07 日本

07 日本の古典劇場
Japanese Traditional Theatre

多様で独特な形態を、世界の劇場とくらべてみよう

INTRO
01 雅楽舞台
02 能舞台
03 歌舞伎劇場
04 森田座/守田座/新富座
05 歌舞伎座
06 人形浄瑠璃劇場
07 寄席
08 農村舞台
09 神楽殿式舞台
 COLUMN 

 INTRODUCTION 
劇場文化が栄えた国、日本

 歌や踊りは人々の生活に密着したものであり、時代、場所、民族を越えて普遍的に存在している。世界中に芸能はあまねく存在するのである。しかし、芸能を行う場所がひとつの社会的、機能的空間、すなわち「劇場」として、固有の形を与えられた地域は歴史的に見て世界にそれほど多くはない。そして、日本はそのまれな地域のひとつである。特に歌舞伎劇場は、世界でも数少ない庶民を対象とした商業劇場であり、また、劇場機能としての屋内空間をつくりあげた点で、ヨーロッパのイタリア式劇場(パネル03参照)と並んで、重要な位置づけにある。

◇清水裕之


日本独特の舞台のルーツ
01雅楽舞台
Gagaku Theatre

 わが国の芸能が記録に登場するのは、『古事記』、『日本書紀』の天岩戸隠(あまのいわとがく)れである。岩戸に隠れた天照大神(あまてらすおおみかみ)を外に連れ出すために、天鈿女命(あまのうずめのみこと)が妖艶な踊りを披露したというくだりである。
 701年に大宝律令(たいほうりつりょう)が制定されると、公的行事で歌舞を行うため、宮廷に雅楽寮(ががくりょう)(歌や踊りを司る機関)が設置され、(とう)高句麗(こうくり)などの海外の歌舞も体系化されて伝承されるようになった。
 752年、東大寺盧舎那仏(るしゃなぶつ)建立の開眼(かいげん)供養(新しい大仏に魂を入れる儀式と祭礼)が行われた際は、回廊に囲まれた庭に大きな舞台が設置された。当時のさまざまな国内の歌舞に加え、世界各国の珍しい楽曲や舞踊が1万数千人の眼前で演じられた。
 舞楽(ぶがく)の舞台は、現在でも大阪、四天王寺の石舞台などに残っている。その形式は四(けん)(約7.2m)四方の欄干(らんかん)を持つ舞台を真ん中に、舞台後方、左右にそれぞれ楽舎(がくしゃ)(演奏を行う小屋)をもつ。ふたつの楽舎があるのは、中国系の音楽を客席から見て左方に、朝鮮半島系の音楽を右方にまとめたことによる。舞楽やその音楽である雅楽を演じる舞台形式を総称して、雅楽舞台(ががくぶたい)という。
 劇場の系譜を見ると、新しい芸能が(おこ)ると、舞台はその前の時代の形式を踏襲することが多い。西洋でもそうであったが、日本でも同様である。室町時代に登場した初期の能楽(のうがく)では、雅楽舞台が利用されている。
 全国各地の神社に現在も多く見られる神楽殿(かぐらでん)09は、雅楽舞台の影響を受けている。江戸の歌舞伎03も、その初期には能舞台02の形式を借用している。こうして新しい劇場は、古い時代の劇場を受け継ぎながら発展してゆくのである。

◇清水裕之

01 雅楽舞台の例:四天王寺の石舞台
Shitennoji Ishibutai ( the stone stage )


橋掛りが特徴的な芸能舞台
02能舞台
Nohgaku Theatre

1.能楽の誕生
 7世紀頃に大陸から伝来した散楽(さんがく)は、荘園制度(しょうえんせいど)など地方統治の制度が発展するとともに、平安時代中期頃から土地の芸能と結びつき、猿楽(さるがく)田楽(でんがく)などの芸能が興った。それらは室町時代、足利将軍家や各地の寺社の庇護のもと隆盛を迎えた。能楽は、その流れを集大成し、観阿弥(かんあみ)世阿弥(ぜあみ)の親子によって完成された、わが国独特の芸能である。
 能楽が現れた当初、現在のような定形の舞台形式はなく、雅楽舞台01のような四角い舞台が使われたようである。また、大きな特徴である、楽屋から舞台へ向かっての橋掛り(図A-d)だが、現在のように舞台に向かって左にかたよって配置されていたわけでなく、真後ろに置かれたり、場合によっては左右にふたつの橋掛りがあったりしたようである。
 古い能舞台としては西本願寺の能舞台がある。1581年に京都内にて完成された後、1591年に西本願寺に移転されたものである。

2.能舞台の構造
 現在の能舞台は、三間(約5.5m)四方の屋根付きの本舞台(図A-a)、その後ろにある演奏者のための後座(あとざ)(図A-b)、本舞台に向かって右側にある地謡座(じうたいざ)(図A-c)、そして、後座の左後ろ方向に延びる橋掛り(図A-d)を中心に構成されている。本舞台の屋根はシテ柱(図A-e)、目付柱(図A-f)、ワキ柱(図A-g)、笛柱(図A-h)という4本の柱で支えられ、それらによって本舞台の演技空間が立体的に形成される。橋掛り(図A-d)はこの世(舞台・図A-a)とあの世(鏡の間・図A-i)を結ぶ橋であり、夢幻能(むげんのう)(神や霊、精など、あの世の存在が登場する能の形式)に代表される能楽の基本的な精神構造の中核を占めている。

3.能楽を広めた「勧進興行(かんじんこうぎょう)
 能楽の初期の発展において、特筆しなければならないのは、勧進興行の誕生である。勧進とは「仏教の僧侶が衆庶(しゅうしょ)の救済のための布教活動の一環として行う行為の1つで勧化(かんげ)ともいう。(1)(編注:衆庶とは一般の人々のこと)。建前は布教活動であるが、基本はお金集めであり、大衆を集めて芸能を上演するような商業的活動でもあった。勧進興行は能楽以前にもすでに行われていたようだが、能楽の進化とともに大きな規模となった。京都では四条河原、糺河原(ただすがわら)などの河原で行われた。例えば貞和(じょうわ)5年(1349年)に行われた四条河原の勧進興行では、大衆のみならず貴賓(きひん)も多く見学し、大勢の客が入りすぎて桟敷(高く上げられた客席)が倒壊したため記録に残されている。舞台のまわりを囲んだ貴賓の桟敷席は、83間(約150m)と大規模なもので、それが倒壊したのだから大惨事となったのである。なお、勧進興行のスタイルはのちの江戸時代にも続く。

◇清水裕之

1:引用 Wikipedia「勧進」の項より

02 能舞台の例:西本願寺北能舞台
Hongwanji North Noh stage


ユニークな空間構造を持つ室内劇場
03歌舞伎劇場
Kabuki Theatre

1.歌舞伎のなりたち
 16世紀後半になると、農村共同体が全国的に発展し、それぞれの祭りなどを通して、各地で、風流(ふりゅう)などの芸能が盛んになった。そして、それらの踊りは都市にも進出する。能の勧進興行02でも眺めたように、大衆を対象とした芸能の商業化が起こるのである。その中で、女踊りを中心にした歌舞伎踊(かぶきおどり)が生まれた。そして、有名な出雲阿国(いずものおくに)が登場する。異性装(いせいそう)での妖艶な踊りが特徴であり、熱狂的に支持者を増やした。慶長8年(1603年)に京に上り、慶長12年(1607年)には江戸に進出して踊ったことが記録に残っている。当初は歌舞伎踊として、踊りが中心であった。異性装の女性の踊りがあまりにも刺激的であったせいか、女性の登場が禁止されると、若衆(わかしゅう)(年若い男子)の登場となり、それも厳しく取り締まられるようになると、女性役も男がつとめることになり、現在の歌舞伎ができあがってゆく。歌舞伎は当初から興行を目的とした形であり、塀に囲まれた敷地に能舞台のような屋根付き舞台をしつらえていた。これは、出雲阿国が江戸で、能楽の金春座(こんぱるざ)の勧進能場を使って興行を行った記録があることでも関連づけられよう。

2.屋根付き室内劇場の完成
 享保9年(1725年)には、平土間席の両側に2階建の桟敷(地面より高くつくられた客席)を持ち、客席上部に屋根がかかった室内劇場が完成した。ここでは、寛保年間(1741-1744年)の市村座を描いた錦絵(図C)を示す。この当時の劇場はまだ能舞台02の原型を残しており、本舞台(図C-a)は上手(客席から向かって右側)に寄り、破風(山型屋根の側面につく板)付きの屋根(図C-b)を持っていた。
下手(客席から向かって左側)は橋掛りの形を残した、やや奥まった舞台(図C-c)になっている。また、左右の桟敷席は舞台の奥の方に伸びている。時代を追うにつれ、それが次第に、桟敷席とは切り離された舞台側の空間装置にかわってゆくのである。そして、幕末になると舞台には破風もなくなり、舞台と客の間のラインは一直線に変化した04。なお、歌舞伎舞台の大きな特徴である花道(図C-d)は現代まで継承されている。

3.独特の空間、花道と舞台からくり
 歌舞伎劇場の特徴は花道である。日本の芸能には、能の橋掛り02のように線形の舞台空間があるが、花道も同じように細長い舞台空間である。しかし、橋掛りと違うのは、花道が客席の奥から舞台に向かって伸びているという点である。つまり客席の真っただ中で演技をする空間として、極めてユニークな空間構造をつくっているのである。花道はいつごろ出現したかは定かではない。17世紀後半には花道の萌芽が認められるが、現在のように平土間から持ち上げられた通路上の舞台空間となったのは少し後、18世紀前半頃のようである。
 屋根付き劇場になる前後から、舞台のからくりもいろいろと登場する。歌舞伎役者、作者である中村伝七によって迫り(図D-a)ぶん回し(図D-b)が考案された。本格的な回り舞台は1758年に歌舞伎作者、並木正三(初世)により考案された。

4.芝居小屋の特徴
 劇場には茶屋制度というものがあり、上客(得意客)は劇場の隣の茶屋にいったん上がり、そこから湯茶、食事のサービスを受けながら劇場に案内された。
 劇場の建物正面入口上部には、出演者や演目の内容を示唆する看板が大きく掲げられており(図E-a)、現代の映画館の入口にポスターやデジタルサイネージが掲げられているのと同様の役割を果たしていた。また、その上部には歌舞伎が古くは神事と結びついていることを暗示する櫓(図E-b)が建てられていた。劇場は火事が多く、また、社会風俗を乱す原因とも考えられたため、芝居小屋の設置は許可制となり、さらに市街の中心部には設置することができなかった。江戸の木挽町(現在の歌舞伎座がある銀座周辺)、猿若町(現在の浅草周辺)、大阪の道頓堀などが、芝居町として繁栄することになる。

◇清水裕之

03-1 江戸期の歌舞伎座の例:中村座
Nakamura-za Theatre

03-2 江戸期の歌舞伎座の例:市村座
Ichimura-za Theatre


 


江戸時代の古典劇場から明治の新式劇場に変化
04森田座/守田座/新富座
Kobiki-cho Morita-za theatre / Saruwaka-cho Morita-za theatre / Shintomi-za theatre

 江戸時代後期、歌舞伎劇場は遊郭と同じく、悪所として幕府の強い取り締まり下にあった。天保12年(1842年)の大火災後、天保の改革において、官許の(幕府から興行を許された)劇場である中村座、市村座、薩摩座、結城座が猿若町(現在の東京都台東区浅草六丁目あたり)に集められたのが1842年である。翌年に森田座の控櫓(官許の座が興行できない時、代わりに興行を許可された座)である河原崎座も移転し、芝居町が形成された。その後、河原崎座が焼失したのを機に、1856年、森田座(この2年後、縁起を担いで守田座に改名)が猿若町に入った。
 明治に入り、新政府は劇場政策を大きく変更させて、江戸の外濠内にも劇場を設置することが可能となった。その機に乗じて、守田座は1872年、新富座と名前を新たに新富町に移動した。その後、火災で焼失するが、1878年、ガス灯など新式設備をいれて再スタートをする。
 新富座はヨーロッパのオペラハウス(パネル05参照)のように、都市の顔であることを意識し、政治家などを招聘した豪華な開場式を行っている。また、外国人の客も受け入れるために一部に椅子席を設けた。悪所としての劇場が都市の顔として再出発してゆくという明治の劇場の、先駆けといっていいのではないだろうか。劇場内部も劇的に変化している。万延元年(1860年)歌川国麿画の「新版わり出し双六」にはまだ、江戸中期の市村座(図C)のように、上手に寄った本舞台が設置されている様子((図C)参照)が描かれているが、明治5年(1872年)、歌川芳虎画の森田座の錦絵(図F)には、下手から上手までまっすぐな舞台と、図中でははっきりしないが、舞台鼻(舞台の先端)から奥に入ったところに大臣(舞台の左右にある柱。江戸初期の歌舞伎舞台にあった破風屋根を支えた大臣柱の名残り)、その前に広い前舞台が客席に向かってつくられ、それまでの劇場とは異なる空間をつくり出している。
 この後、1888年、三座(中村座、市村座、森田座)の体制を崩す歌舞伎座が登場し、歌舞伎劇場界は新たな競争時代に突入するのである。

◇清水裕之

04-1 木挽町 森田座
Kobiki-cho Morita-za

04-2 猿若町 守田座
Saruwaka-cho Morita-za

04-3 新富町 新富座
Shintomi-cho Shintomi-za


洋風劇場の様式を導入し、現代に続く
05歌舞伎座
kabuki-za theatre

 明治に入り、歌舞伎界には大きな変革がやってくる。歌舞伎の通ばかりではなく、伊藤博文ら政治家や財界人などからも日本の劇場に視線が注がれるようになる。それは、都市の広場の正面にきらびやかにそびえたつヨーロッパのオペラ劇場(パネル05参照)のように、都市の顔としての劇場をつくりたいという考え方から起きた。江戸期に悪所として扱われた芝居小屋とは対照的なアプローチであった。それは演劇的な本質からの動きではなかったが、舞台人や芝居通からも機を見て新しい動きをつくり出そうとする人々も現れた。十二代目守田勘彌が新富座をつくったのもその先駆けであり、また、九代目市川團十郎もそのひとりであった。
 江戸期の歌舞伎は荒唐無稽な筋書きであり、史実には即していない。もちろん、いろいろな弾圧があり、史実などをそのまま演じることはできなかった。これに対して、これからの新しい演劇は時代考証などをしっかりと行うべきだとして、「史劇」を上演した。そして、政治家・ジャーナリストの末松謙澄、実業家の渋沢栄一、社会学者・教育者の外山正一らは「演劇改良会」を結成した。こうした流れの中で、これまでの系譜とは異なる新しい歌舞伎劇場が登場する。それが、演劇改良運動に参加した演劇人の福地桜痴(源一郎)、実業家千葉勝五郎が、1889年に木挽町(現在の東京都中央区銀座4丁目周辺)に開設した歌舞伎座(図G)である。
 この劇場では舞台の間口は新富座にくらべて大きく広げられた。より多くの観客を入れるには間口を広げるのが手っ取り早い。ただ、古くからの歌舞伎のしきたりを理解している興行主は、間口を広げると演技の質が変わることを心得ているから、なかなかそれができない。歌舞伎と縁の薄い経営者が出資者になることで、歌舞伎座ではそうしたしがらみを外すことができたのであろう。ただし、歌舞伎座の舞台空間の構成は新富座とほぼ同じであり、それまでの地道な改良を受け継いでいる。
 新富座、中村座などは徒党を組んで、歌舞伎座に対抗しようとしたが、九代目市川團十郎などの名優が演じたため、明治の歌舞伎上演空間の中心は、次第に歌舞伎座へと置きかわっていった。なお、初代歌舞伎座ができた後、1911年に、日本でほぼ初めての本格的な西洋劇場である初代帝国劇場が登場した。これに対抗して歌舞伎座は直ちに改修工事を行って対抗しようとしたのだが、1921年、漏電により焼失してしまう。この4年後、関東大震災直後の1924年に、耐震構造の鉄筋コンクリートによる近代的劇場として、歌舞伎座はよみがえった(図H)。
 この新劇場によって、歌舞伎劇場の内部空間は本質的な転換を行う。それは、大臣柱と大臣囲い(図G-f)が大道具としての扱いになったことにより、新富座などでつくられた前舞台のさらに先端に、建築的なプロセニアム・アーチ(図H-k)が設定されたからである。この空間変化は、それまでの歌舞伎劇場の持っていた舞台と客席の一体感を失うことになったが、照明設備などが整う舞台で演じられる歌舞伎の演出は、より豪華絢爛になってゆくのである。

◇清水裕之

05 歌舞伎座
Kabuki-za


日本独自の人形劇。歌舞伎との関係にも注目
06人形浄瑠璃劇場
Ningyo joruri(Bunraku)-Japanese Puppet theatre

1.世界でもユニークなパペット劇
 人形浄瑠璃は、江戸初期に近松門左衛門と浄瑠璃語りの竹本義太夫によって大成された。竹本座、豊竹座などの劇場が活躍したが、幕末、大阪に登場した興行主・植村文楽軒(4世あるいは3世)による文楽座が有名になり、現在では人形浄瑠璃よりも文楽という名の方が通っている。
 日本の人形浄瑠璃は世界的に見ても非常に独特な演劇(人形劇)である。人形劇には、大きく分けて糸操り人形(マリオネット)、手遣い人形(パペット)、棒遣い人形がある。この分類では、日本の人形浄瑠璃はパペットに分類される。しかし、その演劇形態は他に例がないほどである。ここではそのユニークさについてまとめておきたい。

2.人形・人形遣い・太夫・三味線
 主役級の人形を操るのは3人である。ひとりが主遣いで胴体、右手、顔を操り、ふたり目が左手を操り、3人目が足を操る。人形浄瑠璃が生まれた当初は、人形遣いは舞台の衝立の後ろにいて操作を行っていた。しかし、ある時から人形を操る姿を前面に見せるような形に変化した。その過渡期には、覆いを外して枠だけにした衝立が使われた(図I)。そして、1705年には衝立を取り払い、人形遣いが舞台に姿を見せる様式、出遣いが登場した。どうやらそれは人形を操る人形遣いの動きも見たいという観客の要望に応えたようだ。
 また、人形は話ができないから、筋(ストーリー)は太夫が三味線の伴奏で語ることになる。登場人物の声色をいろいろと使い分けたり、うなったり、太夫の話術には驚くべき技術が含まれている。観客は当然、太夫のことも間近で見たい。そこで、出語り床という舞台の脇に張り出した小舞台を設置し、そこに太夫と三味線を座らせた。通常は観客から見て右手(上手)に床があるが、場合によっては左手側(下手)にも付けることがある。

3.演劇空間を豊かにする多元的な視線
 人形浄瑠璃の舞台空間では、人形の演技とそれを操る人形遣い、出語り床(図J-a)に出て語りと伴奏をする太夫と三味線弾き、それぞれが離れて存在し、舞台としてはある意味で統一をなしていない。多元的で、分散的な構成である。これは、20世紀ドイツの演出家、ベルトルト・ブレヒトが唱えた「異化効果」(日常で見慣れた現象、当然だと思っていることの先入観を取り除き、異常なものに見せてしまうこと。・パネル08参照)が作用する劇場空間である。
 バラバラな演劇的要素を理解するのは、観客の頭脳である。西洋のバロック劇場(パネル05参照)も、一点透視画法とそこからはみ出すダイナミックな演技、神と王権の社会構造を軸線に反映した観客席など、重層的で、多元的な劇場空間をもっていた。人形浄瑠璃も、それらと質と社会的状況は異なるものの、演劇空間を豊かにする多元的な視線をつくり出していることに驚きを感じる。

◇清水裕之

06 人形浄瑠璃劇場の例 : 竹本座
Takemoto-za


ひとり芝居をコの字の客席が囲む
07寄席
Yose-Japanese Vaudeville theatre

 落語、すなわち伝統の話芸も日本独特の劇場空間、寄席をもっている。落語は噺と呼ばれ、噺を創作し、語る人を噺家という。その始祖は16世紀末-17世紀初頭にかけて活躍した安楽庵策伝(あんらくあんさくでん)といわれている。彼は説話集『醒睡笑』をまとめ、噺の「落ち」を創造し、落語成立の基礎をつくった。続いて上方(京都や大阪をはじめとする畿内地方)で、露の五郎兵衛、米沢彦八などが17世紀後半から18世紀にかけて活躍した。
 当時の噺の空間は、寺社の境内などの屋外であったようだが、記録によく表れる空間構造は、噺家に対して観客がコの字型に取り囲む形態であり、お互いに顔が見える座席配置となっている。噺家の語る場所(舞台)を中心に観客同士も顔を見合う、つまり、視軸の三角形を構成する空間関係であり、イタリア式劇場(パネル05参照)のような囲み型の桟敷席、あるいは、日本の歌舞伎劇場の桟敷席03と同様の空間関係を、素朴であるが構築していることに注目したい。現在の寄席では、舞台(高座)に対して左右に桟敷席が設けられており、やはり話芸においては、噺家と観客の濃密な視軸の構築が重要であると気づかされる。
 現在の寄席のような形が定着したのは、噺家の岡本万作が寛政10年(1798年)ごろ、江戸の神田豊島町藁店(現在の東京都千代田区東神田周辺)に「頓作軽口噺」と看板を掲げて常設の寄席をつくり、続いて三笑亭可楽(初代)が下谷神社の境内にも寄席を開いてからだといわれている。文化文政期(1804-1830年頃)には江戸の寄席は125軒に達したといわれるほど、庶民に愛された。

◇清水裕之

07 寄席発祥の地のひとつ : 下谷神社
Shitaya Shrine


地域に広がる伝統舞台
08農村舞台
Traditional Rural Theatre

1.土地の人の営みから生まれた劇場
 民族建築学者の竹内芳太郎は、全国各地に広がる農村舞台のことを、江戸や大阪などの大歌舞伎、あるいは興行を中心とした都市型の劇場との対比で、「野の舞台」と称した。農村舞台は、強いトップダウンではなく、地域の人々の営みの中からタケノコのように生まれてきたもので、まさに言い得て妙である。農村社会が変質した現在では、かつての隆盛はないものの、農村舞台は今でも各地に数多く保存されている。そして、地域によっては、地歌舞伎保存会などが立ち上がり、独自の芸能を継承しているのである。農村舞台といっても、その形態は多様であり、上演される演目やそれを支える地域社会の仕組みはさまざまである。
 全国の神社における神楽殿式舞台09は神事に使われたが、勧進興行のような出しものにも利用されていた。各地で能や歌舞伎踊りが催されるときには神楽殿も頻繁に使われたであろう。江戸時代に入ると、歌舞伎や人形浄瑠璃が盛んになり、それらの座元は大都市の公演のみならず、全国各地の巡業を行った。有名な一座も、江戸から関西、関西から江戸へと旅をして東海道や中山道などをめぐり、その道中でも芝居を打った。地域の好き者(物好きな人)は、それらの役者を見て、自分たちでも演じたいと思ったであろう。そうした結果、江戸期になると各地に歌舞伎や人形浄瑠璃の芝居小屋が形成され、旅の一座による買芝居だけでなく、地元の素人たちが演じる地芝居が上演されるようになった。
 日本の農村舞台はひとくくりにはできない多様な発展形態を持っている。しかし、地域に農村舞台を支える経済的、社会的システムをもつ土壌があったことがわかる。全部を網羅することはできないが、ここではその典型的な形を考察したい。
参照:竹内芳太郎『野の舞台』ドメス出版

2.岐阜県に残る歌舞伎小屋
 岐阜県の下呂、飛騨などにひろがる歌舞伎小屋03の一群である。これらは一世代前の神楽殿形式のように舞台のみを持ち、観客は屋外で鑑賞した形態とは異なり、舞台と客席を覆う天蓋(屋根)を持つ、完全屋内型の歌舞伎劇場型農村舞台である。江戸などで流行った廻り舞台などの仕掛けものが工夫されている本格的なものであった。江戸期から明治期に移行する中で、養蚕業が重要な輸出商品となり、全国の農村は大きく潤ってくる。そうした経済的背景がこれらの農村舞台を生んだ背景にあるのである。

08-A 白雲座
Hakuun-za

08-B かしも明治座
Kashimo Meijiza

08-C 鳳凰座
Hōō-za

08-D 東座
Azuma-za

08-E 常盤座
Tokiwa-za

08-F 村国座
Murakuni-za

3.大正・昭和時代の芝居小屋
 大正から昭和初期(1910-1930年代)、農村は経済的に裕福になり、商業目的で劇場に投資するという機運が各地で高まる。そうしてできた歌舞伎劇場形式03の芝居小屋は、運命共同体として運営される地芝居の農村舞台とは違い、地域の有志が出資し、利益を求めて運営されるものであった。
 投資目的でできたこれらの芝居小屋は、戦後の一時期、より多くの観客を集める映画館に様変わりした。その後映画が斜陽化すると、多くが廃業を余儀なくされた。現在まで生き残っているものはわずかである。

08-G 内子座
Uchiko-za

08-H 嘉穂劇場
Kaho-Theater

08-I 山鹿八千代座
Yachiyo-za

4.人形浄瑠璃の芝居小屋
 歌舞伎劇場と並んで紹介したいのは、徳島県阿波地方の人形浄瑠璃06の芝居小屋である。淡路島を含めた阿波地方は人形浄瑠璃発祥の地とされ、16世紀ごろから人形芝居が盛んであった。
 1615年にこの地を加増された阿波国守、蜂須賀家初代藩主の家政は、人形浄瑠璃を保護、奨励した。淡路の人形芝居が巡業に出るときは、まず徳島城下にて勧進興行をさせたという。
 このような土壌があったが、人形芝居型の阿波農村舞台が建設され始めたのは幕末である。これらは人形座といい、明治中期には最盛期を迎え、70以上があったともいわれている。人形座は江戸期から明治、大正にかけて幅広い時代にまたがって建設および改修が行われ、現在にいたっている。

08-J 犬飼農村舞台
Inukai Rural Community Theatre

08-K 今山農村舞台
Imayama Rural Community Theatre

08-L 拝宮農村舞台
Haigyu Rural Community Theatre

08-M 川俣農村舞台
Kawamata Rural Community Theatre

08-N 坂州農村舞台
Sakashu Rural Community Theatre

08-O 法市農村舞台
Hoichi Rural Community Theatre

5.能楽堂形式の農村舞台
 歌舞伎劇場形式、人形浄瑠璃劇場形式に加えて、もうひとつの農村舞台の舞台形式は、能楽堂形式02である。これは代表的に新潟県佐渡地方に見られる。佐渡は、奈良・平安時代から、主に思想犯の貴人の追放先である遠流の島であった。歌人としても名高い順徳天皇、日蓮宗の創始者である僧、日蓮聖人などにより、都の文化が移入された。能楽を完成させた世阿弥もそのひとりである。将軍足利義満の死亡後、後継者の足利義持は田楽(能楽以前の芸能のひとつ)を尊重したため、世阿弥は排斥され、1434年にこの佐渡に流された。ただし、世阿弥が島民に能楽を伝えたという記録は残っていない。
 江戸時代初期、金銀の鉱山を擁した佐渡は幕府の天領(直轄地)となったが、金山奉行に任命された大久保長安は、能役者の家の生まれであり、シテ方や囃子方など能楽師を同伴し佐渡に移住した。また、地元の名門本間家の初代本間秀信が、寛永18年(1641年)奈良で能楽を修めたのち帰郷。享保5年(1711年)佐渡奉行所より能太夫を委嘱され、佐渡宝生流が誕生した。このような事柄から、佐渡に住む人々の間で能が受け継がれるようになった。

◇清水裕之

08-P 佐渡大膳神社能舞台
Daizen Shrine Noh Stage

08-Q 本間家能舞台
The Honma Family’s Noh Stage


神に祈りを捧げ、踊り、人も楽しむ空間
09神楽殿式舞台
Kaguraden Theatre

神楽殿式舞台のなりたち
 能舞台、歌舞伎舞台とは異なる系譜に神楽の舞台がある。神楽は日本古来の芸能で、神事に深く結びついている。現在でも多くの神社に神楽殿が設置され、ことあるごとに、巫女らによる舞が奉納される。
 そのほかにも、各地にさまざまな神事として伝承されている神楽があり、演じられる内容にも、巫女舞、獅子舞、大きな釜に湯を沸かし、巫女が笹を浸して周囲にふりかける禊神事の湯立て、張子の面や大蛇などを出す演劇的舞などさまざまなものがある。神社の神楽殿のみならず、集落の住まいを使ったものもあり、愛知県奥三河地方で伝承されている花祭(図L)は、その事例である。
 建築形態として整った形をもつものは、各地の神社に備わっている神楽殿である。それらは屋根をもつ舞台空間である。竹内芳太郎は、建築としての神楽殿を見た場合、基本的に舞台の上には屋根があるが、その起源は無蓋式の舞楽舞台01が原型ではないかと推測している。
 この神楽舞台は神社の神事や地域の祭りなどの祭事の折に氏神に祈りをささげ、また、人々が余興を楽しむ空間であった。しかし、それらは時には神楽以外の芸能の勧進興行などにも使われた。そうした芸能空間が、中世以来、広く全国にわたって構築されていたことは、各地にさまざまな芸能行為が生まれ、人々がそれを楽しんでいた証であろう。神楽殿式舞台の存在は、江戸期から明治期にかけて立派に構築される地芝居の成立や、歌舞伎型、人形浄瑠璃型の農村舞台08の誕生に大きな影響を与えたのではないだろうか。

◇清水裕之


 COLUMN 
双子の芸能、歌舞伎と人形浄瑠璃

 元禄時代頃、歌舞伎はもうひとつの庶民芸能である人形浄瑠璃と結びつく。例えば、京都の四条河原では1676年、四条大橋東詰に7つの歌舞伎と人形浄瑠璃の小屋が並んでいた。
 歌舞伎と人形浄瑠璃は同じ場所を利用したのみならず、中身においても交流をした。その立役者に近松門左衛門と浄瑠璃語りの竹本義太夫がいる。近松門左衛門ははじめ浄瑠璃を書いていたが、歌舞伎役者の坂田藤十郎(初代)の座付き作者(専属の作家)となって、その後、再び竹本義太夫が興した人形操り一座の竹本座の作家となった。つまり、浄瑠璃と歌舞伎を行き来しているのである。
 歌舞伎と人形浄瑠璃は同じ演目を演じることもある双子の芸能である。人形は人間と違ってぎこちない動きになるが、歌舞伎ではそれを、わざと人形に似せて演技をする「人形振り」として取り入れることなどもある。また、人形は言葉を発しないため、浄瑠璃語りの太夫(語り手)と伴奏の三味線弾きがストーリーを展開し、そのための特別の小舞台である床(出語り床ともいう)が舞台上手に設けられる(図Jーa)など、劇場の構造は空間的に多元性をもったものとなっている。
 そのような多元性は歌舞伎にも移行し、下座音楽(演出効果のための唄・三味線・囃子)があり、時には義太夫節、常磐津や清元などの太夫による語りと三味線合奏が俳優の演技と混合する。おそらく、歌舞伎単独で発展したら、このようにさまざまな要素が絡みあう演劇にはならなかったであろう。

◇清水裕之

 

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