※作品内容に言及する箇所がございますので、事前情報なしに観劇を
希望される方には、観劇後にお読みになる事をお勧めいたします。
演劇とは「自然に対して掲げられた鏡」とするデンマーク王子の台詞通り、個々の舞台は、それを生み落とした時代を反映し、批評すると同時に、「鏡」を作る者、見る者に、「お前は誰だ?」という根源的な問いを突きつけてくる。芝居についての言及が顕著に多いメタシアター『ハムレット』が、4世紀以上も飽くことなく上演されてきたのは、言語に囚われ、この世という舞台を演じざるを得ない演劇的存在としての人間を、「時代の縮図」である役者たちが舞台上で際立たせることにより、「だんまり役」に甘んじる観客たちの不安と懐疑を掻き立てるからではなかろうか。
演技する動物に対する思索と試行錯誤を如実に映し込んだ宮城聰の舞台も、時の流れに時に沿い時に抗いながら、観る者の心を揺さぶってきた。ロシア語で「空想から科学へ」を意味するオト・ウトピー・ク・ナウカは、熱情といった非科学的なイメージが伴う日本の1980年代の小劇場運動や、バブルマネーに沸く大衆的な商業演劇へのアンチテーゼとして、ゴルバチョフ政権や空想社会主義への皮肉的なオマージュとして、1990年に旗揚げされた。後にク・ナウカと短縮されるこの劇団の特徴的な手法である台詞と動作の分割、ロゴスとパトスの分断を打ち出すには、探偵小説のような複雑な筋を持つ話はそぐわない。誰もが知っている「世界で最も有名な古典劇」という理由から、宮城はシェイクスピア作品中で最長にして最難関とされる戯曲を選び、失敗に終わっている。
筆者はこの舞台を映像で見た限りだが、宮廷に仕える召使いたちが王侯貴族たちの悲劇を休憩時間にパロディとして演じ直し、最終的にはハムレットの死を祭り上げてしまう脇筋が原作の主筋を凌駕し、劇中劇が劇構造を侵食するこの翻案には、演出家が否定したはずの下世話な楽屋落ちで幕となる小劇場的な要素が前面に押し出されていた。興味深い趣向がなかった訳ではない。美加理がオフィーリアとガートルードのムーバー二役を担い、原作ではハムレットが母に放つ言葉を、恋人に投げつけるといった形で台詞を入れ替えた結果、二人の女を同一視する男性主人公のミソジニーがより強調されることとなった。従順で無口なオフィーリアのムーバーと、心情を現代口語で吐露する強固な自我を備えたそのスピーカーとの分裂に、ルネサンス期イングランドと平成日本との差異を見とることもできた。闇の中で独り水遊びをする宮城が担うクローディアスのムーバーに、「兄を殺して姉を犯した」男の孤独と狂気が示されていた。だが観客の多くは、宮城の目論む言動不一致や二人一役の手法を把握することはできなかった。
ク・ナウカが「ソロ活動期間」に入り、宮城がSPACの芸術総監督に就任する約1年前の2006年3月に行われた筆者とのインタビューにおいて、宮城は自らの手法を明確にせぬまま、当時の「観客の了解の範囲内に収めようとする思い切りの悪さ」を敗因として挙げている。 “To be or not to be”の問いは、演出家自身をも分裂させていたのである。
続けて宮城は、より重要な発見として「世界から切り離された」と憂うハムレットこそが近現代史上に初めて登場した己自身の欲望すら定かではない、よってその言動を切り離すには最も不適切な主人公であったと述懐している。この発見を発展させ、『ハムレット』を「孤独」を主題にした「解答ではなく、疑問を表現する芝居」と読み込んだ2008年初演のSPAC版『ハムレット』は、能舞台を想起させる方形の白布の上で展開されながら、ついぞ亡霊が召喚されることはない。武石守正が演じる荒武者ハムレットは、彼の脳内世界のメタファーであるかのような照明で切り離された半畳ほどの小空間に自らを囲い込み、鳴り響く楽器の音にも、新国王クローディアスの雄叫びにも、恋人の存在にも気付かぬかのように、ビー玉遊びに耽る。幕開けから程なくして復讐を命じる亡霊の言葉を独り言つ主人公を見るとき、観客は問わざるを得ない。このハムレットは、佯狂ではなく、本当に狂っているのではないか?
登場人物と戯曲を切り詰め、上演時間を100分間に納めた簡潔な舞台は、語り部ホレーシオと旅役者を除く王侯貴族たちが全員倒れた後に、爆弾発言をチョコレートと共に舞台に投下する。決闘を鼓舞する楽器の音が爆撃音に、ラジオノイズに、終いにはジャズに移り変わる中、パイプを咥えたマッカーサーらしき人影が床に伸びていく。第二次世界大戦後のアメリカ軍による日本占領をフォーティンブラスの王位奪取に擬えて響く“With sorrow I embrace my fortune”を、そして原爆を落とした敵を粛々と迎えるホレーシオの最後の台詞「当然国民大多数の意もそれに従うわけです」を、戦後76年目の日本に生きる観客一人一人は、どのように受け取ればよいのだろうか。
【筆者プロフィール】
エグリントンみか EGLINTON Mika
演劇研究者、批評家、翻訳家。神戸市外国語大学英米学科教授として教鞭をとる傍ら、舞台芸術から現代美術に至る広義の視覚芸術を中心に、The Japan Timesなどの日英語でのメディアで批評・翻訳活動を展開している。現在、宮城聰演出についての初の英語書籍を執筆中。