劇場文化

2021年11月10日

【桜の園】チェーホフと『桜の園』 (安達紀子)

 『桜の園』は、医者であり、短編小説の名手であり、世界的に有名な四大劇の作者でもあるアントン・チェーホフの最後の戯曲である。結核に侵された最晩年のチェーホフは文字通り絞り出すように『桜の園』を書いた。1日に6~7行しか書けない、と手紙に書き綴っている。1903年9月26日ついに『桜の園』を書き上げ、1904年1月17日モスクワ芸術座で初演されるが、その約半年後の7月2日、チェーホフはドイツのバーデンワイラーにて、ラネーフスカヤを演じた女優でもある妻オリガ・クニッペルに看取られながら永遠に帰らぬ人となった。
 『桜の園』は個々の人間の運命を描くことによって、その背景にある時代の大きなうねりを描き出す。『桜の園』の舞台となった19世紀末あるいは20世紀初頭は、帝政ロシアが音を立てて崩れ落ちる前夜、ロシア革命の跫音が近づいてくる時代であった。
 帝政ロシアは専制政治と農奴制の上に築かれた帝国だった。農民の自由な移動は11世紀においてすでに制限されていたが、1649年になると農民の移動の権利が法令によって完全に停止され、農奴制が確立された。貴族の優雅で贅沢な生活を支えていたのは、人権も自由も奪われた農奴たちの労働だった。1861年に公布された農奴解放令も地主貴族の権利を擁護するもので、元農奴は付与された土地の代金を支払わなければならなかった。多くの元農奴がその代金を支払うことができず、借金の肩代わりをした国家に対して債務を抱え、賦役等の義務を負わされた。それゆえ元農奴のなかには、下男フィールスのように農奴制の時代を懐かしむ者もいた。
 チェーホフの祖父もかつては農奴だったが、3500ルーブルで自由の身分を買い取った。「私たち農奴出身の作家は自らの青春を犠牲にして、貴族が生まれながらにして持っているものを手に入れます。自分の血管から農奴の血を一滴、一滴絞り出して、ある朝やっと自分がまともな人間になったと気づくのです」とチェーホフは語っている。それゆえ、チェーホフは農奴の息子であるロパーヒンを繊細に、微妙な陰影を交えながら描き出した。ロパーヒンは「繊細な優しい指」をしていて、「芸術家みたいに繊細な優しい心」を持っている。自らの裁量で新興の商人となったロパーヒンは、桜の園を当時ブームとなりつつあった別荘地に変えてラネーフスカヤを経済的に救おうとする。しかしそれは、農奴の息子である自分に優しくしてくれた憧れのラネーフスカヤが愛してやまない桜の園を破壊することに他ならなかった。ロシアではロパーヒンがラネーフスカヤを秘かに愛していると想定する演出もよく見られる。しかし、二人はそれぞれ異なった次元でしか物事を考えることができない。二人の擦れ違いは、長い歴史のなかで延々と形作られてきた考え方や生活様式の相違から生み出されたものだ。
 農奴解放令の発布後、貴族の多くは冬の雪が春の訪れと共に徐々に融けてなくなっていくように、財産を少しずつ失っていった。その一方で商人たちは次第に台頭し、19世紀末になると、地方議会の議員を務めたり、名誉市民や貴族の称号を得たりする者も現われた。特権を失い、貧困化しながらも浪費、借金癖の抜けない地主貴族は、商人たちによって領地から追い立てられるようになった。当時ロシアの新聞雑誌には借金を返済できない地主の領地の競売、破産宣告などの告示が数多く見られた。チェーホフ自身、自分の領地メーリホヴォで零落した地主の生活ぶりをつぶさに観察し、覚え書きに書き留めている。農奴の息子ロパーヒンが桜の園を買い取るという出来事は決して珍しいことではなかった。世紀と世紀の狭間、帝政から革命への過渡期、人びとの地位や境遇に変化および逆転が起こっていた。桜の園における年配の使用人たちの反抗的態度、下男ヤーシャの傲慢な態度には、貴族社会の終焉が近い時代の推移が反映されている。小間使いのドゥニャーシャがお嬢さまのアーニャに自分がプロポーズされたことを話すのも滑稽であり、立場の逆転が感じられる。
 私たちの時代においても時はつねに移ろい、人びとの暮らし、社会の在り様も変化・変容して、さまざまな「桜の園」が破壊されていく。桜の園をこれ以上破壊してもよいのか? 桜の園の跡地には何が建設されるのか?――チェーホフは桜の園をめぐる人びとの運命を描きながら、自らの死後どんな世界が築かれていくのか、と問いかけていたのだろう。『桜の園』はチェーホフの珠玉の遺言でもあるのだ。

【筆者プロフィール】
安達紀子(Adachi Noriko)
早稲田大学、慶應外語講師。
著書に『モスクワ狂詩曲』『モスクワ綺想曲』(小野梓賞)など。訳書にチェーホフの『三人姉妹』、スタニスラフスキーの『俳優の仕事』(日本翻訳出版文化賞)など。ロシア文化省よりプーシキン記念メダルを授与される。