劇場文化

2015年4月30日

【聖★腹話術学園】避雷針としての人形(いとうせいこう)

 5年ほど前、みうらじゅんという友人と仏像を見るぶらり旅で奈良の談山(たんざん)神社へ行った。拝観出来る宝物の中にひとつの小さな人形があり、室町時代作のその公家のごとき姿に私は打たれた。といっても作りはなんということもない。ひな人形を立たせたようなものである。だが直垂(ひたたれ)を着たそれは体の中心に両手を寄せて細い棒を持っていた。まるで避雷針のような棒であった。いや避雷針そのものと言うべきかもしれない。
 中臣鎌子(のちの藤原鎌足)と中大兄皇子(のちの天智天皇)が『大化の改新』について談合を行った場所・談山神社には10月に嘉吉祭という600年近く続いた祭事があり、人形は神饌に先立って配置されるという。かの地では『青農(せいのう)』と呼ばれているが、同じ読みで『細男』があり、京都祇園祭のいにしえの様子を絵巻で見れば、行列の先頭によく似た人形が立てられているのがわかる。細男はまた、御霊会(ごりょうえ)などで滑稽な舞いを行う者の名でもあるから、軽業師のようなものが人形化されたわけだろうか。 続きを読む »

【小町風伝】夫、太田省吾、そして、「小町風伝」のことなど(太田美津子)

 この度、SPAC−静岡県舞台芸術センターの「ふじのくに⇔せかい演劇祭2015」で、太田省吾作、李潤澤氏演出、演戯団コリペの『小町風伝』が上演されることを、大変嬉しく思っております。関係の皆様にお礼申し上げます。

 私は演劇について全くの素人ですが、劇団転形劇場と太田の演劇活動を、長年傍らから見てきた様々な事柄について、充分ではありませんがこの貴重な紙面をお借りし、私なりに書かせていただきたいと思います。

 太田は、1968年に程島武夫先生を主宰に、品川徹さん達と劇団転形劇場の設立に参加、70年には太田が主宰となり、東京赤坂の工房を拠点に活動を開始しました。以降、劇団転形劇場は、70年に上演した鶴屋南北の「桜姫東文章」を例外に、88年の劇団解散まで、すべて太田作、演出の作品を発表し続けてきました。  続きを読む »

【例えば朝9時には誰がルーム51の角を曲がってくるかを知っていたとする】上演に寄せて(アサダワタル)

意識は常に「無」を欲望する。しかし、意識には「無」がわからない。詩とは、もて余された意識によって、「存在」のうえに書かれる「無」の幻影だ。意識が「存在」そのものとなるそのときまで、「在って、ない」ことばの群れが、自己へと還るためにのみ自己から発せられ続けているだろう。つぶやかれないつぶやきで、宇宙は充ちているだろう。(池田晶子『事象そのものへ!』)

■本作上演「後」の日常イメージ

 筆者は本作『例えば朝9時には誰がルーム51の角を曲がってくるかを知っていたとする』についての情報、および本作のために新たに結成されたユニットの素性についてほぼ何も知り得ない。しかも本作は新作のため、拙稿執筆の2015年2月末現在には、台本も未だ完成していない状況だ。唯一受け取った企画書から得たヒントは、作・演出担当の一人である鈴木一郎太が語る「町」「生活」「個人」という言葉たち。それらの言葉を軸にしながら、劇場ではなく静岡の街中を舞台にした体験演劇を行なうということだ。纏めるとこういうことだろうか。「私」という「個人」が日々の「生活」の中で、どのように「町」を意識し、またどのような方法で「町」に関わるのかというテーマを、実際に「町」を歩くことで展開される「演劇」という「非日常」の枠を駆使しながら、これまで気付くことの出来なかった「もうひとつの日常」を、幸福と刺激を交えながら体感する、といった作品。であるならば、拙稿では本作体験「後」に、つまり「演劇」という枠を一旦手放した後の夫々の「日常」においても、「もうひとつの日常」になだらかに触れ続けることができるようなスケッチを筆者なりの体験をもとに描いてみようと思う。同時に、それらが、回り回って本作を体感する「前」に試されるひとつの思考上の「レッスン」としての役割も果すことができるのであれば、より嬉しいことだ。では始めよう。 続きを読む »

【ベイルートでゴドーを待ちながら】あっちとこっちの反弁証法、或はないところにあるものについて(鵜戸聡)

 暗闇に浮かび上がる二人の男、噛み合ない会話。脱線に次ぐ脱線、というよりそもそも本線がわからない。さて、この作品の解説なんてどうしたものか? だいいち解説するために必要な作品の「解釈」なんてものは、すでにこの説明的すぎる邦題がケリをつけてしまっているではないか。『ベイルートでゴドーを待ちながら』。そのとおり。これはサミュエル・ベケットのあの傑作/問題作のレバノン版である。そこまで言ってしまえば、もはや演劇好きの観客に向かって付け足すこともなくなってしまう(わかるでしょ?)。
 とはいえ『ゴドーを待ちながら』の訳者解題で、イギリス演劇研究の大家にして『ノンセンス大全』の著者たる高橋康也先生が「論ずれば論ずるほど、というか論じようとして本文を丁寧に読み返せば読み返すほど、議論が作品によって先手を打たれているのではないか」、と気づかされつつも「無数の解釈が生まれ、すれちがい、ゆらめき、消尽されてゆく、その過程がまさにこの作品を観たり読んだりする経験の実体にちがいないのだ」とおっしゃっているのだから、僕もまた「要らざるお節介とお叱りもあろうが、限りなく多様な乱反射的な読みの可能性のちょっとした示唆」を書き付けさせて頂こう。 続きを読む »

【觀~すべてのものに捧げるおどり~】祭祀からコンテンポラリーな時空に向けて~『觀』をめぐって思うこと~(石井達朗)

 舞台奥から腰をこごめ、止まっているのか動いているのかわからないほど緩やかに、こちらに歩を進める異形の者たちがいる。彼/彼女らは何者か。天から降臨した神々なのか、地から這い出た悪霊たちなのか。かつて見たことのないような静謐で美しい舞台。そこに立ち現われる者たちは、沈黙を守りながらも深い想いを秘めているかのよう。低く響きつづける打楽器の音の群が陽炎のように揺らめき、生死・善悪という二元論を超えた時空を包みこむ。身体はときに足元しか見えないほどに屈折している…。
 腰から両足裏まで地に密着した重心の低さは、日本に根付いた伝統的な身体性と遠戚関係にあり、思わず親近感を覚える。舞踊でいうところの「すり足」、民俗学でいう「反閇(へんばい)」「兎歩(うほ)」などの用語は、それぞれ動きこそ違うが、天に向かうよりも地との親和を示している。異界、外部からやってくる者、とくに常世(とこよ)から稀に来訪して村人に祝福を与える神々を、折口信夫は「まれびと」と呼び、その歩行に「力足を踏む」という表現を与えている。 続きを読む »

2015年4月28日

【天使バビロンに来たる】さまざまなテクストが織りなすタペストリー――『天使バビロンに来たる』の間テクスト性――(増本浩子)

 『天使バビロンに来たる』の原作者フリードリヒ・デュレンマット(1921-1990)は、ドイツ語圏スイスの20世紀文学を代表する劇作家である。まだ30代の若さで、ドイツの著名な批評家であり、学者でもあるヴァルター・イェンスから、「あの無比の存在だったブレヒトの死後、ドイツ語圏で最も優れた劇作家」という称賛を得たデュレンマットは、特に50年代から60年代にかけて発表した作品によって一世を風靡し、その名声を確立した。その主要な戯曲は、さまざまな言語に翻訳されて世界各地で上演され、スイスをはじめとするドイツ語圏の国々ではいまなお定番の演目となっている。 続きを読む »

2015年4月27日

【盲点たち】メーテルリンクの闇と光――『盲点たち』上演に寄せて――(今野喜和人)

 1890年8月24日、フランス最有力紙の一つ『フィガロ』の第一面に、20代のまったく無名の劇作家に関する批評が掲載される。筆者は著名な批評家オクターヴ・ミルボー。普段の辛辣な彼の筆からは出たことのないような手放しの賛辞と共に、「シェークスピアに勝る」とまで評価されたこの作家こそモーリス・メーテルリンク(1862―1949年)であった。当時彼は郷里のベルギーのヘント(ゲント、もしくはフランス語読みでガン)に住んでいて、30部だけ印刷した戯曲第一作『マレーヌ姫』が、数年前のパリ滞在中に知己を得たマラルメを介してミルボーのもとに届けられた結果だったのである。この思いがけぬ評に力を得たメーテルリンクが、当時の自然主義から象徴主義への転換の潮流に乗るかのように、戯曲・詩・評論を発表して一躍名声を博し、1908年の『青い鳥』出版を経て、1911年、ノーベル文学賞作家となるまでのシンデレラ・ストーリーは、西洋文学史の中でも最も華々しいものの一つと言える。 続きを読む »

【ふたりの女】ゆれる、影法師、のこと。(飴屋法水)

 いつだったか、たいへんな事に気がついたのです。
 それは動物図鑑をめくってる時のことでした。
 動物図鑑には、当たり前ですが、地球上に住んでいるとされる、実際には、ほとんど出会う事も見かける事も無い、たくさんの動物たちが、たいていは、カラーのイラストなどで描かれています。
 ライオン、シマウマ、クマ、アザラシ、それから、ラクダ、ムササビ、ヤマアラシ…やがて、オポッサムだの、ミミナガバンディクートだの、動物園でもテレビ番組でも見た事も無い動物たちが、やはりイラストで描かれています。
 それが、どんな動物か、どんな種であるかがわかるように、見た目の姿が描かれています。それを見て思うのです、へえ、これがミミナガバンディクートか、たしかに耳が長いねえ、などと。 続きを読む »

2015年4月16日

【メフィストと呼ばれた男】メフィスト―ドイツ的心情と悪魔―(高橋順一)

 クラウス・マンの小説『メフィスト』の主人公ヘンドリック・ヘーフゲン(今回上演するトム・ラノワの翻案ではクルト・ケプラー)のモデルは、ナチス時代にプロイセン国立劇場の監督を務めた俳優グスタフ・グリュントゲンスである。1981年に制作されたイシュトヴァーン・サボー監督の映画「メフィスト」はこの小説を原作としており、当たり役であったメフィストを演じるヘーフゲン=グリュントゲンスの鬼気迫る様相が印象的であった。 続きを読む »