劇場文化

2020年2月9日

【メナム河の日本人】遠藤周作によって許された私のキリスト(泊篤志)

 結局わたしはキリスト教に馴染めなかったのだと思う。幼少の頃住んでいた家の近所にプロテスタントの教会があり、どういういきさつだったかその教会に通うようになり、小学生の頃、洗礼を受けるに至った。けれども中学に行き始めると部活だ勉強だと忙しくなり、いつのまにか教会にも通わなくなり、じんわりと事実上「棄教」していた。今、ほとんどの日本人が実のところ明確な宗教を持っていないというのは周知の事実だと思う。葬式は仏教で、子どもが産まれたら神社で、結婚式はキリスト教で、クリスマスではしゃぎ、初詣に神社に行く、という生活が当たり前になっている中、週に一回教会に通い、献金をし、神に祈るという生活は子どもながらに負担だったのだ。
 けれどもその後、キリストがわたしの中から居なくなったかというと、そうでもなかった。それを明確にキリストと呼んでいいものか怪しいけれど「人類の罪を一身に引き受け磔になったキリスト」というものの存在は自分の中にずっと残っていた。そうして大人になり、演劇という創作活動をするようになった時、バリ島に2週間ほど滞在することがあった。明るく自由奔放(あくまでもイメージとしての)な島独特のヒンズー教に出会い、再び宗教に興味を持つこととなる。バリ島では元々あるアニミズムとヒンズー教が融合していて、それは日本のかつての神仏習合に近いものがあるなぁと感じたりもした。さらにはヒマラヤ登山を経てチベット仏教に触れ、自分なりに「宗教」というものを何かしらカタチにしたいと考え始め、その頃、遠藤周作の代表作『沈黙』に出会うことになる。 続きを読む »