劇場文化

2015年4月27日

【ふたりの女】ゆれる、影法師、のこと。(飴屋法水)

 いつだったか、たいへんな事に気がついたのです。
 それは動物図鑑をめくってる時のことでした。
 動物図鑑には、当たり前ですが、地球上に住んでいるとされる、実際には、ほとんど出会う事も見かける事も無い、たくさんの動物たちが、たいていは、カラーのイラストなどで描かれています。
 ライオン、シマウマ、クマ、アザラシ、それから、ラクダ、ムササビ、ヤマアラシ…やがて、オポッサムだの、ミミナガバンディクートだの、動物園でもテレビ番組でも見た事も無い動物たちが、やはりイラストで描かれています。
 それが、どんな動物か、どんな種であるかがわかるように、見た目の姿が描かれています。それを見て思うのです、へえ、これがミミナガバンディクートか、たしかに耳が長いねえ、などと。

 で、気づいたのです。
 その図鑑のページの、どこでもいい、いや、人間がサルから進化したというならサルの…霊長類の隣あたりでいい。そこに我々「人間」の姿を、その見た目を描いてみようとします。描けるのでしょうか?
 個人差のことではありません。個人差は他の動物にだってあります。
 自分の姿でいいのです。自分というものの、ホモ・サピエンスという種としての、そもそもの形状。それを描ける人って居るのでしょうか?
 「自画像」じゃダメです。それは図鑑の絵になりません。それはつまり、「ここ最近の私の姿」であって、生き物としての姿は描けていない。眼鏡をかけてるとか、赤いシャツを着てるとか、今はこんな髪型だとか、そういう「ここ最近の私」の姿。図鑑の絵は、そういう、いつ変わるかわからないような絵ではだめなのです。
 日本人である私の姿が、アフロヘアではおかしい。私は浴衣を着てます、セーラー服を着てます、なんてのもだめです。そんなのは、他の生き物の目線で言えば、すべてコスプレみたいなもので、そんな洋服着せられたチワワみたいな絵とか載せても、しかたがない。ペット雑誌じゃなくて図鑑です。ホモ・サピエンスの話なのですから、コスプレは禁止。
 じゃあ、とりあえずパーマはやめて、化粧も落として、裸の私を描けばいいのでしょうか? それがつまり、素顔、なんでしょうか。人という種としての。
 いや、ヒゲはどうするヒゲは。ほおっておいたら、のび放題のヒゲを、出勤前に剃ってる時点で、それは「社会人」のコスプレなんじゃないか?  
 髪だって、それぞれみなさん、自分なりに、「何々風に」お願いします、なんて感じで、月に1回くらい切り続けてるでしょう?
 もしも、1年間、ヒゲも髪もそのまんま、アナと雪の女王の唄のように、「ありの〜ままの〜」姿など見せようものなら、まあ、かなりの確率で、あなたはホームレスとみなされるでしょう。
 かように人間は、必ず、自身の姿を「加工」しています。なにがしかの考えや、価値観や、常識感覚や、趣味嗜好などにあわせて「加工」しています。
 「創作している」と言ってもいいかもしれない。
 それこそが、人間という種の特徴といいますか、それは当たり前の事なのでしょうが、僕が気づいて愕然としたのは、じゃあ、もし、そういった加工は抜きで…そういった創作を、仮にまったく「しないで」おいたとしたら…。
 そのとき、生き物としての、そもそもの自分の見た目が、どんな見た目なのか、それを一生、知らないままで、人は死んでいくのだな、ということなのです。
 ヒゲをそらなかった時の自分の顔。そうやって、デザインするのをやめた時の、その時の、そもそもの、自分の髪の長さ。
 知らないまま死んでいくのです。絵に描けるはずがありません。
 「加工」は、見た目に限りません。
 山梨生まれ、神奈川育ちの僕が、17歳で東京に出て、唐十郎氏の状況劇場で学び、やがて「東京グランギニョル」なんて劇団を名乗りました。山梨生まれが「東京グランギニョル」。これって「産地偽造」みたいなもんですよね。
 そう。「加工」とは、つまり「虚構」ということです。
 「虚構」とは、誰かが脳みそで「加工」した現実のことです。
 人は誰も、加工された姿かたちで、加工された街で、加工された建物に住み、加工された料理を、加工された器で食べながら、加工されたTV番組などを眺めながら、加工された仕事や、加工された恋愛などしながら生きていきます。加工された名前を持って。
 もし「現実」というものが、加工されてない現実、虚構ではない現実を指すのであれば、そういう「現実」を生きている人間など、この世のどこにもいません。動物だけですね、そんな現実を生きているのは。
 加工されてない現実、すっぴんの現実、そんな、揺るぎない現実などと言えるようなものは、こと人間という動物に限っては無いのです。 
 旧約聖書の中で、アダムとイブが、齧ったリンゴとは、こういうものです。これが人間という種の、原罪、なのでしょう。
 人間は、その生まれからして加工されています。かつて避妊具の自販機などというものが街にあり、そこには「明るい家族計画」などと書かれてました。何人子供をつくろうか? 産もうかどうしようか? 誰かの脳みそで創作されながら、この世に生まれてくるのが、人間です。
 僕は、もしかしたら、生まれていなかったのかもしれないけれど、生きたのは、僕ではなく、僕の兄や、僕の弟だったのかもしれないけれど、でも、どうやら、僕、ということになりました。
 生まれた人間は、死にます。もっと長く生きようと、もっと加工しようとしても、かなわない時、人間に、はじめて、揺るぎない現実が訪れるのでしょう。
 揺らぎが、止まるのです。ただの動物に還るのです。
 でも、生きている間は、人は揺れます。揺らいでいます。
 揺るぎない、たしかな現実というものがここにあり、こことは異なる場所に、虚構があるわけではないからです。この場所で、この同じ場所で、現実は同時に虚構です。虚構は同時に現実です。だから人は揺れるのです。
 人の現実は、その揺れの、幅、のようなものとして、あらわれます。
 その幅は、時に絶望を生み、時に希望を生むでしょう。
 よく、音というのは、実体がある訳ではなく、空気の振動だ、というようなことを聞きますよね。音が鳴っている、音がそこにある、というのが振動している状態であるように、人間が生きているということは、その人なりの、幅の間で振動している、振動そのもの、揺れそのものが、生きるという事、人生というものなのでしょう。
 音、といえば、宮城さんは、実はけっこう音の作家です。やはり、揺れ、というものに、敏感なのではないでしょうか? 触ることのできる体と、実体のない、振動でしかない、声を、切り離して、その間で揺れてみせたり、しています。
 さて、この、『ふたりの女』の中に、駐車場係の青年が登場します。青年は、自分は影法師だと言って、体を揺らします。彼は、自分には、実体、などというものはなく、揺れている影法師、揺れそのものだと言っているかのようです。
 そして、こう言うのです。いつか、僕がいったい何者なのか、きっと教えてあげましょう、と。
 僕はもう、54歳ですが、実は10代の終わりの頃、『ふたりの女』の作者、唐さんのところに居た僕は、若手だけの発表会で、この駐車場係を演じました。その事は、僕の、その後の人生を、決定づけてしまったように思います。
 僕は、その時からずっと、青年の言葉に従って、自分の影法師を揺らしています。揺らして、揺らし続けて、気づいたら、54歳になっていました。
 でも、もしかしたら、そんな僕の記憶も、僕の脳ミソが加工した記憶なのかもしれません。嘘の、偽の、虚構の記憶かもしれません。
 でも、自分が持っている「記憶」が、虚構か現実かなどという問いに、そもそも何の意味があるのでしょう。僕には、その記憶が、こうして確かにあるのです。そうして、その記憶と今の日々の間で揺れ続ける事が、その揺れが、僕が死なずに生きているということなのです。
 唐十朗という人は、そもそも、そういう人でした。
 独立し、20年以上たってから、僕は唐さんに再会しました。その時、唐さんは僕に、「昔、お前と二人で、橋の欄干から飛び降りようとしたことがあったなあ」と言うのです。僕にはそんな記憶はまったくありません。しかし唐さんは、確かにその記憶を持ちながら生きているのでしょう。
 それが唐さんの人生なのです。
 唐さん。あいかわらず揺れています。いつか僕が何ものなのか、その実体が、わかる時が来るんでしょうか? その時、僕は、骨ですか? 灰ですか?

【筆者プロフィール】
飴屋法水 AMEYA Norimizu
演出家・美術家。「状況劇場」を経て、1984年「東京グランギニョル」結成。87年「M.M.M」結成。現代美術活動では、95年、ヴェネツィア・ビエンナーレ参加。2007年『転校生』(作:平田オリザ、製作:SPAC)演出、09年同作再演。14年『ブルーシート』で第58回岸田國士戯曲賞受賞。