この5年間ほどで、アジアの舞台芸術におけるモビリティ(移動性・流動性)が飛躍的に増し、プロデューサーやアーティストたちの国際交流・ネットワーク形成が急速に進んでいる。その結果、国際共同制作も、かつてのようにそれぞれの国を代表するようなものではなく、トランスナショナルな(国家という枠組みを越えた)形へと変化しつつある。この『ペール・ギュントたち』もまさにそうだ。インドネシア、日本、ベトナム、スリランカから集まったアーティストたちが、ワークショップを重ねながらひとつの作品をつくりあげてきた。 続きを読む »
【寿歌】瓦礫の荒野と蛍の光―北村想『寿歌』における聖性(安住恭子)
北村想の『寿歌』は、戦後の日本の戯曲の中で、最も上演回数の多い作品といってもいいのではないだろうか。北村が書いてから四〇年ものときがたつのに、今なおどこかしらで上演されているのだという。それぞれのカンパニーが新作戯曲を上演することの多い日本の現代演劇の中で、それはかなり特異なことだ。なぜこの作品は、それほど演劇人を引きつけるのだろう。
おそらくその秘密は、この戯曲がはらむ透明な明るさと切なさにあるのではないだろうか。核戦争が終わった瓦礫の荒野を、旅芸人のゲサクとキョウコがあてもなく歩いている。するとその前に、ヤスオという男が現れ、三人はひととき共に旅をする。ただそれだけの話である。ゲサクとキョウコの会話も芸も、まるで冗談のようにいいかげんで、戦争で多くの人が亡くなったことや、仲間と行きはぐれたことなど、まったく意に介していない。それらへの屈託は一言も語らずに、リチウム爆弾の炸裂を花火のように眺めているのだ。つまり彼らは終末の世界に、純な生命体としてただポツンといる。この、一面の荒野にポツンと在る小さな生命という設定が、透明な明るさと切なさを、まずは引き起こすのだと思う。 続きを読む »