2025年10月4日(土)の『弱法師』終演後、社会学者でありSPAC文芸部でもある大澤真幸、『弱法師』を演出し「SPAC秋のシーズン2025-2026」アーティスティック・ディレクターでもある石神夏希、そして司会に『弱法師』出演俳優の布施安寿香を迎えたアーティストトークが行われました。
作品を読み解く大澤の思考、『弱法師』の演出と「秋のシーズン」に込めた石神の想いが浮かび上がったトークを抜粋してお伝えします。
「三島が“落とせなかった”ところを、落とした」——大澤真幸
この『弱法師』という作品には、三島の“迷い”があるような気がするんです。つまり、うまく“落ちて”ない。俊徳が調停委員の桜間級子によって救われる方向に持っていこうとしているんですが、それをうまく落とせてない。最後の方に重要な会話があります。俊徳が「この世のおわりの焔」が見えると言うところです。これは俊徳にとって、最も重要な生きる意味そのものになっています。俊徳は戦災で目が焼かれてしまい視力を失っているのですが、この世界における最も本質的なものは見えている、というわけです。ところが級子は、「いいえ、見ないわ」と言ってしまう。考えてみると、すごく残酷なことを言っています。自分の中にこれ以上大事なものがないというものがあるのに、それを否定してしまっているわけですから。三島は、否定することでかえって俊徳が救われる、という話をつくろうとしているのですが、三島自身がうまく落とせていません。つまり、なぜ一番重要なものを否定したことが、逆に救いになるのかということの意味を三島自身がうまく落とせてない。その落とせてないところを今回の上演が落としたわけです。
演出上の工夫によって、「この世のおわりの焔」が見えるということと、それを見ないということの二つは、実は別のことではなくて同じことに帰する、ということになっています。「見ない」と言った級子は、実は否定してない、ということになる。三島の原作を読むと、最後は「俊徳一人ぽつねんと残っている」とあります。これだと、俊徳は救われたのか、それとも捨てられたのかがよく分からない。ここに三島の迷いが出ているのですが、石神さんはその迷いを立ち切った。つまり、救ったわけです。
「三島さんを諦めない」——石神夏希
稽古の最初の段階では、自分とこの作品の間にものすごく距離がありました。この物語のおもしろさがちょっとよくわからないというか、三島さん的な美学みたいなものはある意味よく表れているし、原作からのアダプテーションもよく分かるんだけれども、いまを生きる自分にとってどういうふうにこの作品を引き取っていいかわからない、三島さんという人とどう向き合っていいかわからない、という感じでした。大澤さんのお話を伺って、自分なりに思うところで言いますと、「三島さんを諦めない」ということでしょうか。最後に一人取り残される俊徳が三島さんに見えてしまうんです。三島さんご自身の孤独とか葛藤をすごく投影されてる役だなと感じたんですね。その三島さん(俊徳)は一生懸命この葛藤を乗り越えて救われようとしているみたいだけど、最後は結局自ら拒否してしまうような感じでひとり取り残されてしまう。夕闇が訪れてパチンとつけた蛍光灯がこうこうと照る部屋で一人残される。繰り返される上演の中で、俊徳がずっと永遠に取り残され続けるとしたらちょっと辛いなと思ったんです。三島さんの魂みたいなものが投影されているとしたら、この魂をどうやったらこの部屋から連れ出せるのか、ということは演出を考える上での願いというか意地みたいな気持ちはあったのかなと思います。
「三島らしからぬ“迷い”が、本当は重要だと思う」——大澤真幸
三島が俊徳に自分を重ねていることは間違いないです。非常に三島的なタイプの人間に造形されていて、彼はそこに自分を重ねている。ただ、ちょっと三島的じゃないところがある。最後、俊徳は級子の方に向かっていきます。三島のほとんどの作品は、俊徳的人物の悪魔性を最後まで突きつけるというやり方です。『金閣寺』は三島の初期の代表作ですが、今日も出てきたように「火」というのは三島的テーマなんです。金閣寺というのは美の最高の結晶だが、その美は炎で焼かれることによって完成するんだ、というすごい執念があるんです。だから主人公は最後に本当に金閣寺に火をつけてしまう。それで『金閣寺』は終わるわけです。
同じように考えると『弱法師』では、「この世のおわりの焔」を見たという話が三島の主題なんです。ところがそれをあえて否定することで、むしろもっと深い救いがある、という構造になっていて、こういう作品が三島にはいくつかあるんです。で、そこに三島の迷いがあらわれているわけです。「やっぱり俊徳を俊徳らしくしたい」という気持ちと、「いや、ちょっと違うぞ」という迷いです。この三島らしからぬ迷いが、三島にとって本当はすごく重要なものだと僕は思っています。『サド侯爵夫人』もルネという主人公がサド侯爵のために人生を賭けているわけです。ところが最後、サドがせっかくやってきたのに会わないで終わりになっちゃう。一番大事なものがついに得られたのにそれを拒否することで終わるという形になっている。『弱法師』でも、級子が「見ない」と言う。見えるはずだと俊徳は言うけど、「見ない」と言って否定されてしまう。それを演出の工夫によって、見ることと見ないことは、実はメビウスの帯のように繋がっているんだ、という暗示をしているわけです。

「三島の中で開化しきれなかったポテンシャルを取り出した」——大澤真幸
では、一見対立するものが実は繋がっている、というのはどういうことなのか?例えば、キリスト教の文脈にいると考えてください。子どもが牧師さんに「神様のお顔ってどういうお顔なの?神様のお顔を見たいよ」と言ったとするじゃないですか。この神様の顔が先ほど言った「この世のおわりの焔」のことだと思ってください。で、その時ね、優れた牧師さんだったらこう言うと思うんです。「お母さんがあなたに微笑みかけると嬉しいような気分になるよね」と。「お兄ちゃんを見てごらん。お兄ちゃんはこの子は可愛いなと思って慈愛に満ちた表情をするでしょう」と。そして、牧師は子どもに、「今あなたは神様の顔を一瞬垣間見たんですよ」と言う。お母さんや友達や周りの人のちょっとした心遣いや愛情から漏れてくるような表情の中に神様の顔が見える、ということです。つまり、人間の顔とはまったく別のものとしての神様の顔があるわけじゃなくて、ごく普通の人間の顔の中に一瞬垣間見えるという形で神様の顔があるんです。それと同じように、『弱法師』では、普通の夕陽の中に一瞬崇高なものが現れるのだと。最後の方の俊徳と級子の会話は俗な内容になっていきます。それまでずっと悪魔的なことを言って、二組の両親たちを奴隷のように扱っていた俊徳が、お腹空いちゃったとか、手を取ってくれとか、ごく普通の人間のやりとりになっていきます。三島としてはこのつまらない日常とは別のところに本当にすごいものがあるという話にしたいんだけど、「それは違うんじゃないか」という気持ちもあって、それがこういったシーンに出てくるんです。今回の石神さんの演出は、三島の中で開化しきれなかったポテンシャルをはっきりと取り出している点ですごいと思ったんです。

「三島さんの思想と、石神さんのやりたいことが繋がってる」——布施安寿香
普通の生活と神みたいな崇高なものが繋がるという大澤さんのお話を伺っていて、石神さんは『弱法師』の演出だけではなくて、今回の「秋のシーズン」のメッセージである「きょうを生きるあなたとわたしのための演劇」とか、「物語を編み直す」といった言葉にもあらわれているように、石神さんの作品との向き合い方とすごくピッタリ合ってるなと私の中でも腑に落ちました。稽古の時に石神さんが、「演劇が立ち上がるか立ち上がらないか」という話をしていて、その立ち上がるか立ち上がらないかという一瞬が、何かが垣間見える、ということと繋がるんだと気づきました。言葉を行為と捉えていた三島の思想と、毎回その瞬間に、ちゃんと出来事が起きることを大事にする石神さんの演劇は相性が良かったんだと思います。
「きょうを生きるあなたとわたしのための演劇」——石神夏希
SPACは古典作品を多く上演してきた劇場で、今回もラインナップしてるんですけれども、ある程度みんなに認められてきて価値があるとされてるから古典作品を取り上げているわけではなくて、「ここに生きる自分たちにとっていま必要だ」と思ってるからやっているんですね。この「秋のシーズン」というのは平日に県内の中高生を無料招待して見ていただいているんですけども、自分で選んで劇場に来たわけじゃないという方たちには、そこからきちんと伝えないといけないんじゃないかと思ったので、ある意味SPACがこれまでやってきたことを私なりにメッセージとして言葉にしました。今のお話を伺いながら、自分が『弱法師』に向き合ってきた向き合い方と繋がっているなと思いました。
「それでも生きていくことを選ぶ級子になったらいいな」——石神夏希
私は、級子という人物が大事だなと思うんですが、級子の描かれ方には不満があるんです。「これでいいのか?」という気持ちになります。級子も俊徳ほど悲惨ではないかもしれないけど、同じ火の海を見たかもしれない人でもあるわけです。『弱法師』が発表された当時は、多くの人が戦争の記憶というものをまだ生々しく持っている時代でした。そのなかで、「けがらわしい」と俊徳に言われながら、ある種の崇高なものとか真実とか美とかそういうこの世界の表には見えない確かなものに触れながら、だけれどもこの日々を生きていくということは血を吐くほど辛いことなのかもしれません。でも、それでも生きていくんだ、というような級子さんになったらいいなと思っていました。
「俊徳ではない部分に何かがある、と三島は思ってたんじゃないか」——大澤真幸
さきほども言ったように三島の中に迷いがあって、普通につくっていくと級子はむしろ俊徳のような人を引き立てるだけの捨てられる役なんです。たぶん三島も最初に書いた時はそういう線で考えたんだと思う。でも、最後に落とそうとした時に級子に決定的な役割を与えたんですよね。
普通に考えれば、俊徳は突っ走しるんです。みんな知ってるように三島は最後にとんでもないことをするわけですよね。あの最後の三島というのは俊徳じゃないでしょうか。三島には俊徳がむしろメインとしてあるわけです。しかし、「俊徳ではない部分に何かがある」という気持ちも三島にはあったと思います。つまり、三島はああいう形で人生を終わらせたけれども、そうではない三島のポテンシャルが実はあったということです。考えてみれば、三島という人は日本の戦後文学の最高峰であり、作家であると同時にある種の哲学者的なところがあるのですが、しかし僕らは三島がああいう形で終わったことに関して、釈然としないものを持っています。今回の舞台は、三島の中に実は別のものがある、ということを見せているので、すごく重い意味を引き出してくださったなっていう感じがするんですね。

「やっぱり作品がなければ喋れない」——大澤真幸
あともうひとつだけ言わなきゃいけないことがあります。やっぱり作品がなければ喋れないんですよ。つまり、アーティストが言葉になりきれない部分をなんとか表現してくれたものを僕らが見て、もう一度言葉にするという作業がある。もし作品がなければ、上演がなければ、いまみたいなことを思いついたり考えたりすることができないんですよ。だから、いまを生きる私たちがどうしても解けないと思っている問題を解くためには、言葉になりきれない部分までもなんとか表現するという深みのある作品を見ることが必要なんです。言葉にする中で今まで自分がぶつかっていた問題を克服したり、「こう考えれば良かったんだ」ということが見えてきたりする。だからやっぱりいい作品、いい演出でいい俳優がやり続けなければそういうことができないんです。
(文:制作部・丹治陽)
SPAC秋のシーズン2025-2026 #1
弱法師
演出:石神夏希
作:三島由紀夫(『近代能楽集』より)
出演:大内米治、大道無門優也、中西星羅、布施安寿香、八木光太郎、山本実幸[五十音順]
2025年
10/4(土)、10/5(日)、10/18(土)、10/19(日)各日13:30開演
会場:静岡芸術劇場
〈沼津公演〉
2026年1月31日(土)13:30開演
会場:沼津市民文化センター 大ホール
〈浜松公演〉
2026年2月7日(土)13:30開演
会場:浜松市浜北文化センター 大ホール
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