客をこういう状態に持っていきたい」という意図ではない。「騙る(かたる)」という言葉の意味通り、観客を「騙す」という目的のもとに語られるわけではない。思わず濡れてしまうこと。濡れた後、どういうふうになるかは予想していない。予想できていない。この言葉の言い方と、自然や自分の体に対して徹底的に謙虚になること。つまり、自分の体を一分たりとも自分の意志の奴隷にしないということです。

『グリム童話〜本物のフィアンセ〜』より

 これは極めて難しい。ぼくが今しゃべっているのも、自分の意志の奴隷として口が動いてくれるからです。意志の奴隷ではない体のありようは存在し得るのかという話にもなります。しかし、もうちょっと現実的に考えると、存在し得ると思います。「もうちょっと現実的」というのは、「俳優として」ということです。例えば、まばたきをする。まばたきを意図してやる。しかしまばたきをしたからといって、体の他の部分をまばたきのために動員するわけではない。まばたきをするために手に力を入れるとか、足の筋肉を使うといったことはしていない。まばたき自体は意志としてやっていても、体の他のパーツを意志の奴隷にしないで済んでいる。言葉をしゃべることが、もしまばたきをするようにやれるならばどうだろう。言葉をしゃべるために使っている筋肉がないわけではない。だけどミニマムで済む。まばたきをするように言葉を言えるようになれば、他の部分は自主独立し得る。このとき、体のパーツごとが勝手に生きているという状態に解き放たれているはずではないか。体のほとんどの部分は自律して勝手に生きている小さな生き物たちである。ぼくという人間の形をした瓶のなかにたくさんの小さな生き物たちが詰まっている。人間の形はしているが、それぞれのところで勝手に住んでいる。

 ぼくらは普通、それぞれの生き物たちを1つの命令系統につないでしまうわけです。「勝手なことをするなよ」と。軍隊のように。「こっちに行きたい」と思ったときに、「お前はその通りにしろよ」「肘も肩も小指も勝手なことをするなよ」と、全ての生き物たちに1本の綱をつける。東洋で言えば、丹田(たんでん)から1本のロープによって、体中の全ての生き物を1つの命令系統に従わせる。これが最も効率よく自分の意志を実現させる方法です。これこそ体を奴隷にしているということであって、しかも「奴隷にし得る」という前提で考えられている。「自分の体に対して謙虚さを持っていない」「自分の体を他者としてリスペクトしていない」とも言えます。体をみくびっている。こういう了見で言葉を扱えば、いかに言葉を頂戴するように言おうが、結局のところ、「この言葉を言えばこういう影響を人に与えられる」という欲望の奴隷としての言葉のポジションからは飛躍できない。観客の側から言えば、「いかに自分に上手に影響を与えてくれるか」を俳優に対して求め、満足するわけです。「この俳優はうまいこと自分に影響を与えてくれたぞ」と。それを「いい演技」と思うのでしょう。

 しかしぼくが言っているのはそういうことではないのです。言葉は、俳優の目的や欲望とは無関係に、上から降ってきて、思わず濡らしてしまうものです。「俳優がこうしてくれた」とか「俳優が目指したことが起こった」とかいう話ではない。俳優も濡れてしまってびっくりしているのです。「言葉を発したことでこんなことになるとは思いも寄らなかった」と。そして観客もそうなっている。これがぼくが言っている「詩」というものです。

―『グリム童話〜本物のフィアンセ〜』では、俳優たちが重心を不安定にしたり、言葉に影響力を持たせないように気を使って発したりしている、という印象を持ちました。「弱い演劇」は、降って来る「詩」を実現するための方法と考えていいのでしょうか?

『グリム童話〜本物のフィアンセ〜』より

宮城:「弱い演劇」は「詩の復権」と不可分だと思います。自分の体をいかに完璧にコントロールできるか、それを競ってきたのが今日までの演劇です。2500年の歴史があります。東洋では身体のコントロール技法として発達してきたし、西洋では言葉をどうしゃべるかというふうに発達してきた面があると思います。どちらにしても、体や言葉を意志の道具として使っている。道具として使う前提として、「完璧にコントロールし得るはずだ」という思い上がりがある。その思い上がりを捨てること、言葉に徹底的に謙虚になることは、自分の体にも徹底的に謙虚になることです。別の言い方をすれば、最も脆いものとして自分の体を扱うことです。思わず奴隷にしてしまうのは、自分の体に対して「このくらいこいつにやらせても大丈夫だ」と思っているからなんです。例えば、ぼくが誰かに腹を立てる。その人はぼくが腹を立てていることに気がつかないとする。ぼくは「ふざけるな!」と大きな声を出す。この大きな声を出すために自分の体に負荷がかかるわけです。「あいつに何か言ってやりたい」という欲望が湧いたときに、大きな声を出し得るのは「自分の体にそのくらいやらせても大丈夫だ」と思っているからです。そういったおごりを一切捨てようと思えば、「もしかすると自分の体がこの世で最も脆いかもしれない」と考えることになる。「風が吹いただけでも火傷する」「息がかかっただけでも傷口が血を吹き出す」といったような。そう考えれば、仮に「この野郎!」と思っても、いきなり大声は出せない。たどたどしく小さい声で「ちょっとその言い方はないんじゃない…」という感じになる。これ以上ないくらい尊重しようとすれば、結果的に、これ以上ないくらいデリケートなものと考えるしかない。強いものだと思って尊重しようとしても、いざというときに「このくらいいいだろう」と思ってやらせてしまう。だから思わず声が大きくなったりする。それならば、ともかく「自分の体はこの上もなく脆いものかもしれない」と考える。「もしかしたら息が吹きかかっただけで血を吹き出すかもしれない」と思っておけば、自分の欲望や意志がどう動こうが、「こいつには今声を出している以上の仕事はさせられない」ということになる。これがぼくが言っている「弱い演劇」です。方法と言ってもいいですが、それ自体が、「言葉に対して尊大にならない」ということとほぼイコールだと思っています。

―「弱い演劇」は方法であると同時に、宮城さんの世界観が一緒になったものということでしょうか?

宮城:そうですね。「弱い」というのは、自分の体をこの上もなく弱いものとして捉えること。そうすると、これまでの演劇のように、相手に対する影響の極大化を目指すことの反対になります。「相手に対する影響力を極大化する」というのは、これまで芸術を評価するものさしになっていた「強度」と言われるものです。「強度がある」方がいいことだと考えられてきました。しかしなぜ「強い」「強度がある」方がいいのか。それは「強い」方が相手により影響を与え得るからです。その「強さ」に色々な種類があったのです。龍安寺の石庭のような「強さ」もあれば、松尾芭蕉の俳句のような「強さ」もある。アラビアンナイトのような「強さ」もある。日本では、要素を切り詰めることによって「強さ」を出したりします。手法はヨーロッパと違いますが、結果として、要素を減らした方が、相手に対する影響が的確で「強く」なるという目的意識がある。これが東洋も西洋も「強度」という言葉で芸術を測れるようになってしまった根本的な考え方だと思います。

 ぼくはそうではないと思うのです。俳優は、観客に「影響を与えたい」という欲望を持っている存在ではなく、むしろ上から落ちてきた言葉になされるがままいたぶられる存在です。そのことをさらけ出している存在。これが他の人にはできずに俳優にできる仕事だと考えています。生贄です。これは「強さ」を求めてきた芸術の歴史とは全く異なるベクトルを持っているから、「弱い」という単語を使っているのです。「強度」というものさしを当てない。「強度があるからいい芸術だ」というものさしを持ち込まない。そこでひとまず「弱い」という言い方にしているわけです。