現代アメリカ演劇の新鋭ケネス・コリンズ作品、
アジア初上演!
アメリカ人劇作家演出家のケネス・コリンズは、2002年に劇団「テンポラリー・ディストーション」をニューヨークで創立して以来、フランス、カナダ、オーストリア等の演劇祭で取り上げられ注目を集めている新進気鋭のアーティストです。今回の静岡公演はアジア圏での初の上演になります。
一編のロードムービーとともに織りなされる張り詰めた舞台
ケネス・コリンズ作品は、極限にまで抑えられた独特の演技を特徴とし、映画と演劇を融合させた斬新な作風で知られます。この『ウェルカム・トゥ・ノーウェア』では、全編を通じてロードムービーのような映像作品が流れるなか、舞台上で並行して演技が行われます。映像と舞台の関係は、重なり合ったり微妙にずれたり、また全く関係がなかったり、と様々な見方が可能となる仕掛けになっています。
<現代人の孤独>が浮き彫りになる、
オルタナティヴ・シアターの傑作
舞台上に登場する人物は、直立してほとんど動かないままマイクを通して語ります。互いに向かい合うこともなければ触れ合うこともありません。こうした抑制の効いた演技や現実離れした語りを用いることで、俳優たちにはそこはかとない喪失感が漂います。皮肉にも映像作品に登場する人物の方が現実の世界を生きているようです。同時にジョン・サリーによるアンビエント・ミュージックが「せつなさ」を演出し、<現代人の孤独>が抒情的に浮かび上がります。日常の忙しさを忘れ、少し感傷的でしかし心の奥底を開放するような気分になることでしょう。『ウェルカム・トゥ・ノーウェア』というタイトル通り、「どこでもない場所」へ誘う「ロードムービー」ならぬ「ロードシアター」をご堪能ください。
「ザ・ロード」が浮かび上がらせるもの
柴田元幸 Motoyuki Shibata
ジャック・ケルアックの『オン・ザ・ロード』(1957)をはじめとして、「ロード・ノベル」「ロード・ムービー」はアメリカ的物語の主要な定型である。一か所にとどまって生きることがむしろ逸脱であり、自動車でハイウェイを移動しつづけることこそむしろ標準的生き方であるような人々や世界を、アメリカの小説や映画はくり返し描いてきた。広大な国土を持つアメリカにあって、<移動は善である>という思いは、建国以来つねに人々を駆り立ててきた。
その思いが、1920年代における自動車の爆発的普及によっていっそう強まったわけだが、それとともに、そこにひとつの逆説的な感覚も伴うことになった。なぜなら、ハイウェイはたしかに広大だが、それとは裏腹に、自動車ほど密室的な空間もほかにないからだ。自動車と同じくらい狭い閉鎖空間で人が朝から晩まで過ごす、という事態がほかにどれだけ考えられるだろう?
広がりと、密室性。アメリカの「ザ・ロード」に備わるこの両面的な感覚を、『ウェルカム・トゥ・ノーウェア』はこの上なく濃密に伝えてみせる。広さの感覚は、どこまで行ってもどこにもたどり着いていないという悪夢的な思いに反転し、画面やブースによって再現される密室性ともあいまって、舞台上の人々はやがて、出口のない無限ループの囚人のように見えてくる。
これがさらに、曖昧な、だが罪の意識と恐怖心を伴った暗い記憶に人々が何度も立ち返ることで、空間のみならず、時間も出口なしのループと化す。
国土のスケールがまるで異なる日本には、関係ない話だろうか。たしかに表面的にはそうだろう。アメリカの「ザ・ロード」と日本の「道路」とでは、神話的な意味はおよそ違うのだから。だが、アメリカであれ日本であれ、人はみな誰でも、生きていくなかで、自分が同じところを何度もぐるぐる回るばかりでどこにも出口がないような感覚に襲われるのではないか。「ザ・ロード」はそうした誰にも覚えのある感覚を、増幅して照らし出す装置にすぎない。『ウェルカム・トゥ・ノーウェア』の舞台が作り出す濃密な空気のなかで、NOWHERE(どこでもない場所)はいつしかNOW HERE(いま・ここ)になっていく。
柴田元幸(しばた・もとゆき)
1954年生まれ。アメリカ文学研究者、翻訳家、エッセイスト。東京大学文学部教授。文芸誌「モンキービジネス」責任編集者(ヴィレッジブックス)。ポール・オースターなどの現代アメリカ小説の翻訳で名高く、アメリカ文学ファンから今もっとも信頼されている専門家である。
後援: | 在名古屋米国領事館 名古屋アメリカン・センター |
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