SPAC芸術総監督 宮城聰ロングインタビュー

「自分を完璧にコントロールしたい」という欲望を放棄する。

―今までの宮城さんの演出作品では、むしろ「騙り(かたり)」、言葉の影響力を追求してこられたという印象を持っています。今、その真逆のことをやろうとしているということかと思います。何か世界観が変わるようなことがあったのでしょうか?

『王女メデイア』より

宮城:ぼくが演出した『王女メデイア』(1999)でも、「2500年間の男性原理をそろそろ終わりにしないと人間に未来はない」「地球という母体を滅ぼして人間も滅んでしまう」と訴えてはいました。しかし、ぼくがあの作品をつくりながら不思議に感じていたのは、そういうことをアピールする技術としては「強さ」を使っているということです。これはどういうことなんだろうと。ついこの間までは、仕方がないと思っていました。「演劇は弱者の側に立たなければいけない。しかし、強くなければできない」と考えていたのです。「芸術はこの世界で発言力を封じられてしまう弱い側から物をみることができる、弱い側の見方を人々に提示することができる、それが芸術のいいところだ。しかし、それをつくる本人は強くなければできない」、数年前までそう思っていた。けれど、これにはどこか詭弁のような、一貫していない感じを持っていました。「男は強くなければ生きていけない。優しくなければ生きている意味がない。」というレイモンド・チャンドラーのハードボイルド小説のレトリックのような気もしてくる。「事実はそうだったじゃないか」とは言える。とはいえ「本当に弱い者の側から物を見るためには、弱い者として舞台に立たなければいけないのではないか」という疑念があったのです。「これが弱い者の見ている世界です」と言って、強い者が舞台に出ている。これに本当ではない感じを持っていたのです。

 実はSPACで演出した『夜叉ケ池』(2008)の頃から、その疑念に対する1つの実験を試していました。白雪姫を始め妖怪たちの演技は、ちゃんと重心が落ちていて、声が丹田から出るというこれまでぼくが考えていた演技方法を用いています。一方、百合という役の演技では、「体をちゃんとコントロールしている状態ではない状態で舞台上にいられないか」と思い、試していました。

『夜叉ケ池』より

 『グリム童話〜少女と悪魔と風車小屋〜』『グリム童話〜本物のフィアンセ〜』では、俳優に「しっかり立たないでくれ」と言っています。「地面を押さないでくれ」と。ついこの間まで、「俳優は地面を押して立たなくてはいけない」と考えていました。「体重が50kgなら、プラス何kgかの力で地面を押してくれ」と。ヘルスメーターの上に乗って、自分の体重より数kg多く表示させることができるはずだと。自分を床に突き刺すことによって、しゃべる言葉がフォーカスに対して的確に当たる。言葉がフォーカスに対して矢のように刺さるためには、自分がまず安定しなくてはいけない。ずっとそう言ってきた。しかしこれこそ「自分の言葉を道具としていかに的確に使えるか」という発想から出てきた身体観です。自分を床に突き刺すためには、重心を細くすればするほどいい。丸太棒では突き刺さらない。重心を1点に絞るために色々なトレーニングをするのです。

 しかし今、ぼくは次のようなことを俳優たちに求めています。床の上に薄い氷が張っていると考えてくれ。「薄氷を踏む」という言葉があるが、まさに薄氷の上に立っているというふうに。そのとき、どうしたら氷が割れないだろうか。重心を狭めれば狭めるほど、間違いなく氷に穴を空けてしまうだろう。そこで重心を分散させなくてはいけない。足の裏の全体に重心を分散させるのです。けれど同時に分散させるのは極めて難しいので、現在は「揺れ」という手法を取っています。体を揺らすことによって1点に重心が落ちないようにしています。重心を分散させるのもやはり技術です。「自分の体に畏れを持って向き合うこと」もまた技術なのです。重心を絞ることができる人の方が、重心を分散させることもやりやすい。実際にやってみてわかったことです。まばたきの話をしましたが、自分の体を「これ以上ないくらいデリケートな存在」として扱うにも、やはり技術がいる。誰もが舞台の上で弱い者としていられるわけではない。「この世で最も弱い者」として舞台上にいるための技術がいる。

『グリム童話〜少女と悪魔と風車小屋〜』より

 これは『夜叉ケ池』の頃にはわかっていなかったことです。百合役の俳優には、「もっと小さい声でしゃべってくれ」と、体に負荷をかけないようにしていた。けれどそれだけでは「独自の原理でこの人がこの場に存在している」という状態になりませんでした。「まだそのくらいなのか」という感じに見えてしまった。そこでそれを強く求めるのをやめていました。小声だとしても息を詰めてしゃべるという、先ほど言ったように重心を狭めてフォーカスを絞る、そのうえで小声でしゃべるといったところに、『夜叉ケ池』では行かざるを得なかった。問題意識としてはその時点から持ってはいたのですが。泉鏡花の世界は、男性原理のなかで虐げられてしまった女性たちに共感を持って描かれています。その女性たちに何らかの力を与えて活躍させています。男性原理への反逆が泉鏡花のやりたかったことだとすれば、鏡花の戯曲を体現する俳優たちも「強さ」ではないものさしを持ってほしかった。『夜叉ケ池』のときにはそれがまだ徹底できなかったので従来の立ち方のアレンジに終わった。『グリム童話〜少女と悪魔と風車小屋〜』になって、やっと「従来のものさしを持ち込まない」ということにトライし始めました。そこまで段階が進んだのです。

―そのとき、観客は俳優から強く影響を与えられるわけではない状況に置かれます。観客がどうなるかは未知数です。しかし、言葉の方は降ってくるわけで、ある種の「強さ」がある。言葉が自然と近いものであれば、猛威のように降ってくることはあり得るんですよね?

宮城:それを目指しています。欲望の道具として言葉を使う限り、言葉は矮小化されています。「この人に対してこういう影響を与えたい」という欲望の大きさまで言葉が小さくなっている。本当の言葉、天から降って来た言葉はそんなものではないだろうと。「口が裂ける」という言い方がありますが、まさに猛威はそういうもので、ぼくの欲望を超えている。そういった力を観客に浴びてもらうことができるよう、言葉を奴隷にしない。言葉を自分の道具にしない接し方をしていきます。

―さきほど「そこまで進んだ」という言い方をされましたが、宮城さんのいう「詩」はまだ実現されていないのでしょうか?

宮城:実現もへったくれも一生かかってもなにがしか形になるかわからない。かたやこれまでの演劇は、最低でも何百年もやっているわけです。日本の身体技法というのはもっと前からある。仏教の修行なども含めればさらに前からある。日本だけみても千年以上前から、身体をいかに奴隷化するかの蓄積があるのです。その上に今日の演劇があります。これに比較すれば、ぼくが始めたことはあまりにもわずかな時間しか経っていないからです。そうは言っても、「観客は出来上がったものだけを見るわけではない」ということも、観客として経験があります。観客は「この俳優はこういう方向に行きたいんだな」といったことも見ることができます。その意味で、なにがしか見てもらえるのではないかと思っています。

―「詩の復権」と言われていますが、「復権」と言われるからには、「詩」や「言葉」の原体験があるのだろうと想像するのですが、具体的に何かあるのでしょうか?

宮城:こういったことがこの世に一度もなかったとは思っていないです。それこそ「ノアよ、舟をつくれ」といった、言うと口が裂けるような体験がかつてもあったと思っています。その例としてぼくがよく挙げるものがあります。スッタニパータという一番古い仏典です。ブッダ(釈迦)が亡くなって一番早くブッダの言葉を記録したと言われる教典です。そこに「犀の角のようにただ独り歩め」と書いてある。釈迦がそういうふうに言ったと。スッタニパータは、どちらかというと人生訓の側面があります。「このように生きれば、人はうまく生きることができる」といった感じのものです。果たして釈迦はどういう身体で、この言葉を弟子たちに、聴衆に語っていたのだろうか。

 今日ぼくらが想像するカリスマは強度を持っています。生命力と言ってもいい。その人の前では威圧されてしまう。極端に言えばうわーっと目が眩む。例えば、奈良の大仏のようなものが「犀の角のようにただ独り歩め」と言うのだとすれば、釈迦の言葉は上から下に威圧するように、拘束、束縛するように降りてくるでしょう。しかし、釈迦はそうだっただろうか。そうではないのではないか。むしろ釈迦は、生まれたばかりの赤ん坊のように、この世でこれ以上脆い生き物はないという状態に達していたのではないか。イエス・キリストの何倍も長く生きて、吹けば切り傷ができるような、そよ風でも火傷するような、そんな生命体になっていたのではないか。もしそうだとして、この世で最も弱い者ではないかと思われる釈迦が、「犀の角のようにただ独り歩め」と弟子に語りかけたら、その言葉はどういったものなのだろう。「守れ」という戒律の束縛として語られるのではなく、また釈迦という人から威圧されるのでもなく、まさに天から降って届いたものと感じられたのではないか。釈迦の言葉が弟子たちに天の言葉として聞こえたのだとすれば、それは釈迦がカリスマで威光をもって相手を圧倒していたのではなく、むしろ釈迦の肉体は消え、言葉だけが突然天から降ってきて、誰の耳にも同時に「犀の角のようにただ独り歩め」と鳴り響いたのではないか。だから誰もが釈迦の言葉を天から降ってきた言葉と考えたのではないか。

『グリム童話〜本物のフィアンセ〜』より

 スッタニパータは、そのへんの指導者、例えばカリスマ的な社長さんが言っていても全くおかしくないような内容です。行列のできる占い師が言っていてもおかしくない。難しいことは何も言っていない。でもブッダが決定的な影響力を持ったのはどうしてなのか。日めくりカレンダーに載っているような言葉なのに、2千何百年以上の間、人を動かして来たのはなぜなのか。それは彼がこの上なく弱い者としてこの言葉を言えたからではないか。そう想像しています。そういうレベルでかつてはあり得た、そしていつの間にか忘れられた言葉のありよう、それをもう一度取り戻したいと考えています。そこで「復権」と言っているのです。スッタニパータのレベルまで戻ろうということです。

―言葉が、宮城さんが言われる「詩」であったとしても、たとえば戦争のような最悪の結果を招くこともあり得ると考えられます。『マハーバーラタ』のなかに、ヴィシュヌ神の化身であるクリシュナが、英雄アルジュナに戦争をするよう説得する箇所があります。経済学者のアマルティア・センがこの箇所を引き合いに出し、マハトマ・ガンジーでさえクリシュナの思想に感銘を受けていたと指摘しています。ブッダの言葉と同じように、クリシュナの「戦争せよ」という言葉が力を持つ、その怖さが一方であると思います。そういった局面を想像すると、やはり「言葉をどう使うか」という問題があるのではと個人的に思います。そのあたりはどういうふうにお考えでしょうか?

宮城:インドの思想も男性のものだと思います。『マハーバーラタ』も含めて、「インド教」という言い方をします。ヒンズー教より前からのものです。この世界をいかに完全に把握するか、自分というものをいかにコントロールするか、そこに一生を賭けていきます。「完全にこれができれば不死に至る」とも言ったりします。もちろん完全にやった人はいなかったので、死ななかった人はいない。ゴールとして「完璧にコントロールする」ということを設定しています。ぼくが『マハーバーラタ』のなかで「ナラ王物語」という最も古い一部分に興味を持っているのは、いわゆるヒンズー的な思想が形成されるよりもっと前の考え方や物語性がそこにあるからです。姿がすっかり変わってしまい人の召使いになったナラ王のことを、離ればなれになっているダマヤンティー姫が「この人は間違いなくナラ王だ」と確信する瞬間がある。それは彼が焼いた肉を食べた瞬間です。ヒンズーは肉食を禁じています。もっとも肝心なところに肉食が出る話が『マハーバーラタ』のなかに入っている。「ナラ王物語」には男性的な原理が成立する以前の名残りを感じます。

 難しいのは、「明らかに不正がある」というときに、これを正そうとするには力がいるということです。その力は、まず自分の体をコントロールすることです。これができなければ世の中を変える力も獲得できないでしょう。不正を正すには力がいる。こう考えると、「どちらにしても力は必要で、その使い方が問題なのだ」という話になる。しかしぼくには、「より強くなろう」「より完璧に自分をコントロールしよう」「より完璧に宇宙を、自然を支配しよう」という欲望を捨てない限り、争いはなくならないのではないかと思えます。力を持ってその使い方でこの世を正そうと考えても、最も巨大な不正はなくならないような気がするのです。ぼくが「弱い演劇」をやることで、果たして何万年先に実を結ぶかわからない。けれども、これまで偉大な人物がたくさん出てきたのに、戦争は決してなくなっていないという現実に対して、「もっと根底にある何かを見直さないと、この世の不正は改善されない」という投げかけはできるのではないか。そんなことを考えて、根底にある欲望を放棄するという考え方に至りました。「自分をコントロールしたい」という一番根本的な欲望です。これを放棄したいと思います。

―「欲望を持たなければ生きられない」と言う人もいます。

宮城:“「自分を完璧にコントロールする」という欲望を放棄したい”という欲望は持っているのです。欲望がないわけではない。今までの人間ではない人間が生まれてくることを望み、それを欲望しているのです。それはほとんど自己矛盾に聞こえるかもしれません。「私は嘘をしゃべっています」と言うのと似ています。

聞き手/テキスト:西川泰功(2012年2月17日)

『グリム童話〜少女と悪魔と風車小屋〜』より