伝統とイメージされているものが、案外歴史が浅く、実際は伝統と呼べるほどのものではなかったという話を、近年よく耳にするようになった。例えば「武士道」と聞くと、きっと日本の立派な伝統なのだろうとイメージしてしまうけれども、「武士道」なる概念が登場するのは江戸時代に入ってからだ。その江戸時代は戦争のない時代であり、武士はもはや軍人ではなく、官僚へと変質していた(SPACの演目で言えば、平田オリザ作『忠臣蔵』を想起していただきたい)。そして明治時代に入ると「武士道」は、近代の天皇制国家に見合うように、また、海外向けのPR材料となるように、バージョンアップされていく。つまり、実態としての武士から切り離されることで、モードとしての、ファッションとしての、あるいはイデオロギーとしての「武士道」が誕生したというわけだ。かくも「武士道」の歴史は浅く、戦闘者の実情に即した根拠は乏しい。だからこそ、論者たちが好き勝手に概念化できた、とも言える。ただ厄介なことに、こういう概念はあたかも長い伝統を有するかのように錯覚されがちで、それゆえに人々の意識や行動を規制し、ついには「お国のために死ね」という要請へと変貌したのかもしれない。
明治国家に生を受け、怪異なる民話や伝承を題材とする作品を多く残した小説家・泉鏡花(1873~1939)は、このようなフェイクとしての伝統が国民をコントロールするメカニズムを、既に熟知していたようである。
『夜叉ヶ池』は、1913(大正2)年に発表された、泉鏡花の初めての戯曲作品である。この戯曲には、真の伝統と偽の伝統の激突が描かれていると解釈できる。
真の伝統とは、日本各地の物語を採集して歩いていた青年・萩原晃が、越前の鹿見村に至り、かつて夜叉ヶ池の竜神とこの地の人々との間で交わされた約束――人間社会に水害を及ぼさぬという誓いを竜神に思い出させるために、必ず日に三度鐘を鳴らすこと――を、先代の鐘楼守の老人から引き継いだことを指す。対する偽の伝統とは、日照り続きに苦しむ村を救うために、萩原の妻である村の娘・百合を、雨乞いの儀式の生贄に捧げようとする、村の有力者たちのおぞましい計画を指す。水害を防ぐために鐘をつくことも、雨を乞うために生贄を捧げることも、いずれも昔からの言い伝えという点に違いはないのだが、ただ後者は、既に本来の目的から逸脱して形骸化し、腐臭を放っている。百合の唯一の係累でありながら、百合へのいやらしい野心を隠さない叔父、神官の鹿見宅膳は、猫撫で声でこう言ってのける。
黒牛の背に、鞍置かず、荒縄に縛める。や、もっとも神妙に覚悟して乗って行けば縛るには及ばんてさ。……すなわち、草を分けて山の腹に引上せ、夜叉ヶ池の竜神に、この犠牲を奉るじゃ。が、生命は取らぬ。さるかわり、背に裸身の美女を乗せたまま、池のほとりで牛を屠って、角ある頭と、尾を添えて、これを供える。……肉は取って、村一同冷酒を飲んで啖えば、一天たちまち墨を流して、三日の雨が降灌ぐ。田も畠も蘇生るとあるわい。
この企みのいかがわしい黒幕は、県の代議士・穴隈鉱蔵である。いかにも「武士道」を好みそうなナショナリストの穴隈にとって、雨乞いは危急存亡から村を救う一大事業であるが、それは建前に過ぎず、本音は若い娘を裸にして酒を飲もうという助平根性にあることを萩原は見抜き、このようなニセモノの儀式が却って村に災いを及ぼすことを警告し、夜叉ヶ池の秘密を明かすことになるが、このあたりは上演でお楽しみいただきたい。ともあれ、フェイクとしての伝統が、建前としてのナショナリズムと結託したところで、強者を利するばかりであることを、泉鏡花は喝破していたと言えよう。
では他方、萩原が継承した鐘を衝く習慣は、なぜ偽でなく真の伝統と言えるのか。その違いは、竜神と人間が交わした始原の約束を信じ、それを律儀に守り反復する、萩原の姿勢にある。こちらから約束を破るわけにはいかないという倫理性。その倫理性が維持されているからこそ、伝統は伝統たりえているのだ。そして、このような萩原の倫理性は、妻・百合との関係にも見出される。殺気立つ村の衆を後目に、萩原は百合に対し、毅然として「茨の道は負(おぶ)って通る」と宣言する。これもまた、夫から妻への約束である。
神と人との間に、夫と妻との間に、私と他者との間に、交わされた始原の約束がある。それはもはや近代的な合理性では説明のつかないものだが、その約束を忘れない限り、日々の営みは形骸化を免れる。これが、泉鏡花からのメッセージだと解釈したい。だが、それとて泉鏡花という作家が創造したファンタジーに過ぎないというパラドックスも、ここには存する。真と見えたものもまた偽に過ぎないのか? それを決定するのは、劇場を出た瞬間から再び始まる、我々自身の日々の営みにほかならない。
【筆者プロフィール】
大岡淳(Ooka Jun)
演出家・劇作家・批評家。1970年兵庫県生まれ。現在、SPAC-静岡県舞台芸術センター文芸部スタッフ、武久出版編集部顧問、静岡大学非常勤講師。著書に『21世紀のマダム・エドワルダ』(光文社)、訳書にベルトルト・ブレヒト『三文オペラ』(共和国)がある。