08 劇場改革と大演出家
Theatrical Innovations & Great Directors
演出理論の変革が、現代につながる新しい劇場を生み出した
19世紀末、ワーグナーが口火を切ったオペラ劇場の改革
01バイロイト祝祭劇場
Bayreuther Festspielhaus
オペラにおいては、19世紀後半、作曲家リヒャルト・ワーグナーが、建築家ゴットフリート・ゼンパーの力を借りて劇場改革を推進した。そして1876年、バイロイト祝祭劇場の完成により、20世紀に向けた新しい劇場の形が誕生した。
客席のどこからでも同じように聴こえ、同じように見えることが、現代の劇場設計においては最も重要な設計指針になっている。そのような均質な客席空間を実現したのがこのバイロイト祝祭劇場である。ワーグナーとゼンパーは、ミュンヘン祝祭劇場の計画で初めてそのコンセプトを提案したが、実現には至らなかった。ワーグナーは、艱難辛苦を乗り越え、バイロイト祝祭劇場で、ようやくそのコンセプトを実現させた。最終的な設計はオットー・ブリュックバルトである。完成の年に第1回バイロイト音楽祭が開催され、現在も、毎夏、ワーグナーのオペラ・楽劇を上演している。
この劇場にはいくつかの仕掛けがある。客席は古代の劇場のような扇形の傾斜の強いすり鉢状になっている。イタリア式の劇場(パネル05参照)のようなボックスに分割されたバルコニー席は廃止されている。ワーグナーは革命家の側面も持ち、貴族社会の習慣には否定的であった。特に、自分が真剣につくる作品を見に来るというよりも、社交の場として利用しようとするボックス席の客は不要な存在であったのである。オーケストラピットは深く掘られ、舞台の下まで潜り込んでいる。客席側には大きな覆いがかけられ、指揮者の姿すら見えないように工夫されている。ワーグナー自身が神秘の淵と呼んだそのオーケストラピットからは、音だけが湧き出てくる。舞台の前面には2重のプロセニアムアーチ(図A参照)があり、内側のアーチが小さくつくられている。その透視画法的な影響で、舞台は実際よりも大きく、奥が深く見えるようになっている。舞台では音がすべての視覚的なものを支配するように計画されているのである。
しかし、ワーグナーが活動した当時の舞台装置は、基本的に書割(平面に描かれた絵画を利用した舞台背景)であり、透視画法を使ってはいたが、真に立体的ではなかった。これに対して、のちにスイスの舞台美術家アドルフ・アッピア08が光と影を使った革新的な提案を行うのだが、ワーグナーの死後、バイロイト音楽祭を継いだ妻コジマ・ワーグナーにも光と影の空間構成は受け入れてもらえず、孫のヴィーラント・ワーグナーの時代まで待たなくてはならなかった。
◇清水裕之
01 Bayreuth Festival Theatre
人間の内面を描き出す、新しい演劇のための小劇場
02アンドレ・アントワーヌと自由劇場
André Antoine / Théâtre-Libre
「リアリズム演劇(写実演劇)」は、1887年、パリで、アンドレ・アントワーヌが始めた自由劇場が嚆矢(発端)である。19世紀の演劇は、劇の内面よりも俳優のうまさが優先するスターシステムが支配し、俳優は大げさな身振り、語りで観客をひきつけようとした。これに対して、リアリズム演劇は大げさな演技を否定し、つくりものではない、登場人物の内面をえぐり出そうとする試みであった。アントワーヌは、エミール・ゾラやヘンリック・イプセンの作品を手掛け、新しい演劇表現を提出した。イプセンの『人形の家』(1879年)が代表するように、社会システムの中でしいたげられた女性のような矛盾的存在を正面から扱い、従来の悲劇や喜劇のような勧善懲悪、予定調和のストーリーから演劇を大きく転回させた。劇場は小劇場であったが、その形は現在のところ不明。
◇清水裕之
02 Free Theatre
プロセニアム・アーチの劇場に、「第4の壁」という概念を与えた
03スタニスラフスキーとモスクワ芸術座
Константи́н Серге́евич Станисла́вский /
Московский Художественный Академический Театр
日本の近代演劇に最も大きく影響を与えたのは、モスクワ芸術座であろう。特に小山内薫がこの劇場で観て、記録し、持ち帰った演出ノートが、わが国最初の近代演劇の劇場である築地小劇場(1924年創立)の活動に強く影響を与えた。
組織としてのモスクワ芸術座は、コンスタンチン・スタニスラフスキーとヴラジーミル・ネミローヴィチ=ダンチェンコによって1897年に設立された。建物としてのモスクワ芸術座は1898年に始まる。ここで推し進められた「リアリズム演劇」と演技理論「スタニスラフスキー・システム」は、世界の演劇に大きな影響を及ぼした。リアリズムとは型の演技ではなく、役を演じる俳優の潜在意識を呼び覚まさせて「役を生きる芸術」をつくりだすことであった。スタニスラフスキー・システムは、リアリズム演劇の実践的な教科書のような役割を果たした。
さて、リアリズム演劇は、バロックの時代(パネル05参照)の演劇とは大きくかけ離れたものとなったが、劇場はどのように変わったのであろうか。実はそれほど大きく変わっていないのである。劇場の形態は、それまでのプロセニアム・アーチによって舞台と客席が分離された形態を踏襲している。モスクワ芸術座もプロセニアム形式の劇場である(図B参照)。しかし、プロセニアム・アーチによる空間分離に具体的な理論が与えられた。それが「第4の壁」である。この言葉はリアリズム演劇の概念と一緒に形成されたが、いつ発生したかは定かではない。
舞台の奥と左右には、もともと舞台装置による壁がある。リアリズム演劇においては、それがまさにリアルに生きる空間となり、観客は客席と舞台との間にある(透明な、概念としての)4番目の壁からその情景を眺める。リアリズムと第4の壁が、プロセニアム・アーチに近代の存在意義を改めて与えたのである。
◇清水裕之
03 Moscow Art Theatre
抽象的で簡素な小劇場のつくりが、近代の建築理論とリンク
04ジャック・コポーとヴィユ・コロンビエ劇場
Jacques Copeau / Théâtre du Vieux-Colombier
ジャック・コポーは、フランス現代演劇の開拓者。ヴィユ・コロンビエ劇場は、1913年に彼が古い劇場を借り、改修して利用した小劇場である。ジャック・コポーはここで、抽象的で簡素な舞台装置を用い、無駄のない芝居を演出した。
建築の歴史と重ねあわせてみると、ちょうどこの頃、オーストリアの建築家、アドルフ・ロースが、1908年に装飾罪悪論を宣言し、その理念を1910年、ウィーンのシュタイナー邸で具体化した。1922年には建築家ル・コルビュジエが、 ピエール・ジャンヌレと共同でフランス・パリに事務所を構えている。時代は、近代のデザイン理論をまさに生み出そうとしており、コポーによる演劇の舞台もその傾向を見事に反映していたのではないだろうか。
なお、ヴィユ・コロンビエ劇場にはプロセニアム・アーチはないように見えるが、かすかにその枠組みが残されているようにも見える(図C参照)。ただし、プロセニアム・アーチの前に舞台が張り出している。このような前舞台のしつらえは、日本で最初の近代演劇劇場である築地小劇場の空間構成にも見受けられる。
◇清水裕之
04 Old Colombier Theater
プロレタリアート演劇とバウハウス建築。革新的な手法が融合した未完の劇場
05ピスカトールとグロピウスによるトータルシアター
Erwin Piscator&Walter Adolph Georg Gropius / Total Theater
エルヴィン・ピスカトールはドイツの演出家。ベルトルト・ブレヒト06とともに叙事的演劇の推進者。表現主義演劇に参加したのち、労働者革命を目指すプロレタリア演劇を始めた。彼は、演劇を舞台芸術そのもののためにつくるというよりは、むしろ目指す政治的理念の達成のために活用するという意図が明確であった。その手法として、もうひとりの大演出家ベルトルト・ブレヒトとともに叙事的演劇を提唱し、対比的劇作法を用いたのであった。演出においては、建築足場を用いた抽象的な舞台装置や、静止画や映画的投影法などを用いる革新的な手法を編み出した。
彼は、建築家ヴァルター・グロピウス率いるバウハウス運動と出会い、1927年に「エルヴィン・ピスカトールのためのトータルシアター」のプロジェクトが生まれた。実現はしなかったが、グロピウスによる設計プランが残っている(図D)。プロセニアム・アーチのない劇場のため、観客は舞台と均質な空間を構成しつつ、一方でその前半分が円形の回り舞台になっている。その回り舞台には偏心した位置に丸い舞台がつくられている。それを回転することで、舞台は客席の間に取り囲まれてセンターステージ(図D-b)になったり、客席と向き合う位置に移動してエンドステージ(図D-a)になったりする。さらに、その舞台と観客席全体をぐるりと囲むように、円環状の舞台が設けられている。サーカス小屋などがヒントになったようだが、モダニズム建築の理論と合体することで、それまでのプロセニアム形式の劇場を一新するような新しい形式が提案された。
◇清水裕之
05 Total Theatre Project
革命的な演出家が、古めかしい劇場を本拠地に選んだ不思議
06ベルトルト・ブレヒトとベルリーナー・アンサンブルのシッフバウアーダム劇場
Bertolt Brecht&Berliner Ensemble / Theatre am Schiffbauerdamm
ベルトルト・ブレヒトがピスカトール05の理論を独自に発展させた叙事的演劇とは、観客を作品に感情移入させて引き込むことではなく、むしろ、その時代の社会的、政治的課題を浮き彫りにして、理性的に認識させる演劇的作法である。
叙事的演劇の最も重要な特徴は、異化効果(Verfremdung)である。例えば、あるかわいそうな事件が起こる。そこで観客に「ああ、かわいそうだ。悲しいな」と感情移入させるのではなく、「何で、こんな事態になったのだ。それを避けることはできなかったのだろうか」というような客観的、批判的な見方をうながすのである。そのために、俳優にあえて仮面をつけさせたり、プラカードを登場させたりして、ある種、円滑な筋の展開を止め、舞台に違和感を生み出す方法をとった。
この手法は、20世紀後半の演劇運動に大きな刺激を与えた。ブレヒトは1927年より作曲家のクルト・ヴァイルと一緒に仕事をするようになり、有名な『三文オペラ』(1928年)を生み出した。ここでひとつ不思議なことがある。政治的革命を意識したブレヒトが、彼の劇団ベルリーナー・アンサンブルの根拠地として選んだシッフバウアーダム劇場は、1892年に建てられた、古いプロセニアム・アーチ形式で装飾性に富んだ内装を持つ劇場である(図E参照)。『三文オペラ』の初演もここで行われた。ブレヒトであれば、もっと新しい形の劇場を構築したようにも思われるのだが、どうしてだろうか。ブレヒト流のアイロニーであり、劇場にまで異化効果を及ぼそうとしたのであろうか。謎である。
◇清水裕之
06 Schiffbauerdamm Theatre
表現主義は、中世の聖史劇に通じる演劇と独特な構造の劇場にあらわれた
07マックス・ラインハルトとベルリン大劇場
Max Reinhardt / Großes Schauspielhaus
マックス・ラインハルトはオーストリア人の演出家である。ラインハルトは、表現主義的な演劇として、中世の広場での聖史劇(パネル02参照)を意識したような演出を試みている。その代表がフーゴー・フォン・ホーフマンスタール作の『イェーダーマン』の演出(1912年ベルリンのシューマンサーカス、1920年ザルツブルグの大寺院前広場で上演)である。ラインハルトはそうした考え方を劇場に反映させて、表現主義の建築家、ハンス・ペルツィヒ設計のベルリン大劇場で1919年に演出を行っている。この劇場は、洞窟のようなおどろおどろしい観客席と大きく張り出した舞台を持つ独特の構造をもっていた。
◇清水裕之
07 Great Theatre
シンプルな長方形の空間は、現在の「スタジオ」の始まり
08ダルクローズ及びアッピアとヘレラウ祝祭劇場
Emile Jaques-Dalcroze & Adophe Appia / Festspielhaus Hellerau
エミール・ジャック・ダルクローズは、日本では音楽教育の手法であるリトミックの創始者として有名であるが、ダンスにも新しい地平を与えた。ダルクローズは1910年にドイツ、ドレスデン郊外のヘレラウにて、自身の研究所を設立した。ちなみにヘレラウは、イギリス人都市計画家エベネザー・ハワードが提唱した「田園都市」構想に共感した家具工房職人のカール・シュミットが、建築家リヒャルト・リーマーシュミット、ハインリヒ・テッセノウなどとともに1909年に作り上げた緑豊かな新興都市である。ダルクローズはその一端に祝祭劇場をつくるという計画で招かれたのである。
ヘレラウ祝祭劇場(ダルクローズ研究所)には、プロセニアム形式の劇場はなく、奥行き50m、幅16m、高さ12mの大きな長方形の広間が実践空間として用意された。現在の呼び方ではスタジオである。この空間で、ダルクローズはリトミック理論に基づいたパフォーマンスを実践するのだが、その理論を空間の理論に結びつけてデザインしたのが、スイス人の舞台美術家・照明家のアドルフ・アッピアである。アッピアはワーグナーのオペラとその楽劇理論に感銘を受けながら、現実のワーグナーのオペラの舞台装置が、その理念とはかけ離れていることを察知し、ワーグナーが主張するように「音が舞台のすべてを支配する」のであれば、その空間は、光と影で形成されるべきだと唱えたのである。
アッピアの考え方はセンセーショナルであり、バイロイト祝祭劇場01での公演においては、ワーグナーの後を受けてバイロイト音楽祭を主催した妻コジマの理解を得ることはなかったが、ダルクローズは共感し、ヘレラウの研究所で光と影と身体(リトミック)による新しい舞台を創出した。長方形の空間を半透明の布で覆い、その後ろから電球で光を当てることで、空間全体がボーと光るような演出を行ったのである。そこには光の宇宙に囲まれた空間が出現した。そしてその中には抽象的な階段で構成された舞台がしつらえられた。これは画期的なことであった。
◇清水裕之
08 Hellerau Festival House
もともと劇場でない空間を観客と演技者が共有する
09ペーター・シュタインとシャウビューネ
Peter Stein / Schaubühne
ペーター・シュタインはドイツの演出家。彼は、シャウビューネの芸術監督を1970年から15年間務め、ベルリン市内の古い多目的ホール(09-01)を使って演出を行った。
彼が構築したのは、観客と演技者が一体の空間を共有する、いわゆる環境装置としての劇場である。『ペール・ギュント』(1971年上演)では、劇場内全体に広がる舞台装置である「丘」(図G参照)がその役割を果たしており、場面の転換は、その基本装置上で、演技の位置を移動させたり、あるいは小さな道具類を交換したりという、象徴的な手法を用いて行われる。
ベルトルト・ブレヒトなどによる演劇手法の開発により、舞台に不要なものは一切排除するというようなリアリズム演劇の潔癖な演出作法から解放された現代演劇では、むしろ、異質なもの、不要なものなども「あるもの」として受け入れ、舞台とともに観客も空間全体の在り方を共有できるような、環境装置としての劇場空間を生んだのである。
それは後述の太陽劇団10などにも共通することであるが、この世代の演出家は、もとから「劇場」としてつくられた空間でのキャリアを積むことよりも、独自の演出理論を実現させるために、倉庫や廃墟などの劇場ではない既存空間を活用することから始めたものが多く、その空間と共存せざるを得なかったという背景もあるかもしれない。しかし、その過程はともあれ、動かしがたく存在感を示す既存の空間と違和感の中で付き合う方法が、新しい演劇の作法を生んだことも確かであろう。
なお、ペーター・シュタインは、のちに表現主義の建築家エーリッヒ・メンデルスゾーン設計の古い映画館を改装したレニーナ広場に面する新しいシャウビューネ(09-02)に移った。この劇場は、巨大な細長い空間を可動壁で3分割することができる構造であり、床は全面昇降可能な迫りで構成されており、舞台と客席が自由に設定できる構造となっている。
◇清水裕之
09-01 Schaubühne am Halleschen Ufer Theatre on Hallesche Riverban
09-02 Schaubühne am Lehniner Platz Theatre on Lehniner Square
古く、広大な弾薬倉庫跡を、共同生活・共同創作・上演の場所に
10アリアーヌ・ムヌーシュキンの太陽劇団と旧弾薬倉庫
Ariane Mnouchkine & Théâtre du Soleil / Cartoucherie
アリアーヌ・ムヌーシュキンはフランスの演出家。1964年に太陽劇団を創設。労働生産組合として、裏方も俳優もメンバー全員がすべて同等の権利と義務を有するという考え方で設立されている。彼らの拠点はパリ郊外にある旧弾薬倉庫(カルトゥーシュリ)であった。太陽劇団は『堤防の上の鼓手』(1999年)で日本の文楽の要素を俳優の演技に取り入れたように、異質なものをも柔軟に受け入れてゆく。このことは、ペーター・シュタインの環境装置としての舞台と共通する同時代性を持っている。
◇清水裕之
10 Cartridge factory
SUMMARY
旧近現代の劇場空間の変質の総括
1.ゆりかごから退廃へ
ヨーロッパの演劇は、ルネサンス期に室内に演技の場を移し、透視画法やさまざまなからくりの開発で、劇場を「ゆりかご」として発達させた(パネル03〜05参照)。そして19世紀に至るまで、演劇は、劇場というゆりかごの中で大衆化し、同時に娯楽化する。スターシステム(人気の出演者ありきの作品で観客を呼ぶ興行)によって強調されたお定まりの演技、過剰ともいえるデコレーション(舞台装置)などが繰り返され、理念的な部分が見えなくなり、劇場と演劇はともに「退廃」してゆく。
そこで登場したことのひとつが、リヒャルト・ワーグナーによるバイロイト祝祭劇場01の改革である。劇の本質は音楽にすべてがあると考えるワーグナーは、オペラにおける真の芸術性を獲得するために、貴族社会の社会制度の反映であった、劇場の社交場としての性格を否定し、その温床であったボックス席を廃止した。
また、演劇においては、「リアリズム演劇」がその口火を切った。アンドレ・アントワーヌが自由劇場02を結成し、社会や人間の矛盾を心の深層から描き出すような活動を起こした。そして、それは、コンスタンチン・スタニスラフスキーらによって設立されたモスクワ芸術座03などに踏襲される。スタニスラフスキーはリアリズム演劇を俳優術として成立させる理論「スタニスラフスキー・システム」を大成した。
2.第4の壁
アンドレ・アントワーヌもスタニスラフスキーも、劇場の形態を大きく変化させるような主張は行っていない。基本的に舞台と客席が額縁を通して向かい合う、プロセニアム・ステージ形式の劇場を利用している。それはバロック時代の劇場(パネル05参照)と同じ構造である。
リアリズム演劇によって、劇場空間の認知が大きく変わったのは、プロセニアム・ステージ形式の劇場における舞台と観客の関係の意味づけである。リアリズム演劇においては、あるリアルなできごとが舞台上で展開する。観客はそれを、「(舞台と客席の間にある)4番目の壁が透明だ」という前提で眺めるのである。バイロイト祝祭劇場01での改革はプロセニアムの奥、つまり舞台についてはほとんど変革がなく、変わったのは均質化された客席であった。その意味では、ワーグナーの劇場改革は、リアリズム演劇とはいわないが、均質化された大衆が、舞台の出来事を第4の壁を通して眺めるという枠組みを無意識のうちに構築していたのではないだろうか。
3.舞台からの飛び出し
テアトロ・ファルネーゼの空間が示唆するように、ルネッサンスからバロックにかけての演劇(パネル03〜05参照)は、プロセニアム・アーチの向こう側に透視画法とからくりを駆使した魔法の空間を構築すると同時に、プロセニアム・アーチを飛び出し、観客の真っただ中で演技する破壊的なエネルギーを持っていた。そのような舞台と観客が渾然一体となる構造は、中世の聖史劇(パネル02参照)と共通するものである。第4の壁理論が舞台をプロセニアム・アーチの向こう側に閉じ込めることで、舞台のリアリティを確保しようとしたのに対して、それと反対に舞台から飛び出そうとする試みも同時代的に発生する。マックス・ラインハルトが、1912年ベルリンのシューマンサーカスで初演し、1920年ザルツブルグの大寺院前広場で野外劇として上演、大成功を収めたホーフマンスタール作の『イェーダーマン』の演出がその典型である。また表現主義の建築家、ハンス・ペルツィヒが設計し1919年に完成したベルリン大劇場07がその建築的形態である。
4.舞台の抽象化と、何もない空間
1920年前後はリアリズム、表現主義など、さまざまな方向性を持つ芸術運動が、さまざまな分野で同時多発的に行われていた。そして、時代は次第に、ル・コルビュジエやバウハウスが先導する機能主義運動に転換する。ジャック・コポーが活動した時代が、まさにその転換期であった。簡素で抽象的な舞台装置による演出が時代をうまくとらえた。ジャック・コポーの活動したヴィユ・コロンビエ座04はほとんど消え去るような形であるがプロセニアム・アーチの形態を持っている。しかし、こうした抽象的で簡素な舞台装置が、後の時代の脱プロセニアム・アーチ運動へと繋がってゆくと考えることができるだろう。
脱プロセニアム・アーチの劇場は、エミール・ダルクローズとアドルフ・アッピアによるヘレラウのダルクローズ研究所の空間08や、エルヴィン・ピスカトールとワルター・グロピウスによるトータルシアタープロジェクト05として登場する。しかし、それが建築ムーブメントとして展開するのは戦後である。アメリカやイギリス、ドイツなど各地で、いわゆる実験劇場が登場する。それは、舞台と観客がプロセニアム・アーチを介することなく、ひとつの空間で出会うような形であり、舞台をセンターに持つもの、端に持つものなどさまざまな形が提案され、実現する。これらの劇場の形は、全体的に黒い箱のようなイメージを持っており、のちに「ブラックボックス」と命名される。このような動きは、演出家ピーター・ブルックの書『なにもない空間』(1968年)によってさらに触発された。
5.劇場でないものを劇場に
ペーター・シュタインやアリアーヌ・ムヌーシュキンらは、自らの活動を、その受け皿として設備の整った劇場ではなく、多目的ホール09や旧弾薬倉庫10など、他の用途に使われていた既存空間を再利用することから始めた。そこでは、動かしがたい空間と対峙することになる。どうやって演劇空間を成立させるか、そのためには、既存空間とのせめぎあいを前提とした共存を図ることになる。
アフォーダンスという言葉がある。あるもの(ある存在)が、人にある行為を促す傾向のことである。建築は特にその傾向が強い。劇場でない空間であっても、何らかの働きかけで、その中でのパフォーマンスを誘導する。そして、その誘導は思いもかけない出会いを演劇にもたらす。いわば、演劇とは異質な建築空間の存在感が、そこで行われる行為に複雑性、多義性を内在化させ、舞台に異化効果を発揮させるのである。現代の演劇空間は、そのようなところまで到達している。
◇清水裕之