2017年11月7日

【変身】パフォーマーとしての語り手(粉川哲夫)

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 カフカの小説には〝主人公〟が3人いる。ひとりは普通の意味での主人公、ふたり目は語り手、そして3人目は読者である。この3者がたがいの距離を微妙に変えながら展開するのがカフカの小説世界である。
 語り手が〝主人公〟である以上、この語り手は、読者にむかって客観的な報告をするとはかぎらない。通常、語り手は、〝ありのまま〟を語り、読者をからかったり、韜晦(とうかい)したりはしないことになっている。『変身』の語り手が、「朝、胸苦しい夢から目をさますと、グレゴール・ザムザは、ベッドの中で、途方もない1匹の毒虫に姿を変えてしまっていた」と語れば、読者は、それを〝事実〟として受け取る。そういう暗黙の了解が前提されている。
 しかし、カフカの小説の語り手は、冗談を言うかもしれないし、小説内の〝事実〟と異なることを語るかもしれないのである。つまり、この『変身』の場合であれば、「・・・毒虫に姿を変えてしまっていた、なんてネ、ハハハ」という含みで語ることもありえるということだ。
 こうした語り手の特異性は、カフカのドイツ語が、19世紀から20世紀初頭のチェコ領内に浮島のように存在したユダヤ系ドイツ人コミュニティ独特の言語、チェコドイツ語であったことも関係している。標準ドイツ語の側からすると、「パサパサの紙のような」印象をあたえるチェコドイツ語の特性をカフカは逆手に取り、標準ドイツ語とは異質のアイロニーや人工性をとり込んだ。
 カフカの小説では語り手はつねに饒舌であるが、『城』のように、主人公の体内にもぐり込んで、あたかも主人公と一体をなしているかのような素振りをすることもある。これをうっかり主人公の内的独白のようなものと混同するととんでもないことになる。『変身』の場合は、一見、古典小説のように、弁士的な解説口調なので、これまた、読者は簡単に乗せられてしまう。いずれにしてもカフカの語り手には要注意である。
 この語り手は饒舌なだけでなく、その身ぶりも多彩である。それは、その語りのあいだから透けて見える身ぶりであって、ト書きが書かれているわけではないが、少なくとも、お前は誰なんだという問いを発したくなるほどあつかましいこの語り手は、ソファーにくつろいで淡々と物語っているような古典的な語り手とは全然ちがうのだ。
 『変身』は、家族のような暗黙の了解が前提されている者どうしのあいだですら、コミュニケーションが一瞬にして途絶えてしまうもろさと、その断絶の複雑な屈折をあらわにする。カフカの世界では、安心して寄りかかれるような基準はどこにもない。グレゴールは、巨大な甲虫に変身してしまったと語り手は言うが、本人はそのことに気づいているかどうかはわからない。グレゴールの仕草や行動の説明は、あくまでも語り手の観察ないしは、意図的な〝歪曲〟にすぎない。
 この語り手をどうとらえるか、詐欺師かパフォーマーかエンターテイナーか、はたまた多弁症の狂人なのかを決めるのは読者の役割であり、その加担の度合いが深まれば深まるほど、読者が〝主人公〟になる度合も強まる。カフカの小説は、アレゴリーや象徴やメタファーを形にしているのではなく、読者が作品への姿勢を変えさえすれば、作品そのものが変貌する即物装置である。
 もし、語り手の〝報告〟を話半分に受け取るならば、ザムザが変身していない可能性だってありえる。そしてそのとき、『変身』は、病人や高齢者を〝座敷牢〟の〝囚人〟にしている家族のエクスキューズ(弁解)の物語にもなる。ヒキコモリであれ、認知症であれ、麻薬中毒であれ、家族のなかに〝厄介者〟が突如出現したときに見せる家族の反応と対応のすべてがここに潜在している。
 カフカ自身は、『変身』を失敗作だとみなした。その理由は、主人公グレゴールが、終始、家族のなかの厄介者としてあつかわれ、そのまま破滅するというメロドラマのパターンを踏んでいるからである。カフカは、厄介者であることのもっと積極的な可能性に興味を持っていた。
 このままだと、たとえば、主人公が甲虫になったのち、人間の家族と共生してしまったというような話に飛躍するのは無理である。会社をさぼること、怠業としてのヒキコモリは、ここでは敗北に向かう。これに対して、晩年の『城』では、主人公は、ある意味、ずっとさぼり続けたまま居直る。語り手も、主人公Kの体内にもぐりこんで表には姿をあらわさないようにしている。ここには21世紀を悩ます社会症候群のひとつであるヒキコモリへの根源的な転換が示唆されている。

【筆者プロフィール】
粉川哲夫 KOGAWA Tetsuo
東京の下町に生まれ、渋谷で育つ。疾風怒涛の青春を送り、上智大学、早稲田大学で哲学を学ぶ。メディアと都市と電子テクノロジーを現場にして批評、自由ラジオ、ラジオアートに横断的に関わる。https://anarchy.translocal.jp


2017年10月7日

【病は気から】演じる喜び=生きる喜び!? モリエール&シャルパンティエ『病は気から』について(秋山伸子)

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 『病は気から』はモリエール最後の作品である。アルガン役を演じたモリエールは、4回目の公演を終えた後、自宅で息を引き取った。自分は病気だと信じ込む男の役を演じたモリエール自身が病に苦しんでいたという皮肉な状況にあったことが信じがたいほどに、この作品には病を跳ね返すほどの生命力が、生きる喜びがあふれている。
 モリエール作品では、多くの人物が「演じる」喜びに身を委ねる。『町人貴族』においては、貴族に憧れる主人公が自ら貴族の役を演じることで、深い満足感を得る。アルガンもまた、自ら医者に扮し、その役を演じることで病の呪縛から解放される。音楽とダンスの力がみなぎる儀式のうちにアルガンは医者の学位を授けられ、舞台全体が言い知れぬ至福感に包まれて芝居は終わる。
 処方された薬の代金を勘定するアルガンの独白で幕を開けるこの芝居において、薬漬けのアルガンの「病気」のもう一つの治療法、伝統的な医療や薬に頼らない治療法としてまず提案されるのは、芝居を見ること、とりわけ、モリエールの芝居を見ることである。だが、それ以上に効果的な治療法として示されるのが、アルガンを医者にするための音楽とダンスのスペクタクル(一種の音楽療法とでも言えようか)である。即興のこのお芝居でアルガンはじつに自然に生き生きと演じているのだが、その素養の一端は、自らの死を演じてみせる場面にすでに垣間見える。
 妻がどれほど自分を愛してくれているかを再確認するためにアルガンは自らの死を演じてみせる。むろんこれは、アルガンの財産を狙う後妻のたくらみを暴くために小間使いがこの演技に誘い込むのだが、死んだフリをするという演技によって妻の本心を知ることができたことに味をしめたアルガンは、この直後、今度は娘の本心を確かめるため、またしても自らの死を演じてみせる。妻相手の演技に入る前には、「死んだフリなんかして危なくないかな?」とためらっていたことが嘘のように、再び演技の喜びに身を委ねるのである。
 アルガンばかりでなく、小さな子供でさえも、演技の喜びには逆らえない。父親の怒りをかわすため、幼い娘は死んだフリをする。これを見るやアルガンは動転して嘆き悲しみ、自らが素朴で信じやすい観客であることを示すのだが、「ねえパパ、そんなに泣かないで。あたし本当に死んじゃったわけじゃないのよ」という娘の言葉に胸をなでおろす。
 恋の障害に直面した若い恋人たちは即興のオペラに託して互いの想いを伝え合い、その自由奔放な生命力の前に、医者の息子トマ(今回の上演では「トーマス」、以下同様。)の融通のきかない硬直化した言葉は敗れ去る。丸暗記した言葉を機械的に繰り返すことしかできず、アンジェリック(アンジ)への贈り物として医学論文を差し出し、(お芝居にご招待とかではなく)ある女性の死体解剖にご招待しましょうと申し出る珍妙な求婚者トマに対し、クレアント(ケロッグ)は音楽の先生に変装し、アルガンやトマの前で即興オペラをアンジェリックとともに歌ってみせる。「恋するふたりがやむにやまれず、自ら沈黙を破り、その場の気持ちに任せて語り合う様子を歌にした」この即興オペラは、ヒロインの悲愴な決意(意にそまぬ相手と無理やり結婚させられるくらいなら死を選ぶという)を歌い上げ、これを見た観客アルガンの反応を引き出す。「で、これに父親は何と言うんだね?」ナイーヴな観客としてこの「けしからんオペラ」に対して激しい拒否反応を見せたアルガンが、一線を踏み越えて、見る側から演じる側へと身を移し、自らの死を演じてみせるとき、そこに新たな地平が開かれる。
 死は再生につながり、アルガンは自らの演技による象徴的かつ通過儀礼的な死を通して、自分を取り巻く人たちの本心を知り、新たな人生の可能性に目覚める。最後にアルガンを医者にする儀式でコーラスが歌い上げるのはまさに横溢する生への賛歌にほかならない。マルク・ミンコフスキ指揮、レ・ミュジシャン・デュ・ルーヴルによるもの、ウィリアム・クリスティ指揮、レザール・フロリサンによるもの(ともに1990年)、どちらのCDもそれぞれ味のある演奏で、はじけんばかりの生きる喜びをたたえたシャルパンティエの音楽を聞かせてくれる。

【筆者プロフィール】
秋山伸子 AKIYAMA Nobuko
青山学院大学文学部フランス文学科教授。『モリエール全集』全10巻(臨川書店、2000-2003年)の翻訳により、第10回日仏翻訳文学賞受賞(2003年)。著書『フランス演劇の誘惑―愛と死の戯れ』(岩波書店、2014年)等。


2017年4月25日

【ふじのくに⇔せかい演劇祭2017】寄稿一覧

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「ふじのくに⇔せかい演劇祭2017」で上演された作品の寄稿は、
演劇祭のウェブサイトにてご覧いただけます。

※リンク先のページの「寄稿」ボタンをクリックしてください。

【アンティゴネ ~時を超える送り火~】
アンティゴネの時 (大宮勘一郎)

【MOON】
馴染む、居つく、住まう ――タニノクロウの演劇と『MOON』 (日比野啓)

【ウェルテル!】
悩みなき人? ――舞台作品『ウェルテル!』についての覚え書き (平田栄一朗)

【ダマスカス While I Was Waiting】
小さな物語と大きな物語の溝 (岡崎弘樹)

【腹話術師たち、口角泡を飛ばす】
表層の下に闇がにじんでくる 「人形劇」を遥かに超えたジゼル・ヴィエンヌの世界 (石井達朗)

【六月物語】
ピッポ・デルボーノにおける引用の意味 (芦沢みどり)