03 イタリア

03 イタリア・ルネサンスの劇場
Italian Renaissance Theatre

古代の劇場をもとに、新たな要素を独創的に融合

01 テアトロ・オリンピコ
02 テアトロ・ファルネーゼ

 INTRODUCTION 
劇場の復活と、新しい劇場空間の誕生

1.ウィトルウィウス建築書の発見
 15世紀にはじまるイタリア・ルネサンスは、演劇の分野においても古代の作品に目を向けさせた。テレンティウス、セネカなどの古代ローマ時代の劇作家の作品が復活上演されるようになる。しかし、当初の舞台は、高く持ち上げられた舞台と、その後ろにある区切られた小室(しょうしつ)で構成される、簡単なものであった(図A)。これは聖史劇の上演に用いられた仮設舞台(パネル02参照)の形に酷似している。いつの世でも、新しい演劇が生まれるときには、その同時代に一般的だった演劇空間(劇場)の形が使われるのである。
 そんな時に、紀元前1世紀ごろのローマ人建築家マルクス・ウィトルウィウス・ポッリオの建築書(De architectura)が発見される。そこにはさまざまな建築の空間構成理論が記され、古代ローマ劇場や古代ギリシア劇場(パネル01参照)の形も解説されていた。1485年に出版されたSulpicio版が、最初の出版物である。1513年に出版されたフィレンツェ版には、オリジナルにはない図版(図B)が載せられている。ここで注目したいのは、劇場の平面全体が四角い枠の中に収まっていることである。ルネサンス期の劇場は、ローマ劇場やギリシア劇場と違い、屋外の空間から室内の空間にかわるのであるが、この、枠に収められたローマ劇場の空間解説は、まさにその転換を暗示しているようでもある。

2.セルリオの一点透視画法(パースペクティブ)および、3つの舞台背景
 初期のルネサンス期の劇場は、聖史劇の伝統を受け継ぎ、ウィトルウィウス建築書の影響を受け、さらに一点透視画法の力を借りながら、新しい劇場空間を生み出した。その3つの流れを見事に統合した劇場空間の提案を行ったのが、建築家セバスティアーノ・セルリオである。
 セルリオの書いた建築書によれば、劇場は、古代ローマ劇場のスケネ(背景の壁)にあたる部分に、一点透視画法(パースペクティブ)(パネル01参照)の背景を重ね合わせている(図C)。透視画法は、人の目に映る景色をそのままに立体的に描く技法であり、それは、合理的な人間精神を尊ぶ、すなわちヒューマニズムの時代における「ひとのまなざし」のための新技術であった。
 舞台背景には、喜劇、悲劇、風刺劇の3種(図D)が用意されている。当時はひとつひとつの演劇作品に個別の舞台背景があてがわれるのではなく、3種の劇作様式に合わせた汎用的な背景が使われた。悲劇は、高貴な登場人物の運命を対象としたため、背景には城や館が描かれた(図Dーa)。喜劇は滑稽な市民の生活が対象であったため、市街の風景があてられた(図Dーb)。風刺劇は、田舎の風景(図Dーc)が描かれている。

3.サバッティーニの書き残した機械仕掛けの技法
 ルネサンスは透視画法の発見と同時に、さまざまな機械が開発された時代でもあった。劇場においても多くの機械仕掛けによる舞台装置が工夫されている。
 断片的ではあるが、すでにギリシア劇場において、神が天から降りてくる装置や、三角形の筒を回転させて背景を変える装置などが開発されていたと記録されている(パネル01参照)。しかし、その実態は不明である。ルネサンスには、帆船(はんせん)技術や軍事技術などの著しい発展があり、その影響を受けて、舞台にもさまざまな機械仕掛けが持ち込まれた。有名な天文学者・物理学者ガリレオ・ガリレイもそのような装置を構想している。
 舞台における機械仕掛けを後世に伝えてくれる理論書として、建築家ニコラ・サバッティーニによる『舞台背景と機械の構築マニュアル』(Pratica di fabricar scene e macchine ne’ teatri、1638年)がある(図E)。そこには、神が天から降りてくるような装置、船が荒海にもまれる装置などさまざまなからくり仕掛けが図解されている。透視画法と機械仕掛けは、現代でいうバーチャル・リアリティのような先端技術であり、世の中を驚かせたのではないだろうか。

◇清水裕之

参照:清水裕之(1985)、『劇場の構図』、鹿島出版会


一点透視画法を用いた、初めての室内劇場
01テアトロ・オリンピコ
Teatro Olimpico

 1555年に、イタリアの都市ヴィチェンツァの文化芸術の拠点として、貴族や知識人たちによる文化サークル、アカデミア・オリンピカが設立された。その活動の一環として、ルネサンス期の建築家パッラーディオが提案し、弟子のスカモッツィが1585年に完成させた劇場である。
 ローマ劇場(パネル01参照)の形式を踏襲しているが、客席は舞台に対して楕円形の長軸に面しており、扁平(へんぺい)に押しつぶされた形になっている(図F)。ギリシア・ローマ劇場のように石づくりの舞台背面の壁であるスケネがある。正面に3つ、側面に2つの出入り口が設けられており、その背後には、当時の先端技術であった一点透視画法(図C)による街並みが舞台装置として設定されている。特に正面中央の出入り口は、側面にある2つよりも大きく広げられ、後ろには3筋の街路が立体的に構築された(図F)。テアトロ・オリンピコで、劇場は初めて室内空間となった。以後、演劇は新しい舞台技術に支えられて、多様な演出力を涵養(かんよう)(水がしみこむように徐々に養い育てること)するが、それには劇場の室内化が大きな役割を果たしたと考えられる。
 また、演出家鈴木忠志と彼の率いる劇団SCOTは、 1994 年と1995年、古代ギリシア悲劇をもとにした作品『デュオニュソス』『エレクトラ』をこの劇場で上演している。なお、余談であるが、テアトロ・オリンピコのある建物には、1582年から1590年に日本からヨーロッパに派遣された天正遣欧少年使節(てんしょうけんおうしょうねんしせつ)が訪れており、その様子が絵画として残されている。彼らはテアトロ・オリンピコを目撃しているかもしれない。

◇清水裕之

01 Olympic Theatre


深く歪曲したU字型客席で、観客がスペクタルを味わう
02テアトロ・ファルネーゼ
Teatro Farnese

 ルネサンス期の劇場はテアトロ・オリンピコを含めて、イタリアに3つ現存している。ひとつはサッビオネータにある、スカモッツィ設計のテアトロ・アランティカ(1588年建設、1590年開館)であり、もうひとつが、パルマのピロッタ宮殿にあるジョバンニ・バティスタ・アレオッティの設計によるテアトロ・ファルネーゼである。
 テアトロ・ファルネーゼは、テアトロ・オリンピコの舞台中央のアーチが拡大され、一点透視画法のための空間が舞台全体へと広がっている(図H)。この舞台を枠取るフレームが原型となり、その後のイタリア式劇場(パネル05参照)において、舞台の額縁(プロセニアム・アーチ)が発達を遂げ、現代に続いていく。しかし同時に、テアトロ・ファルネーゼは、とても矛盾に富む面白い空間を構成している。それは、客席が大きくU字形に引き伸ばされていることである(図G)。透視画法では、それが正しく見える位置が1か所しかない。しかし、多くの客席は、舞台を横側から眺めるような不合理な位置につくられているのである。どうしてだろうか。
 実は、当時の演劇は壮大なスペクタクルであり、プロセニアムの中にとどまるものではなかった。U字形となった客席が取り囲む真ん中の空間が、スペクタクルそのものの場になっていたのである。別の劇場であるが、フィレンツェのウフィツィ宮殿における、1616年の上演の様子を示す(図I)。一点透視画法の劇場には1カ所しかいい席がないと思い込むのは現代人の考え方であり、一方でアッと驚く透視画法の背景によるだまし絵やからくりがあり、もう一方で眼前のスペクタクルがある、そうした、混沌としてエネルギーに満ちた場が劇場であったのである。そう考えると、現代人から見れば空間の矛盾と思えるようなつくりも、むしろ合理的に思えてくる。

◇清水裕之

02 Farnese Theatre


 

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