05 オペラ

05 オペラ劇場
Opera house

16世紀から始まる「バロック劇場」「イタリア式劇場」は、
発展しながら現代に続いてゆく

01 フェニーチェ劇場
02 スカラ座
03 バイロイト辺境伯歌劇場
04 ドロットニングホルム宮廷劇場
05 バイエルン国立歌劇場
06 ウィーン国立歌劇場
 COLUMN 

 INTRODUCTION 
バロック劇場の展開とオペラ・バレエの誕生

 ルネサンス期にローマ劇場の復活から始まった劇場形式は、16世紀以後、ヨーロッパの宮廷文化や王権制度などの社会構造の影響を受けて、複雑な変貌(へんぼう)を遂げてゆく。この形式を総称してバロック劇場と呼ぶ。
 バレエ作品はフランスで16世紀に誕生した。16世紀後半のフランスは、絶対王政の基盤が確立した時代である。絶対王政は、神から王が統治を委ねられる王権神授説(おうけんしんじゅせつ)に基づいている。王権は神から授与されたものであり、人民や聖職者などから拘束されることはないという考え方である。そこで、王が神から権力を与えられるにふさわしいことを示すために、結婚式や戴冠式(たいかんしき)などで、王が自ら主役を演じる演劇的スペクタクル(大掛かりな装置や演出を用いた壮大な作品)が催されるようになった。
 最初のバレエ作品は、1581年、ルーブル宮殿で行われたマルグリット・デ・ロレーヌ=ヴォードモン姫とアン・ド・ジョワイユーズの結婚式に上演された『王妃のバレエ・コミック』(図A)とされる。さらわれたアンドロメダ姫と英雄ペルセウスを主役とする神話の物語が演じられた。ペルセウスに扮した貴族ジョワイユーズ公が怪物に勝利して、アンドロメダに扮するマルグリッド姫を救い出し、平和な世が生まれるというスペクタクルが行われ、廷臣(ていしん)たちやルイーズ王妃を含む貴婦人たちもいろいろな役を演じた。それらの出演者は幾何学模様を描くように広間全体に広がり、ホールの側面にしつらえられた桟敷席(さじきせき)に招かれた庶民の前で演じられた。一点透視画法の額縁舞台に縛られずに、その反対側まで広がる貴族たちの演技を、側面上部から一般の観客が眺めるというダイナミックな劇場の構図が、バロック時代のスペクタクルの特徴であった。
 オペラは、バレエが芽吹きはじめたころ、イタリアで誕生している。フィレンツェのバルディ伯のもとに集まったカメラータと呼ばれる音楽家や詩人が、ギリシア劇の復活を求めて生まれたとされる。しかし同時期には、フランスで催されたような王族によるスペクタクルも行われた。一例は、1589年、フィレンツェのピッティ宮殿の中庭で、フェルディナンド一世とクリスティアーナの結婚式において行われた海戦劇(図B)である。本物のような帆船(はんせん)がしつらえられ、海戦が観客の目の前で再現された。オペラは、一方で古典への回帰を求めた研究志向を、もう一方で宮廷でのスペクタクルをもとに誕生したのである。
 もうひとつオペラ劇場の誕生に欠かせないのが、平土間席をぐるりと取り巻く、重層する桟敷(さじき)(高く設けた客席、バルコニー席)である。すでに1668年には、重層する桟敷を持つオペラハウス(図C)が、ウィーンに登場している。また、1688年、ヴェネツィアに旅行したスウェーデン人が書き残した葉書のスケッチには、重層した桟敷のある劇場が描かれている。テアトロ・ファルネーゼ(パネル03)が誕生した1619年から半世紀後には、バロック時代のオペラハウス(バロック劇場)の原型が完成しているのである。この形式の劇場はイタリア式劇場とも呼ばれ、建築家であると同時に、イベントを取り仕切る専門家としてのイタリア人一族の活躍により、瞬く間にヨーロッパ全体に広がった。そして、17~19世紀にかけて、イタリア式劇場の重層する桟敷席の先端には、きらびやかに飾られた貴賓席(きひんせき)が設定された。これによって、桟敷席に隣接する舞台のプロセニアム・アーチ(額縁)の存在感が際立つようになる。テアトロ・ファルネーゼの舞台を枠取るフレームが原型といわれるプロセニアム・アーチは、ここで発達を遂げたのである。
 バロック劇場は、イタリア人の劇場建築家が独特の職能として、ヨーロッパ各地の劇場設計を請け負うなかで発展し、ドイツのバイロイト辺境伯(へんきょうはく)歌劇場03、スウェーデンのドロットニングホルム宮廷劇場04などが誕生した。また同時に、一般観客にも門戸を開いたため、重層する桟敷席による客席構造を保ちながら、18世紀、19世紀を通して観客席の拡大化が収益性を求めて進行した。その過程でスカラ座02、バイエルン国立歌劇場05、ウィーン国立歌劇場06などの名劇場が誕生した。

◇清水裕之


火災から何度もよみがえった“不死鳥”劇場
01フェニーチェ劇場
Teatro la Fenice

 世界で最も美しい劇場と言われている。1792年に建設された。フェニーチェは不死鳥の意味であるが、その名の通り何度も火災に見舞われながらよみがえっている。近年では1996年に大火災にあって焼失したが、すぐに元の姿に再建されている。
 ヴェネツィアにおける最も古いオペラの上演記録は、1630年、クラウディオ・モンテヴェルディのオペラ『プロセルピナの略奪』の上演である。その時は総督の邸宅で行われたが、その後、17世紀の後半には、数多くの劇場が誕生したようである。ヴァネツィアの町全体が劇場街のような雰囲気だったのではないかと想像される。フェニーチェは1500席規模の劇場であり、19世紀になってひと回り規模が大きくなった劇場にくらべると小ぶりであるが、5層のバルコニー席(桟敷)を持つきらびやかな客席空間が特徴である。ジョアキーノ・ロッシーニ、ジャコモ・マイアベーア、ガエターノ・ドニゼッティ、ジュゼッペ・ヴェルディなどの有名な作曲家たちの作品が初演されている。

◇清水裕之

01 The Phoenix Theatre


数々の名舞台を生んだ世界的なオペラ大劇場
02スカラ座
Teatro alla Scala

 イタリアでもっとも有名なオペラハウス。オーストリア皇后マリア・テレジアの支援のもと、1778年にジュゼッペ・ピエルマリーニの設計により、建設された。こけら落とし(新築した劇場の初めての公演)は、アントニオ・サリエリの『見出されたエウローパ』である。
 初演された作品は星の数ほどあるが、ロッシーニの『泥棒かささぎ』(1817年)、ドニゼッティの『アンナ・ボレーナ』(1830年)、ヴィンチェンツォ・ベッリーニの『ノルマ』(1831年)、ヴェルディの『ナブッコ』(1842年)、『オテロ』(1887年)、『ファルスタッフ』(1893年)、ジャコモ・プッチーニの『蝶々夫人』(1904年)、『トゥーランドット』(1926年)などがある。そして、観客ばかりではなく、アルトゥーロ・トスカニーニ、マリア・カラスをはじめとする有名な指揮者、歌手、演奏家からも愛され続けている劇場である。
 スカラ座の客席数は2800席、6層の桟敷席を持つ、当時として最大規模の劇場である。ほかに18世紀につくられ、現在でも活動しているイタリアのオペラハウスは、ナポリのサン・カルロ劇場などがある。このように、劇場は18世紀から規模拡大の時代に入り、19世紀になるとウィーン国立歌劇場06、バイエルン国立歌劇場05、パリ・オペラ座(オペラ・ガルニエ)など巨大オペラハウスの建設ラッシュとなる。規模は拡大しても、重層するバルコニー席(桟敷)をもつイタリア形式の客席空間構造は踏襲された。

◇清水裕之

02 Theatre at La Scala


貴族の宮廷内につくられたオペラハウス
03バイロイト辺境伯歌劇場
Markgräfliches Opernhaus

ドイツのバイエルン州にある1748年完成のオペラハウス。バイロイト辺境伯フリードリヒ3世の妻、ヴィルヘルミーネ・フォン・プロイセンのために建てられた。劇場の設計はイタリアの有名な劇場建築家ファミリー、ビビエーナ一族のジュゼッペ・ガッリ・ビビエーナである。宮廷内にある450席の小劇場であるが、ヨーロッパでもっとも美しいバロック劇場といわれている。2012年に世界遺産となった。

◇清水裕之

03 Margravial Opera House


 


18世紀の伝統的な舞台装置が今も残る
04ドロットニングホルム宮廷劇場
Drottningholms slottsteater

 かつての舞台装置のままに現存するユニークな18世紀の劇場。スウェーデンのストックホルム、ドロットニングホルム宮殿に隣接している。ロヴィーサ・ウルリカ王妃の指示で、スウェーデン人建築家、カール・フレドリック・アデルクランツによって設計、1766年に建設された。また、1991年に世界遺産に登録された。
 立体的な背景装置ではなく、一点透視画法の書割(かきわり)(平面に描いた背景画)が再現されており、奥行きを優先させた、伝統的なイタリア式の空間としてつくられている。また、イタリアで発明されたさまざまな舞台の機械仕掛け(波の機械、雲の機械など)が残されている。(パネル03参照)

◇清水裕之

04 Drottningholm Palace Theatre


 


第二次大戦で破壊され、再建された大劇場
05バイエルン国立歌劇場
Bayerische Staatsoper

ドイツ、ミュンヘンにある歌劇場。1818年に建てられ、1854年に改修。ドイツは州が文化予算を持って劇場の運営を行っているので、バイエルン州立歌劇場と呼ぶこともあるが、かつてこの地に存在したバイエルン王国を反映して、今でも国立歌劇場と呼ばれることが多い。
 19世紀、大劇場の建築ラッシュの時代に建てられた劇場らしく、大規模な客席数を誇っている。リヒャルト・ワーグナーの作品『トリスタンとイゾルデ』(1865年)、『ニュルンベルクのマイスタージンガー』(1868年)、『ラインの黄金』(1869年)、『ワルキューレ』(1870年)などの初演が行われている。第二次世界大戦でほぼ破壊されたが、外観などは基本的に昔のままに再建されている。客席の構造もほぼ同じであるが、かつて桟敷席はボックス席になっていた、現在はボックスの仕切りが取り払われて見やすく改修されている。
 この建物の横には、現在でも公演を行っている旧宮廷劇場のキュビリエ劇場(1753年完成)がある。キュビリエ劇場は小規模な劇場であり、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトらが活躍し、『イドメネオ』(1781年)などが初演されている。モーツァルトのような小規模な空間が似合う18世紀のオペラと、ワーグナーのような大規模な空間が似合う19世紀のオペラを両方の劇場で体験してみると、劇場と作品の関係性がとてもよくわかる。機会があれば、ぜひ試してほしい。

◇清水裕之

05 Bavarian State Opera


 


壮大なオペラが似合う19世紀の巨大歌劇場
06ウィーン国立歌劇場
Wiener Staatsoper

 1869年完成のオーストリア最大のオペラハウス。ミラノのスカラ座02、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場とともに、世界3大歌劇場とも呼ばれている。第二次世界大戦で被災したが、1955年に再建された。現在の客席数は2100席であるが、かつてはもっと多くの観客を収容していた。19世紀の巨大歌劇場のひとつであり、重層する桟敷を持つイタリア形式の空間である。
 こけら落としはモーツァルトの『ドン・ジョバンニ』であったが、大規模なオペラが似合う劇場でもある。20世紀になるとリヒャルト・シュトラウスの『ナクソス島のアリアドネ』(1916年)、『影のない女』(1919年)などが初演されている。
 1階の平土間席のすぐ後ろと最上階には立見席が用意されていて、コーヒー1杯程度の価格でオペラを見ることができる。早くからチケットを得るために1日並ぶ覚悟があれば、1階席の立ち見席はお勧めできる。ただし、入口は正面とは違う場所になるので、注意が必要である。

◇清水裕之

06 Vienna State Opera


 


 COLUMN 
Dr.SHIMIZUの特別講義
20世紀オペラ劇場の舞台機構改革

1.電気照明の普及とホリゾントの発明
 1879年にトーマス・エジソンが電灯を発明した後、20世紀に入り、劇場には一気に電気照明が普及する。それまでのオイルランプやガス灯などに比べ、明暗の制御やカラーの交換が楽になり、演出の可能性が飛躍的に広がったからである。電気照明の普及は劇場の形態を変える大きな力になったのだが、その特徴的なものがホリゾントである。ホリゾントは、舞台のアクティングエリア(俳優が演技するスペース)を光透過性の布で四分球状(球体を4分割した形状)に覆い、客席から見るとアクティングエリアが大きな光の空に包まれているように見える装置である(ドーム型の舞台背景幕を意味するクッペル・ホリゾントと言う)。マリアーノ・フォーチュニーが発明し、その後、ドイツの劇場を中心に広く導入された。四分球状に上下左右が三次元で湾曲するクッペル・ホリゾントは舞台転換などでの支障が大きいため、高さ方向はまっすぐにして、円筒形を半分にした形状で舞台をコの字に取り囲むルント・ホリゾントが常設されるようになった。

2.舞台装置の立体化と舞台設備の改革
 19世紀までの舞台装置は平らな板や幕に絵が描かれた二次元的なものを使用していた。それが19世紀後半から20世紀に入ると、リアリズム演劇や構成主義演劇などの影響を受けつつ、舞台装置は三次元的なものを利用するように変わってゆく。その演出理論の骨格を形成したのがアドルフ・アッピアである。かれは光と影による立体的な舞台空間を提唱したが、そこでは抽象的な円柱や階段などの立体を基本とする空間形態が用いられている。(パネル08参照)
 第一次世界大戦から第二次世界大戦の間に、そうした演出傾向が受け入れられるようになると、舞台装置は平板な板や幕を吊る、あるいは移動させるのではなく、三次元の形のまま移動させる必要が生まれ、舞台全体を覆う()り(エレベーター)機構や、舞台装置を横滑りのように動かすスライディング・ステージ、あるいは立体的な舞台装置を回転させて舞台転換させる回り舞台などが開発された。こうして、特に、大掛かりな舞台装置の転換を期待されるオペラハウスを中心に舞台設備の改革が行われたのである。このような舞台機構の新しいシステムは第2次世界大戦前夜までにドイツでほぼ完成していたが、戦争により劇場がほとんど破壊されたため、戦後の復興において、革新的な舞台設備システムの導入が一気に図られた。

3.第二次世界大戦後の舞台機構
 ヨーロッパの劇場はその改修時において、客席空間は歴史的デザインを保存するように継承されることが多いが、舞台空間はその時々の演出要求に応えるように、どんどん機能更新される。その代表例が、1943年の空襲により全壊し、その後1958〜1963年にかけて舞台設備が大改修されたバイエルン国立歌劇場(パネル05参照)である。当時は電気の導入により、スポットライトなどの舞台照明や舞台機構の動力化が行われた。
 ドイツは第二次世界大戦で大きな破壊を受けたため、がれきの中からの復興を行い、同時に舞台空間と舞台設備の大革新がなされた。この新しい舞台は独特のもので、壮大な舞台機構設備を有する。これまでの劇場の舞台は、客席から見えるアクティングエリアと、その左右、客席から見えない部分(袖)にある袖幕類と俳優の待機のための空間を合わせた主舞台のみの形が多かった(オペラ・ガルニエなど一部の例を除く)。戦後の改革では、主舞台の後方と左右に主舞台と同じ広さを持つ3つの副舞台が設けられた。それぞれにアクティングエリアと同じ大きさの回り舞台や迫り装置、舞台装置を吊り下げる吊物機構、アクティングエリアを覆うルント・ホリゾントなどの仕組みが整えられることによって、オペラのような大掛かりな舞台装置の転換を一気に行うことが可能になった(なお、ルント・ホリゾントは現在では利用されなくなり、撤去されている)。
 こうした四面舞台を有する大劇場は、ベルリン・ドイツ・オペラ、バイエルン国立歌劇場(田の字型の変形四面舞台)、メトロポリタン歌劇場など世界のオペラハウスの定形となり、日本では愛知県芸術劇場大劇場大ホール、新国立劇場オペラパレス、アクトシティ浜松大ホールなどで見ることができる。

◇清水裕之

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